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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

これを恋と呼ぶのなら

作者: 結城ヒカゲ

 これを恋と呼ぶのなら、私は齢一六にして初めて恋をした事になる。

 相手は同じクラスの女の子。


 気が付けばその姿を目で追っている。声を聴くと心が弾む。

 彼女はたまに学校を休む。彼女のいない一日は退屈だ。


 彼女の名前は秋風紅葉(あきかぜもみじ)。明るく人懐こい性格で友達が多い。勉強は苦手だけど、運動は得意。ポニーテールが良く似合う元気っ子。

 身長は一五〇センチくらいで、私より五センチ程小さい。だから、秋風は私を見る時いつも上目遣いだ。ずるい。


 秋風は女の子で、私も一応女の子。世間一般ではこういうのをレズビアンというのか。或いは百合とか?

 呼び方なんてどうでもいい。要は、私はマイノリティという事だ。


 普通は恋をして、告白して、彼氏彼女になって、その先も関係は続いていく。


 だけど私は恋をして、おしまい。その先なんてない。その先を求めてはいけない。


 最近はLGBTだの、多様性だのという言葉が流行っているけど、そんなのは他人事だから言える事だ。綺麗事を吐いている奴らも、当事者になれば手の平を返すに決まっている。


 この思いは胸の内に秘めておかないといけない。だけど、思いというのは抑えようとして抑えられるものではない。

 

「どったの? 難しい顔しちゃって」


 教室で物思いに耽っていた私の顔を、秋風が覗き込んでくる。


「恋について考えてたんだよ」

「何それ? 哲学?」

「いや、倫理」

「ふむ」


 腕を組み右手を顎に当てて考え込む秋風。大きくはないが小さくもない胸が、両腕に挟まれて形を変える。

 そこに視線が行ってしまう自分に嫌気がさす。


 何やら考え込んでいた秋風は、ハッと何か思いついたようだ。


星乃(ほしの)、まさか、好きな人でもできたのか?」


 心臓が跳ねる。

 秋風は上目遣いで私を睨む。


「私というものがありながら! くっそー、どこのどいつだ! 私の親友のハートを射止めた馬の骨は!」


 秋風の中で私は親友というものにカテゴライズされているらしい。友達の多い秋風が親友と呼ぶのは私だけだ。

 その事が嬉しくもあり、悲しくもある。親友というのは、恋人に最も近く、最も遠い存在だから。


「さあ、誰だろうね」

「ヒントをくれ!」

「そうだなー」


 お前だよ、と言ってやりたい。けど、だめだ。それを言ってしまえば、全てが壊れてしまうから。


「うるさくて、ばかで、デリカシーのない奴、かな」

「それって——」


 やば、ミスったか? つい、本音がでてしまった。


 秋風は僅かに目を伏せる。長い睫毛が宝石のように輝く瞳を隠す。


「最低な奴じゃないか。お前、もうちょっと人を見る目ってやつを養った方がいいぞ」

「うっさい、ばか。お前はデリカシーってやつを養え」


 うん、知ってた。これくらいでバレるなら、もうとっくにバレてる。







 これを恋と呼ぶのなら、恋ってなんて素晴らしいのだろう。


 秋風と出会う前の私の人生は灰色、とまではいかないまでも、つまらないものだった。


 朝起きて、学校に行って、家に帰ってだらだらして、寝る。これの繰り返し。友達はいたけど、頻繁に遊ぶ程でもない。

 退屈な毎日を惰性で生きていた。


 秋風と出会ってそんな退屈な毎日に変化が起きた。といっても、私の生活が劇的に変化したわけではない。

 退屈な毎日に秋風が入り込んできた。ただそれだけで、退屈は退屈ではなくなった。


 私と秋風の出会いは去年の春。高校の入学式の日だ。





「そこ、私の席なんだけど」


 教室に入ると、何故か私の席に秋風が座っていた。


「え? あ、ほんとだ。ごめんごめん」


 秋風の席は窓際最前列。私の席は廊下側から二列目の最後列。未だになんであの時秋風が席を間違えていたのか分からない。


「私は秋風紅葉。よろしく!」

「はいよろしくー」

「おい! 私が名乗ったんだからお前も名乗れよ!」

「初対面でお前呼ばわりしてくる奴に名乗る名はない」


 初対面の印象は、うるさいチビだなー、くらいだった。

 この頃は退屈な毎日を変えようともせず、ただ無関心に生きていた。


「あはは、お前面白いな! えーっと、星乃(かえで)か。おお! 紅葉と楓! なんかシナジーありそうな名前だな!」

「楓って名前嫌いだから、呼ばないで」


 楓は大嫌いな父がつけた名前だ。だから、私はこの名前が嫌いだ。

 これを言うと大抵は、かわいい名前なのに勿体ない、とか言ってくる。それが嫌だった。けど、秋風は違った。


「そうか、悪かったな。なら、私の事も秋風と呼んでくれ、星乃」


 そんな返しをされたのは初めてだった。だから、少しだけ秋風に興味を持った。


 秋風はすぐにクラスの中心になり、友達もたくさんできた。一方で、教室の隅で仏頂面をしている私に声をかけてくるクラスメイトはいなかった。秋風を除いて。


「星乃、昼ご飯一緒に食べよう」


「眉間にしわ寄せてどうした? お腹痛いのか? 背中さすってやろうか?」


「ほ~し~の~、勉強教えてくれ~」


 秋風は、遠慮も躊躇もなく私の世界に入り込んできた。

 退屈に辟易しながら、退屈な世界に閉じこもっていた私にとって、秋風は救世主だった。


 たぶん、この時にはもう秋風の事を好きになっていた。

 その事を認めたくなくて、私は渋々秋風に付き合ってやっている、という態度を全面に出していたけど、それが照れ隠しという事は秋風にはバレていただろう。いや、どうだろう?


 ともかく、そんなこんなで、私の退屈な世界は秋風のおかげで一変した。

 

 私にとって秋風が救世主であるように、秋風にとっても私が何かであればいいのに。







 これを恋と呼ぶのなら、恋ってなんて難しいのだろう。


 私は秋風の事が好きだけど、女の子が好きというわけではない。

 まあ、初恋が秋風なのだから、本当の所は自分にも分からないけど。


 ともかく、私は秋風以外の女の子に興味はない。

 興味はないというと語弊があるけど、一先ず置いておく。


 私は女の子の裸を見ても別に興奮しないし、キスしたいとか、おっぱいを揉みたいとかの欲求もない。いや、おっぱいは揉みたいかな。……こほん。

 けど、秋風は別だ。多分、私が秋風に向けている目は、男子達と同じだ。


 秋風をそういう邪な目で見たくないという気持ちと、秋風の全てを知りたい、触れたい、という欲求がいつも鬩ぎ合っている。


 

 体育の授業の前は当然、体操服に着替える。


 秋風の中で親友にカテゴライズされている私は必然、秋風の側で着替える事になる。

 つまり、秋風の生着替えを真横で見るわけだ。


 カッターシャツを脱ぎ捨て、上はブラジャー下はスカートという、誘っているのか、という格好で、秋風は腕を組み私のおっぱいを凝視する。

 一応言っておくと、私は既に体操服に着替えている。

 一応の一応言っておくと、私はDカップだ。


「何食べたらこんなにおっきくなるんだ?」


 真剣な表情で秋風は、自分のおっぱいと私のおっぱいを揉み比べる。

 優しく包み込むような手つきに、私は声が漏れるのを必死に堪える。


 こいつ、誘ってるのか! 押し倒すぞ!


 などと、実行できる筈もない事を考えていると、秋風はぽん、と左の手の平に右手を打ちつける。


「そういえば、誰かに揉んでもらうと大きくなると聞いた事がある! 星乃、揉んでくれ!」

「……は?」


 こいつ今なんて言った? 揉んでくれ? 何を? おっぱいを? ダメだろ! いや、いいのか? 本人が言っているんだからいいのか? 揉むぞ? 私は揉んじゃうぞ? いいんだな? 後で訴えたりしないでよ? 本当に揉むからな? 本当にいいんだな?


 この間約0.1秒。私は恐る恐る両手を秋風のおっぱいに近づける。


 キーンコーンカーンコーン。


「やば、予鈴だ。急がないと」


 秋風は素早く着替えると、教室の出口へと向かう。


 私の両手が揉んだのは、なんの感触もない空気だけだった。


「おーい、星乃、急がないと遅刻するぞ」


 不自然な体勢で固まる私を見て首を傾げる秋風。


 そうだな。秋風の言う通り、急がないと遅刻する。

 けど、これだけは言わせてほしい。


 くそが!







 これを恋と呼ぶのなら、恋ってなんて楽しいのだろう。


 私には秋風以外に友達はいない。

 必然、誰かと遊ぶとなると、相手は秋風に限られる。


 その秋風とも頻繁に遊ぶわけではない。友達の多い秋風は、学校でもそれ以外でも、人に囲まれている事が殆どだ。

 その事に若干の嫉妬心がないとは言い切れないけど、大勢の中で楽しそうにしている秋風は、太陽のようにみんなを照らしていて、それを私が独占するなんて身の程知らずもいいところだ。


 それに、ふとした瞬間秋風と目が合う。その度に秋風はニッ、と私にだけの笑みを見せる。

 それだけで私の心は有頂天だ。


 一緒にいてもいなくても、秋風は私を楽しませてくれる。

 だけど、身の程知らずなのは分かっているけど、それでも、私は秋風を独占したいと、そう思ってしまう。



「ちょっと出てくる」


 リビングのドアを開け、ソファにだらしなく寝転びテレビを見ている母に告げる。

 のそのそと体を起こした母は、私を二度見する。


「どちら様?」

「あんたはかわいい娘の顔を忘れたのか?」

「たしかに私の娘は、私に似て美人で巨乳だけど」


 そこまで言って母は何かに気付き、ニヤァと口元が弧を描く。


「ははーん、さては男だな。おめかししちゃって、気合い入ってるじゃん」

「違うから。ただの女友達だから」


 母は一〇年前に離婚して、女手一つで私を育ててくれた。感謝しているし、尊敬もしている。

 それはそれとして、このダル絡みは普通にうざい。


「ふぅーん。ま、何でもいいけど、今度お母さんに紹介してね」

「しないから。いってきます」

「いってらっさーい」


 鬱陶しい母から逃げるように家を出た私は、弾む足取りで待ち合わせ場所に向かう。

 

 今までも何度か休日に秋風と遊ぶ事はあった。けど、この気持ちを自覚してからは、今日が初めて。

 今まではお互いラフな格好で碌にメイクもせずに気楽に遊んでいた。


 しかし、今日は違う。バッチリメイクを決めて、服も雑誌で見た今流行りのコーデだ。

 普段は着ない清楚な感じだけど、秋風はどう思うだろうか。かわいいって言ってくれるかな。


 待ち合わせ場所に着いたのは、約束の時間の一〇分前。いつもなら一〇分前には必ず居る筈だけど、秋風の姿はなかった。

 何かあったのだろうか。携帯を確認しても、秋風からの連絡はない。


 一〇分後。

 約束の時間ピッタリに秋風は現れた。


「やあやあ、お待たせー。思ったより準備に時間かかっちゃったよ」

「大丈夫、私も今来たところ……だから……」


 そこに居たのは天使だった。天使様が地上に御降臨なされていた。

 

 白のブラウスに紺のプリーツスカート。いつもはポニーテールの髪型も、今日は下ろしている。

 肩甲骨辺りまで伸びる艶やかな黒髪が、吹き抜ける薫風と躍る。


 天使以外に相応しい形容が見つからない。

 

 言葉を失う私とは裏腹に、秋風は私の格好を見て感心したように頷く。


「ほほう、今日はいつもと違った雰囲気だな。良いじゃないか! 良く似合ってるぞ!」

「ふ、ふーん、そう? まあ、ありがとう」


 動揺して変な返しをしてしまった。

 でも仕方ないでしょ。だって、秋風が似合ってるって。ふへへ。


「で、私はどうよ? いつも以上に大人な雰囲気でしょ!」


 秋風はスカートの裾をつまみ、カーテシーの真似事をする。


 何か言わないと。天使? いや、ダメだろ。無難に無難に。


「まあ、似合ってるんじゃない? いつもよりは、大人に見えるよ。中学生くらいには」

「おい! それは、いつもは小学生に見えているって事か!」


 あーもう! なんでこの口はこんな事しか言えないんだよ!

 あ、でも、プリプリ怒ってる秋風もかわいい。


「まあいい。それにしても、人が多いな。星乃、迷子になるなよ」

「それはこっちのセリフだよ。手でも繋いであげようか?」


 冗談めかして言ったけど、直ぐに恥ずかしくなって顔が真っ赤に染まる。秋風に気づかれないように顔を背けると、私の左手を何かが包んだ。


「そうだな。()()()迷子にならないように()()()()()手を繋いでやろう」

「ふへ?」


 これ! おてて! 秋風の! ちっちゃ! すべすべ! ひんやり! かわ!


 思考が纏まらない。秋風が何か言っているけど、ぜんぜん頭に入らない。手汗やばい。気持ち悪いって思われてないかな。

 手を放したいけど放したくない。


 その後の事はあまり覚えていない。ただ、一つだけ確かなのは、幸せな時間を過ごした、という事だ。







 これを恋と呼ぶのなら、恋ってなんて意地悪なのだろう。


 もし、私が男ならこんなに悩む事もなかったのに。

 でも、私が男だったら、こんなに秋風と仲良くなれなかっただろうな。


 秋風は男女共に友達が多い。しかし、その友達は秋風と同じように明るく社交性のある人達だ。

 秋風の友達の中で根暗なのは私だけだろう。そんな私が秋風と友達になれたのは、私が女だからだ。


 別に、秋風が根暗な人をバカにしているとか、そういう訳ではない。ただ、秋風は来る者拒まず、去る者追わずって感じで、自然と周りに人が集まるけど、秋風の方から声をかける事は殆どない。

 私との出会いは本当に偶然で、もし、私が男だったら、あの時秋風はあんな風に話しかけてはこなかっただろう。


 そして、私が男だったら、自分から秋風に近づく事はないだろう。


 結局、女だろうと男だろうと、秋風と恋人になる事はないのだ。



 こう見えて私は文学少女だ。部屋にある積読は一〇冊を超えた。

 今日も今日とて、暇をつぶす為に本屋を巡る。


 行きつけの本屋で新刊を物色していると、見覚えのあるポニーテールが視界の端に映る。

 こっそり後をつけると、そのポニーテールはあるコーナーで足を止めた。


 声をかけようかと思ったが、今の私の格好はティーシャツにジーパン。メイクも最低限しかしていない。

 こんな格好を見られたくないので気付かれる前に退散しよう、と踵を返そうとしたところで、ポニーテールが一冊の漫画を手に取る。

 その表紙を見た私は、びっくりして心臓が止まるかと思った。


 ポニーテール、秋風が手に取ったのは、女の子同士が抱き合っている表紙の漫画。所謂百合漫画というやつだ。

 秋風が立ち止まったのは、百合漫画のコーナーだった。


 もしかして、秋風も私と同じ……そんな期待が私の胸で膨れ上がる。そして、それは私の脳から正常な判断を奪った。

 

「おや? そこに居るのは秋風じゃないか」


 私が声をかけると、秋風はビクッ、と肩を揺らしゆっくりと振り返る。


「お、おお、星乃か。びっくりさせないでくれよ」


 秋風は手に持った漫画を背後に隠す。どうやら、あまり知られたくない事らしい。

 分かっているけど、私は舞い上がった心を抑える事ができない。


「こういうのが好きだったんだ」

「え? こ、こういうのって? ああ、漫画の事? これは、絵が綺麗だと思って手に取ってみたけど、内容はよく分からないんだ。ははは」


 乾いた笑いと共に、秋風は漫画を棚に戻す。

 

 下手なごまかしだな。秋風じゃないんだから、そんなのじゃごまかされないぞ。


「ごまかさなくていいよ。実はさ、私も好きなんだ、百合」

「え? そうなの?」

「うん。ここじゃなんだし、どこか落ち着ける所で話さない?」


 少し頬を染めながら頷く秋風を連れて、私は近くの公園へ向かった。

 ベンチに座り横を見ると、秋風はちょこんと緊張した様子で座っている。いつもと違うその様子に、思わず笑みが零れる。


「秋風も好きだったんだ。言ってくれれば良かったのに」

「あ、いや、まあ、うん。なんか恥ずかしくて」

「最近は百合作品流行ってるし、そんなに恥ずかしがらなくていいんじゃない?」

「そうかな?」


 気分が高まっているせいか、よく舌が回る。こういう時は、余計な事を口走ってしまう。


「あのさ、百合が好きって事はさ、秋風は女の子が好きなの?」

「え?」


 ほらね。私の馬鹿。早く、なんちゃってって笑え。


 困惑した表情の秋風を真っ直ぐ見つめる。口を開いても言葉が出ない。

 答えが聞きたい。馬鹿な私はそう思ってしまった。


 秋風はフッと小さく笑う。


「ないない。百合っていっても、所詮はフィクションでしょ。だからこそ楽しめるんだけどさ。私は漫画と現実の区別はついてるよ。あ、星乃の事もそういう風に見た事はないから安心して」


 秋風は、安心させるように私に笑みを向ける。

 その笑顔で、私の中の何かが壊れた。それは、理性か、心か、それとも私の全てか。


「星乃だって、百合が好きだからって、女の子の事が好きってわけじゃないだろ?」

「そうだな。私は別に女の子は好きじゃない」


 ゆっくりと立ち上がり、首を傾げている秋風を見下ろす。


 やめろ。言うな。口を開くな。


 私の意志に反して、私の口は秘めておかなければならなかった本音を曝け出す。


「私が好きなのは、お前だよ」

「へ? あ、ああ、私も星乃の事好きだぞ」

「違う! 私の好きは友情じゃない! 恋愛感情を含んだ好きだ! 私は、お前の事をそういう目で見ていた! 体育で着替える時、お前の体を見て興奮していた! 遊びに行った時、お前と手を繋いで幸せだった! どうだ! 気持ち悪いだろう! こんな奴と、もう友達でいられないよな! だから……」


 涙で滲む視界の先で、秋風はどんな表情をしているのだろう。想像もしたくないな。


「私は、消えるよ」

「待っ」


 気付いたら自分の部屋にいた。携帯の通知音がうるさい。

 携帯の電源を切り、私は眠りについた。


 翌日、私は学校を休んだ。







 これを恋と呼ぶのなら、恋ってなんて苦しいのだろう。


 恋なんて知らなければ、こんな辛い思いをしなくてすんだのに。

 これなら、退屈なままの方が良かった。



 ドアがノックされ、返事をする前に母が私の部屋に入ってくる。


「仕事は?」

「休んだに決まってるでしょ」

「そんな簡単に社長が休んでいいの?」

「いいのいいの」


 母は、私が寝ているベッドに腰掛ける。

 多分今の私の顔は、枯れる程流した涙の痕で酷い事になっているだろう。こんな顔、母にも見せたくない。


「それで、何があったの?」


 母は、背を向ける私の頭を優しく撫でる。


「別に、何もない。ただの風邪」

「はあ、何年あんたのお母さんやってると思ってるの? 分かるわよ、何かあった事くらい。話してみなさい」


 そんな事を言われても、こんな事母に言えるわけがない。

 もし、母に引かれたら、私は一生立ち直れない。


「何もない」


 拒絶を察し母は立ち上がった、と思ったが、母は私に馬乗りの状態になり、両手で頬を挟み無理やり目を合わせる。


「お母さんにとって一番辛い事はね、娘が辛い時になんの力にもなってあげられない事なの。本当に話したくないなら話さなくてもいい。でも、これだけは覚えておいて。お母さんは何があっても、絶対に貴女の味方だから」


 力強い真っ直ぐな瞳が、私の胸を射抜く。

 枯れた筈の涙が瞳を濡らす。


 ああ、やっぱり、お母さんは優しくてかっこいい。


 ポツポツと話す私の言葉を、母は静かに聞いてくれた。

 全てを話し終えた後、母は一度私の頭を撫でた。


「なるほどねー。それで、あんたはどうしたいの?」

「どうって……」

「学校行きたくないなら、辞めたらいいよ」

「え?」


 あっさりと言う母に、思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。


「そうしたら、うちの会社で雇ってあげる。うちは学歴なんか関係ないし、皆あんたの事大好きだから、すぐ馴染めると思うわよ」

「いや、ちょっと待って。色々わけ分かんないけど、一つ。なんで、お母さんの会社の社員さんが私の事知ってるの?」


 母の会社には行った事はないし、当然社員さんと面識はない。


「そりゃ、私が毎日自慢してるからだよ」


 こいつ、何やってんだ?


「ま、そういうわけで、うちの会社はいつでも大歓迎。そもそも、会社を作ったのは、こういう時の為だしね」

「どういう事?」

「ダメだった時の保険があったら、思い切って挑戦できるでしょ。あんたが何の不安もなく、やりたい事に挑戦できるように、あの会社を作ったの」


 さらっととんでもない事をぬかしやがった。

 私の為に会社を作ったって事? いかれてるな。


「で、どうするの? 学校辞める?」

「……」

「迷うって事は、未練があるって事だよ。秋風ちゃんとちゃんと話したいんでしょ」

「でも……」


 話したいよ。一方的に叫び散らかして逃げた事を謝りたい。もう一度、あの笑顔が見たい。

 でも、もう二度と、あの笑顔が私に向けられる事はない。


「怖いよね。分かるよ。今よりもっと傷つくかもしれない。でもね、ここで逃げたら、その傷はずっと貴女の心に残り続ける。お母さんは、逃げる事が悪い事だとは思わない。けど、人生で何度かは絶対に逃げちゃいけない場面があるの。貴女にとって今がそう。酷い事言ってるのは分かってる。けど、お母さんは貴女に後悔してほしくない」

「私は……」


 ピーンポーン


「こんな時間に誰かしら?」


 母は訝しみながら部屋を出る。


 分かっている。逃げちゃいけない事は。でも、怖いよ。どうしても勇気がでない。

 昨日の通知は、秋風からのメッセージだろう。それを見るのも怖い。


 携帯を手に取る。電源ボタンを長押しすれば、きっと秋風からのメッセージが表示される。

 手が震える。怖い。きっと酷い罵倒が……違う。秋風はそんな事いう子じゃない。それは分かってる。けど、やっぱり無理だ。


 携帯を置き、布団に包まる。


 コンコンコン


 母が戻ってきた。こんな情けない娘の姿をみたら、母も呆れるだろうか。


「お客さんよ」


 誰かが部屋に入ってきた。多分、母ではない。

 私にお客さんなんて、一人しか思い当たらない。けど、それはありえない。


「星乃」


 ありえない。ここに秋風がいるなんてありえない。


「急に来てごめん。風邪で休むって聞いて。心配で」


 なんで? なんで来たの?


「なんてね。嘘、だよね? 風邪っていうの」


 嘘だよ。お前に会いたくなかったから休んだんだよ。


「私のせい、だよね。今日休んだの」


 違う。秋風は何も悪くない。悪いのは全部私だ。


「私が星乃を傷つけたんだよね」


 違う。私が勝手に期待して、勝手に傷ついただけだ。


「ちゃんと、星乃と話して、ちゃんと、謝りたくて」

「なんでお前が謝るんだよ!」


 布団を跳ね退け起き上がる。制服姿の秋風はベッドの前で正座していた。


「やっと、顔を見せてくれた。あはは、酷い顔だな」

「なんで来たの! 消えるって言っただろ! もう、私に関わるなよ!」


 秋風はゆっくりと立ち上がり、ベッドに身を乗り出す。


「来るな! 来ないで……もう、期待させないで……」


 秋風は、私の言葉なんて聞こえてないかのように私に近づき、抱きしめる。


「っ! ふざけないで! 放せ!」


 私の弱弱しい抵抗を、秋風はものともしない。

 こんな時でも私の心臓は空気なんて読まず、早鐘を打つ。


「私は馬鹿で無神経だからさ、いっぱい星乃を傷つけたんだよね。星乃の気持ちに気づかず、親友だなんだって。ごめん。本当にごめん」

「違うよ。秋風は何も悪くない。全部私が悪いんだ。私が秋風に恋をしちゃったから」

「それは違う!」


 私の両肩を掴み宝石のような瞳に悲し気な光を湛え、私の目を真っ直ぐ見据える。


「私は、星乃がそういう風に思っていてくれた事が嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。確かに、星乃の事をそういう風に見た事は無かった。でも、嬉しかったのは本当なんだ。だから、その思いが間違いだなんて、言わないでくれよ」


 何でそんな事言うんだよ。ボロクソに罵ってくれよ。でないと、諦められないだろ。


「それに、私は星乃の思いを知って、その思いと向き合うと決めた」


 ダメだ。それは違うよ、秋風。私はそんな事望んでいない。


「だから、私と恋人になってくれ、星乃」


 ダメだ、ダメだ、ダメだ。答えるな。


 私なんかに、秋風の人生を歪ませる権利は無い。


「はい」


 儚げに微笑む秋風は、ゆっくりと顔を近づける。

 桜色の小さな唇が、私の物と重なる。


 辛くて、苦しくて、切なくて、痛くて、幸せな口づけ。


 私は、一人の人間の人生を歪めてしまった。それなのに、どうしようもなく幸せで、私は本当にろくでもない人間だ。


 苦くて甘い、幸せで辛い。これを恋と呼ぶのなら、











 恋ってなんて残酷なのだろう。


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