イチ「雨」
イチ「雨」
住宅街。雲の無い、真っ青な空。日差しがじんわりと暖かい。
私は傘を差して立っている。日傘ではない。ビニール傘だ。
ビニール傘を通して私の制服に太陽光が屈折して当たる。私は傘を回してみる。光もそれに倣った。そうやってスカートの柄を変えながら私は考える。
どうして私はこんな道の真ん中に立っているのだろう。誰かを待っているわけではない。学校に行こうとしていたのだっけ? わからない。
それにしても静かだった。音がしない。車の音も人の声も、風の音すらしない。
人の気配もない。なにもいない。電線に止まるカラスやハトも。
遠く、道の先に清掃工場の煙突が見えた。てっぺんからは白い煙が上がっている。あそこに行けば人がいるのだろうか? 私は一歩踏み出す。すると背後に気配を感じた。誰かいる! そう思った私は急いで振り返った。
そこには大きなシカがいた。私から三メートルほどのところに。
「っ!」
私はびっくりしてたじろいだが、シカのほうは私を気にするそぶりはなく頭を揺らしている。
わたしは緊張していたが、少し安心して、シカをまじまじと観察した。
大きな平たい角が二本。とても重たそうに見えた。角の端から端まで、たぶん私の腕を目一杯広げてもきっと届かない。背も非常に高い。私の身長よりはるかに高く、二メートル以上あるだろうか。きっとこのシカはヘラジカだ。いつだか図鑑か何かで見たことがある気がする。私は思った。お腹が空いているのだろうか? 仲間を探しに来たのだろうか? それとも…。
私が思考を巡らせていると、ヘラジカが大きな唸り声をひとつあげた。
私は仰天して固まった。だがヘラジカはその後、特別何かをするでもなく、その場にゆっくりと座り込んだ。そしてまた頭を揺らした。
私はヘラジカの動きが止まるのを待つと、息を整える。
よくわからないが、このシカに敵意は無いように感じた。
私は少し迷ったが、ヘラジカの方へ手を伸ばしてみる。それに気が付いたヘラジカは頭をあげると、私の手の方へ首を伸ばした。
ほんのあと少しで鼻先に触れる。その時、ヘラジカは急にそっぽを向いた。
私は酷く残念な気持ちになって肩を落とした。そして気が付いた。ずっとビニール傘を差しっぱなしだった。多分これが怖いのではないだろうかと閃く。
「ちょっと待って」
私はヘラジカから少し離れて傘を閉じた。と、同時に大量の雨が降り注いだ。
辺りは一瞬で暗くなり、目を開けるのもやっとなくらいのその雨は滝のようだった。だが風は無く、大量の雨が地面を打ち付ける音だけが響いた。私はヘラジカのことが心配になり、再度手を伸ばす。だが、触れた物は生き物のそれではなく、石のように硬かった。私は痛いぐらいの雨で目をしっかり開くことができなかったが、何とか目を凝らした。
そこには骨の頭があった。雨に充てられてヘラジカの身体がどんどんと溶けていのが見えた。どろりと肉がアスファルトに落ちる。辺りは肉と血で真っ赤になっていた。私は恐ろしくて、ただそれを呆然と眺めていた。
やがてヘラジカは骨だけになった。そしてついにその骨も崩れ落ちた。豪雨が骨に当たって四方に弾ける。そうして骨も徐々に溶けていく。雨は赤と白の濁りを瞬く間に流し去り、ついには二つの大きな角だけを残した。
私はそれを見届けると、またビニール傘を差した。すると瞬く間に雨は止み、青空が広がった。地面も乾いている。豪雨など無かったかのように澄んだ空気。雨の痕跡は、ずぶ濡れの私と、ヘラジカの角から滴る水滴だけだった。
私の恐れも不思議と雨とともに止んでいた。それどころか、なぜだか私は酷く面倒な心持になっていた。ずぶ濡れになったからではない。
「はぁ…」
私は深いため息をついた。私は傘を首と肩で挟む。そしてアスファルトに転がる大きな角の一つを両手で掴んで持ち上げようとした。だが、それはとても重く、重心もうまく取れない為、持ち上げられなかった。あきらめて手を放す。
「…無理だこれ」
私は更に面倒な気持ちになった。が、このまま捨て置くのもできないと感じた。
私は平たい角の先の突起に手をかけると、引っ張る。引きずれば何とか一つは運べそうだ。
「はぁ…」
もう一度ため息が出た。これは相当に重労働だなと思う。
私は歩き出した。左手で傘を差し、右手で角をずるずると引きずりながら。
少し歩いて思い出す。私はどこへ向かえば良いのだろうかと。だが、それすらも考えるのが面倒になる程、ヘラジカの角は重かった。
「…まぁ、いっか」
私は考えることを止めて、またゆっくりと歩みを進めた。引きずられ、少しずつ削れていく角の跡が、私に続いた。
久々に書きました。考えたり、考えなかったりして読んでいただけたら幸いです。