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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

わたくし、売られた妻ですので


 



 妻売り。

 離縁が認められていないこの国で、妻を変えたい夫が行う「人身売買」だ。

 

 売られる事情は様々で、妻を養いたくない夫の婚姻放棄・浮気の末の乗り換え・生活費の補填など多岐にわたり、いざ競売がかけられた日には多くの男性で賑わっていた。


 そんな屈辱的な市場に、男爵の妻が立つとは、誰も予想しなかっただろう。



「さあ! この私、ダルネスの女を買うものは居ないか!」



 陽の下で大声を張り上げたのは、ダルネス・キルスティン男爵、傲慢な顔に陰湿な笑みを浮かべ、堂々と妻を競りにかけている。


 その視線の先に立たされたのは、青ざめた顔をした妻リュネット・サルペント。白銀の髪・神秘を宿したような深き紫の瞳に宿るは諦めの色──かと思いきや、その瞳は鋭く輝いていた。


 ざわめく群衆。

 集まる好奇の視線に、蔑みの眼差し。

 沸き立つ熱気・耳に届く噂話。

 まるで処刑台のうえだ。



 どよめく群衆から、リュネットの噂話が聞こえてくる中。

 物語は、少し遡る。







 リュネットがダルネスと政略結婚を強いられたのは二年前のこと。リュネットが15を迎えてすぐだった。サルペント家の商業の影響力を背景に、ダルネスが家族の望む利益を求めてサルペント家に取り入り、彼女を手に入れたのだ。



 もちろん、その婚姻に愛情など一片もなかった。

 ダルネスは彼女を愛さなかった。



 婚姻を結んで二年間。

 リュネットは従順な妻として日々を耐え忍び、家の誇りと信念を守ることに専念してきた。


 しかしダルネスの態度は酷くなるばかり。やがてダルネスは、リュネットの存在を無に帰すばかりではなく、罵詈雑言を投げるようにた。



「その薄笑いを向けるな、興が削がれる」

「ああ、なぜお前のような能面を迎えなければならなかったのか」

「何を考えているかわからないのだよ!! 見透かしたように笑うな! 気味が悪い!」

「お前のような女を悪女と云うのだろうな! 薄笑いの蛇め!」




 そう罵倒されても、リュネットは笑みを絶やさなかった。「そうですねぇ、申し訳ありません」とほほ笑み彼をやり過ごし、夫の不在時には、屋敷でぽろぽろと涙をこぼしていた。



 彼女を育てた親は神の元。

 頼れる夫には虐げられて四面楚歌。


 地獄のような日々の中。

 リュネットは堅牢たる屋敷で、日々祈りを捧げ、幸せを願った。

 自分の幸せを。

 


 そんな彼女を追い詰めるように、悲劇が訪れる。

 リュネットの両親が事故で死亡したのだ。

 これにより、サルペント家の販路は夫ダルネスの手に渡り、リュネットは親の築いたすべてを奪われる形となった。

 

 それを待ち望んでいたかのように、ある日、ダルネスはリュネット告げたのである。



「リュネット、私には愛する人がいる。()()()()()()()()()()()()



 それは暗に、リュネットに対する宣告だった。


 この国では、「婚姻は、神に誓う特別な儀」だ。

 カルデウス神への誓いは絶対で、一度結ばれた男女が離れることはできないのだが──



 ひとつだけ抜け穴が存在している。

 それは、女にとっては屈辱の最高峰。

 半年に一度開かれる「命の市場」。

 夫による「妻売り」である。





カルディス教:厳格な掟と制約に基づき、結婚を最も神聖な絆とみなす、この地の宗教。離婚も不貞も、神祖カルデウスの怒りを招く。








「……わたくしが、売りに……出される……?」


 

 当てがわれた部屋の中。

 リュネットはひとり、呆然と呟いた。

 元よりダルネスとの婚姻が契約であることは100も承知、自分に興味など無いことも初めから解っていた。


 しかし、売りに出されるとは思わなかった。

 庶民の間で行われている「妻の放流」ならぬ「妻売り」が、まさか自分の身に降りかかるとは夢にも思わなかったのである。


 ダルネスに愛などないが、売られるのは御免だ。サルペントの娘として、商家(しょうか)の子として、自分が売り物になるなんて受け入れられない。



 売られた妻の末路は、おおよそ三つ。

 ひとつ、新しい夫に惚れられ、愛される。

 ふたつ、体の関係付きの家事手伝いとして買われる。

 みっつ、売れ残り娼婦の館に引き取られる。


 いずれにしても、売りに出された事実は変わることなく、不名誉の烙印であることに変わりはない。




「……奥様、大丈夫でしょうか?」



 いつの間にか隣に控えていた、侍女のネネが心配そうに声をかけた。どうやら青白い顔をしていたのだろう。それを映したように、ネネの表情は曇っていた。


 そんな心遣いに、リュネットは僅かにうつむき、ため息をつく。「ええ、大丈夫よ、心配かけてごめんなさいね」


 微笑みを浮かべてはいるものの、どこか物憂げな様子を崩さないリュネットを見て、ネネは溜まらず声をかけていた。


「……顔色が優れません、お休みになられてください、奥様……」

「良いのよ、ネネ。気を使うことはないわ」

「しかし!」



 悲痛な声が飛んだ。

 『哀れです、悔しいです』と語るネネの視線が刺さる。それを静かに受けるリュネットに、ネネは痛烈を湛え首を振った。



「奥様は、いつもお優しいですもの……。ご苦労が多いと、わたしたちも辛いです」

「仕方ないのよ、ネネ。これがわたくしの運命ならば、……」



 身に起きた不遇をすべて背負うかのように、リュネットは諦めを宿し首を振った。その仕草、物言い、振る舞いすべてで、「哀れな奥様だ」と捉えられるように。



 そんなリュネットのもとに、ダルネス男爵が戻られたのは二週間後のことだった。隣に、可愛らしい少女を連れて。





リュネット・サルペント(17)

ダルネス男爵の現妻。売りに出される運命。

性格:虎視眈々






「紹介しよう、リュネット。彼女が次期正妻・ナルシアだ」「まあ! お話に聞いた通りの不愛想な奥様ですのね?」


「だろう? 屋敷の人間には笑顔を絶やさぬ奥様などと言われているがね、不気味で仕方ないのだよ」「ああん、可哀想なダルネス様……、ナルシアが妻となりました暁には、そんな思いさせませんから♡」


「ああ、可愛いナルシア。それに比べてお前はなんだ、本当に気味が悪い」


「…………」



 ──「これが愛され女か」、リュネットは心の中で呟いた。


 ナルシアと紹介された女は可愛らしかった。

 華奢な体つき・大きな瞳・ふっくらとした唇は柔らかそうで、躰と笑顔で男を骨抜きにしてしまう容姿をしている。


 年のころなら15、16と言ったところだろうか。

 女性らしさの中にも幼さの混じる女だ。



 そんな女に、鼻の下を伸ばしている夫のダルネス……

 目の前で繰り広げられる仲睦まじい様子に、リュネットの中で沸き起こったのは、ただただ「情けない」の思いだった。



 ああ、情けない。

 こんな男を夫とし、今まで尽くしてきたなんて。


 ああ、情けない。

 愛が無いのは承知のうえだが、話し方・笑い方・全てに素養のない女に入れ込むなんて。

 (この人は、どこまでわたくしの顔に泥を塗るおつもりなのかしら。ああ、わたくしなど、初めからどうでもよろしいのでしたね)



 冷めた瞳で見つめるリュネットに、見せつけるように。

 ベルベットのソファーの上、ダルネスは艶めかしい腰に手を回し、ナルシアにうっとりとほほ笑むと、


「なあ、ナルシア?」「なあに? ダルネスさま?」


「君もこの屋敷で暮らすと良い。あの女のことは気にするな、今すぐにでも一緒に暮らしたいのだ」

「まあ、素敵。なら、ナルシアお願いがあるのです。聞いていただけますか?」



 可愛らしく首を傾げるナルシアに瞳で「もちろん」と答えるダルネス。


 途端、その口元が優越をまとい、はしゃいだ声は響いた。



「ナルシアのお世話役、あのリュネット……いいえ、オバサンにしていただきたいの♡ 若くて可愛いナルシアのお世話ができるのだから、リュネット(おばさん)も幸せだと思うのです♡」

「…………はっ……?」



 リュネットは呆けた声を上げた。

 何を言っているのか理解に苦しい。

 何を言っているのかわからない。

 時が止まった感覚に捕らわれそうになったが、しかしリュネットは理解した。



 わたくしに世話役を?

 へえ……男爵の妻のわたくしに?

 なるほど、貴族をよくご存じなのね。

 貴族は、()()()()()

 他人の世話など、屈辱の極み……!



 ネネの思惑に気づき、リュネットは静かに二人を見据えた。


 その静かなる視線の意味に気づくことなく、ダルネスはナルシアの躰を味わうように撫でると



「しかしナルシア? あいつはもう売りに出す妻であるぞ?」

「それまで半年はあるでしょう? その間、せめてものご奉仕してもらわなきゃ! そう思いませんこと?」


「おお、それはいい!」

「…………」



 あざ笑うかのように寄り添う二人を前に、リュネットの心は酷く凍てついていたが、ただただ静かに、「わかりました」と告げた。恭しく頭を下げたその口元には、微かな笑みが浮かんでいた。






 

 それからリュネットを待っていたのは、典型的な嫌がらせであった。



「リュネット、掃除もまだなの? 本当に使えないのね」「リュネット、貴方みたいな年増の婆があたしに仕えられるなんて奇跡なのだから、日々感謝なさい?」「……ちょっと? 椅子の位置が少しずれているわ? 整頓すらできないの?」「ちょっと、笑ってないで何とか言いなさいよ。……あ♡ そっかぁ、年増のおばさんは耳も遠いのね? 嫌だわ~ナルシア、そうはなりたくな~い」



 このような言葉は日常茶飯事。

 加え、食べ物を床に捨てられる・それを食べろと命令される・使用人は常に立てと言われ、気に食わないと物が飛ぶことも多々。


 ナルシアは元歌劇の歌姫だったようで、数多の男性から声掛けがあったとのこと。それらを袖に振り、ダルネスの愛人となった理由はもちろん、彼の爵位を狙ってのことだろう。


 その性格は醜悪で、とにかく、人を蔑み・見下し・精神的優位を取らねば気のすまぬ性格であった。



 リュネットとは水と油。

 『反りの合わない女が二人、同じ屋敷で顔を合わせる』。

 上手くいくはずもなかった。

 いや、上手くやるつもりもなかった。

 


 とある日のこと。

 粛々と世話をこなすリュネットの背を見て、ナルシアはつまらなそうに唇を立てた。



「ねえ。なんかつまんなーい。面白いことしなさいよ。おばさん」

「……」

「ちょっと聞いてるの? おばさん。聞こえてんのはわかってんだけど?」

「……」



 しかしリュネットは答えない。

 先ほど「黙れ」と言われたばかりだ。



「……!?」


 突如、ガツンと鈍い音。

 リュネットの頭に痛みが走った。

 衝撃に脳が揺れる。

 一瞬ぼやけた視界に抗い視線を向ければ、床に転がる銀の水差しが状況を物語っていた。



(──投げたのですね、これを)


 僅かに顔を歪める。

 じわり、と額に暖かなものが伝う。

 それが血液だと認識すると同時に、ナルシアの冷たく不機嫌な声が飛んだ。


 

「ほら、()()。しなさいよ。ナルシアを無視するなんてありえない。売られる女のくせに、何人間ぶってるの?」


 

 その声はひどく冷酷で、侮蔑を含んでいた。


 腕を組み足を組み、尊大に構えるナルシアと、床に座り込むリュネット。その光景に鉢合わせた使用人が慌てて逃げていく。遠のく足音を耳にして、ナルシアはくすりと笑う。



 かつん、かつんと音を立てて部屋を闊歩し、得意げな顔でリュネットのハンカチをつまみ上げると、彼女は一笑。無造作に投げつけ『拭けよ、ババア』と言わんばかりに鼻を鳴らすと、




「アンタなんて価値無いんだから。ご主人様を楽しませなさいよ。楽・し・い・こ・と・の・ひ・と・つ・で・も、やって見せたらどうなのゴミクズが」



 ナルシアの愉悦と嘲笑を含んだ声は、リュネットを上から押さえつけるように響き、そして愉快さを増していく。



「そうねぇ。下着姿で走るとか? 跪いて吠えるとか? ……あ、ひとりでヨガってるところ見てもらうぅ? 使用人呼んでよ、男の小間使いに見てもらいましょ♡ そうしましょ♡」

「……」


「なぁに? あははは、冗談よー♡ 冗談に決まってるじゃない♡  こんな冗談もわからないなんて、いやぁね。程度が知れるってものだわ♡」

「…………」


「何よその目。反抗的に睨まないでくれる? ナルシアの顔が汚れちゃうじゃない」




 愛くるしいその顔を醜悪に染めるナルシアに、リュネットは静かに目を伏せた。罵声を受けながら、静かに心に灯すは、鋭利な牙。


 

 ──そう、それでいいのです。

 思う存分、わたくしを蔑み馬鹿にしてくださいませ。

 


「っていうかおもしろーい♡ あんたもそんな顔できるんだ? へえ、蛇能面のままだと思ったのに♡」



 鏡をご覧になられたことはありまして?

 可愛いお顔が台無しですわよ、ナルシア様。



「今日は帰っていいわよ、リュネット。ふふ、今夜が楽しみね♡」



 そんなリュネットの内心など、知る由もなく。

 ナルシアは愉悦の笑みを浮かべ、組んだ足をゆらゆらとご機嫌に踊らせたのであった。






 ──絡まり響く唾液の音。

 劣情を抑えた男女の吐息が響く。

 ダルネスの膝の上、ナルシアは猫のように胸元へ顔を摺り寄せた。呼応するように抱きしめるダルネスの腕に、


「あ」。


 小さな音が漏れる。



「……熱いの、ダルネスさまぁ」

 ねだるように欲しがる彼女の声は、蜜のように甘ったるく。艶めかしい舌先が求めるのは、ダルニスの唇。



「ああ、ナルシア。お前を想っている」

 吐息交じりの欲情に、ナルシアの唇は更に彼を求め──たのを見届けながら、リュネットはひとつ、瞬きをしただけだった。



 欲望の渦に呑まれる彼らは、まるで蠢く虫のように滑稽で。リュネットの胸の内、静かに紡がれ溢れ出るのは”軽蔑”だ。




 ──愚かなものですねぇ。醜い振る舞いを人に晒し、それが恥とも思わないとは。これが、キルスティン男爵たる者の所業ですか。

 本当に滑稽です。



 ああ、百の侮蔑の言葉も足りない。

 千の凍てつく視線さえ、彼らの罪には物足りない。


 リュネットは細く静かに瞼を開き、胸の内で呟いた。



 ──さて、如何いたしましょう?










 それから、少しばかりの時間が流れた。

 ダルネス男爵は、あれ以降、自分たちの行為を見せつけることすらなかったものの、リュネットに対する侮蔑は相変わらずであった。



 その一方で、ナルシアの行動は日を追うごとに過激になった。それまで密室で行っていた嫌がらせは、ついにメイドや執事の前でも堂々と行われるようになったのである。



 しかしリュネットは、いくら攻撃されてもやり返さなかった。


 使用人が寝返っても咎めはしなかった。

 彼女に同情と哀れみを向け、親しみを抱いた末、ナルシアの取り巻きにやられる使用人を庇い、手当を施した。



  それにより、屋敷には明確な派閥と不穏な空気に包まれ、対立が深まっていった。



 リュネット派の使用人たちは、皆口を合わせてこう囁く。『哀れみの奥方』・『力になりたい』と。



 男爵の正妻で有りながら、ひどく不名誉な二つ名を背負うリュネットは、彼らの声を運ぶように、日々礼拝堂に通い続けていた。







 その日もまた、彼女はひっそりと礼拝堂を訪れていた。深々と膝をつき、凛とした声で神祖カルデウスへ祈りを捧げる。




 ──”我らが敬愛する神祖カルデウスよ。

 (しゅ)(さだ)(たも)うた〈魂の半身〉と、共に歩むべき道を見失いました。どうか聖なる御手により、貴方の御許へ還れるよう、光をお示しください……お示しください。”



 懺悔室で繰り返す懺悔の声は、あまりにも透き通り、場に響き渡る。それを表すかのように、リュネットが懺悔室を出た後はいつも、参拝客の視線を一身に集めていた。




 そんな視線をもろともせず、毎日通い詰めた、とある日。

 


 変化は突然訪れた。


 礼拝堂を出た彼女を待ち構えていたかのように佇む、見慣れぬ男性と目が合った。

 (……あれは、プレニウスの紋章?)

 仕立てのいい服に身を包んだ男の、襟元に光るそれに、リュネットが一度瞬きをした時。



 見慣れぬ男は、規律正しく立ち落ち着いた声で述べる。



「……リュネット・サルペント様ですね? 私、クルード・フォン・プレニウス伯爵に仕えております、ショーンと申します。クルード様が貴女にお会いしたいと申し出ております」







 クルード・フォン・プレニウス伯爵。

 その名を聞くだけで、一介の小貴族は背を正し、庶民が道を開ける大貴族だ。威厳・影響力も他の比ではなく、彼の一言で王が動くこともある、国王の右腕。『慧眼(けいがん)のクルード』と呼ばれるほどの観察力を持つ伯爵公。



 その彼が、なぜ自分に興味を持ったのか──リュネットは疑問に思いながらも、ショーンに連れられ彼のもとに赴いた。


 客間に通されてほどなく、現れたのは長い金の髪を束ねた男。紺碧の瞳に鋭さを宿し、冷静な理性が覗いている。



 噂に違わぬ神々しさに、リュネットは礼儀正しく挨拶をした。



 彼の人となりについては噂で耳にしていたものの、それ以上は計り知れない。ましてや、伯爵という高位の人間が、わざわざ男爵の妻である自分に面会を求めるなど、()()()()()()()



 サルペント商会への商談か。

 はたまた、ダルネス男爵への口利きか。

 それとも、ダルネスの情報を抜こうとしているのか、ダルネス家の婚姻醜聞について耳にしたのか──。



 それらを頭の中で弾きつつ、体裁のいい笑顔で、疑念と警戒を隠すリュネットに対して……プレニウスは黙り、立ち尽くしたまま動かなかった。



 挨拶は終えている。

 返答がない。



 そんな状況に、途端、ショーンとリュネットの視線が彼に集まった。「……クルード様?」ショーンが伺うように声をかけると、一拍。クルードは我に返ったように顔を跳ね上げ、険しさを宿し口を開く。



「……リュネット・サルペント殿。突然の呼び立て、失礼した。私はクルード・フォン・プレニウスという」

「……お噂はかねがね……、お会いできて光栄ですわ、プレニウス卿」

「…………」



 厳格に話始めたクルードに、リュネットはもう一度礼を交わした。



 先ほどの沈黙の真義は解らぬが、ただ一つだけ、明確に。


 ──”探られている”。


 それを悟りながら、リュネットは気付かぬふりを振りをした。






 

  談話は極めて平穏に進んだ。



 クルード・フォン・プレニウス伯爵は武骨な男だった。


 語る口調は貴族そのものであり、騎士のように精錬された言葉選びで、高圧的にも取れるが、それ以上に『厳格』という言葉が相応しい男だった。



 軽い世話話などしなさそうな彼だが、意外にもクルードは、世間話を交えながらも慎重に問いを重ねてきた。


 そこから滲む、彼の配慮と何かの思い。


 話す言葉の端々に感じる、どこか痛みを帯びた色と眼差しを心にとめつつ。リュネットは終始、柔らかな笑みを絶やさなかった。


 

 一切の隙すら無く。

 作り物めいた均整な笑みで。

 ダルニスに「薄気味悪い」と言われたこの笑みが、このような場面では最高に便利だと、リュネットは知り尽くしていた。



 そんな自分を、どう捉えているのか──。

 言葉の端々から、伯爵の鋭い視線がこちらを測る気配を感じるが、リュネットは涼やかに受け流す。

 ──いや、受け流しているふりをした。



 気取られてはならない。

 「薄笑いを浮かべる淑女」として、リュネットは伯爵公の言葉に調子を合わせながら、流れるように会話を進めていくと、話題は一変。


 商家サルペントの末裔である彼女を前に、クルード・フォン・プレニウスは話を商取引の相談へと移したのである。



 が、しかし。

 


 彼女は淑やかに表情を曇らせていた。

 すでにダルネス男爵が掌握してしまったサルペント家の販路。リュネットにできることなど何もなかったからだ。



「……申し訳ございません、プレニウス伯爵様。サルペントは、今はもう夫ダルネスの手の内……。わたくしの方から働きかけることは叶わないでしょう」



 『実家が乗っ取られた事実』を、憂いと悲しみで飾り、それでもほほ笑むリュネットに、その声は静かに響いたのである。





 「──おまえ、いつまでその皮を被り続けるつもりだ」


 





 ──瞬間、時が止まった。


 水を打ったように静まり返る談話室。

 互いにソファーに腰を掛け、張りつめる空気に目を見開く。


 リュネットの視界の隅で、クルードの付き人・ショーンが、静かに動揺をの眼差しを送る中。


 クルード・フォン・プレニウスは、その紺碧の瞳に鋭さを乗せると、憤怒を背負ったように言う。




「かのサルペント商会の販路がダルネスの手に落ちたのは存じている。ダルネス卿の婚姻にまつわる醜聞も耳にしている。それだけの悲劇に見舞われておきながら、おまえから感じるのは、作り物めいた悲壮感だ」



 黙るリュネットに、クルードは続ける。

 見通しているぞ、と言わんばかりの瞳で。



「……まるで、自らを『悲劇』で飾り立てようとしているように見える。違うか?」


「……あら。お見通しですのね」



 気迫漂う詰問に、リュネットが返したのは、あっさりとした肯定だった。途端、クルードの瞳が光る。「……ほう?」と眉を上げる彼にリュネットがほほ笑むと、クルードはその口の端に笑みを浮かべて口を開いた。



「認めるのか。悲壮の笑顔で同情を誘うか、もしくは怒り出すと踏んでいたのだが……違っていたようだな」

「随分と試されたものですね」

「……クルード様にその口利き……!」



 ショーンが思わず低い声で咎めるように割り込む。しかし、クルードは彼を制するように片手を挙げ、笑みすら浮かべて言った。

「ショーン。構わん。俺は彼女の真意を知りたいのだ」



 クルードの穏やかながらも核心を突くような言葉に、リュネットは目を細めた。「……真意、ですか?」



 問うリュネットに返ってきたのは、クルードの小さな息継ぎと、見通すような眼差しだった。


 

「ダルネスに嫁ぐ前、サルペント家に出入りしていた者から、おまえの話は聞き及んでいていた。『非常に聡い女性だ』と。おまえの賢さと知性は、貴族間でも噂になっていたのだ。それがどうだ? ダルネスの元に嫁いでからというもの、哀れな噂しか聞こえない」



 その言葉が宙に消えると、室内に一瞬の静寂が訪れた。


 リュネットは微動だにせずクルードを見つめ、その視線に応じるようにクルードもまた、目を逸らさずに応える。



 視線が交錯する中、リュネットは冷たい叱咤の気迫が叩き込まれる感覚に陥った。


『おまえはそんな女ではないだろう』


 無言の問いが胸を打つ。

 本質を表せと言われているような感覚に、リュネットは小さく息を吐き、静かに目を閉じた。




 ──これは騙せません。

 きっと彼は、わたくしに似ているのでしょう。

 この発言も、ただの挑発ではありませんね。

 確信を以って述べていらっしゃる──……



 ”経験と思考がなせる業。

  己で見、考え、導き出した答えへの信頼。”

 



 ──ふう……

 リュネットは小さく息をついた。


 それは、諦めか、それとも同調か。

 リュネットはそれまで浮かべていた「悲壮に満ちた」笑みを消し去り、冷徹で策略的な笑みに変え、ゆるりと唇を開くと、

 



「……なるほど。流石は慧眼(けいがん)のクルード様。わたくしの浅慮(せんりょ)な芝居など、とうに見抜かれておられましたか」


「──ほう? なぜそのように振舞う?

 男爵夫人ともあろう人間が、なぜ耐え忍んでいる?」

「……人は皆、哀れなものに心を寄せたいのです」



 クルードの問いに、リュネットは少し首を傾げ、微笑みを深め、続ける。



「憧れ・羨望・悪意・憐憫……。

 人が他人(ヒト)に心を寄せる理由はいくつかございますが、その中でも、「弱く可哀そうなもの」は人の心を奪います。もちろん、加減が過ぎれば嫌悪の対象になり得ますが、わたくしの場合はどうでしょう?」



 脳裏に浮かぶのは、屋敷の人間たちの顔や態度だ。


 ダルネスに忠誠を誓った執事が寝返った。

 日和見だった召使いが気をかけてきた。

 

 それが、「現状」。



「一方的になじられ、侮辱を受けています。このような場合、十中八九、人々は弱き者に加担する。その前では自分が『救いの手を差し伸べる善人』で居られますから。


 ──わたくしは、()()()()()()()()()()、ですわ」



「ほう……」感嘆の声が漏れた。


「つまらぬ女では無いようだな」

 にやりと笑い、目を合わせるクルードに、リュネットはくすっと微笑み返して述べる。



「あら。お褒め頂けるのですか? 光栄です、ふふ」



 策略と策略が交錯する空間に、咲き誇るは理解の花。


 腹の内の探り合いの最中見つけた共通点は、ふたりの距離を縮めるには十分だった。



「気に入った。『薄笑いの蛇』『菩薩の淑女』の噂に、飛んだ偽善女かと思っていたが……本性はそれか」



 愉悦に頬杖をつくクルードの声には、言い知れぬ興奮が混じっているようだった。



「おまえの目は濁っていない。今も野心を燃やしているな? ダルネスの仕打ちをどう返してやろうか、そう考えている目だ」

「さあ。どうでしょうねぇ」


 ここで返すは「蛇能面」。

 わざとはぐらかし、曖昧な返事を返すリュネットの挑戦的な姿勢に──「食えぬ女だ、ふ、はははっ!」



 返り咲いた感嘆の花。

 その笑いはまるで、彼女を許容し認めたようで。

 リュネットも意識せず口の端を緩めていた。


 考えを見せすぎたかと思ったが、そうではないのかもしれない。クルード伯爵の腹の内は掴み切れぬが、自分に対して興味を持ったのは間違いないだろう。



 そんな思惑を微笑みに隠し、わざとほころびを見せる彼女の前で。笑いを納めた彼は、ふぅ、と息を整えると、至極真面目な顔つきで述べたのである。



 

「──どうだろう? ダルネス男爵夫人……いや、リュネット殿。私に力を貸してはくれないだろうか?」







クルード・フォン・プレニウス伯爵

プレニウス領を納める大貴族。

カルディア王国の外務卿を務める。

性格は武骨で近寄りがたい。話し方も固い。

敬虔なカルディス教信徒。








 窓の外。

 リュネットを乗せた馬車を横目で見送るショーンと、クルードの間には沈黙が落ちていた。



「……クルード様」「ああ、そうだな」


 ショーンの声から滲む戸惑いを遮るように、クルードは一言言い放った。手にしているのはリュネットが残したシルクのハンカチだ。


 それを握り、指で確かめながら眉根を寄せて彼は続ける。



「あの女が俺を試しているのは解っている」


「はい、まるで、『何の用だ、どこまで語るのだ』と、ずっと叩き込まれているようでした」

「……ああ、流石はサルペント商会の娘だ」


「……ですが旦那さま、その、よろしいのですか? 彼女は……壊れているのでは?」



 暗に『協力要請など正気ですか』を含んだショーンの問いかけに空気が張りつめた。ショーンがごくりと息を呑む。クルードの僅かな苛立ちに気づいたのだろう。だが。


 ショーンは、クルードを伺いながらも、戸惑いを口にする。



「ダルネスに対して酷く冷酷というか、あそこまで恐ろしく冷たくなれるものなのでしょうか?」

 言いながら、ショーンは小さく身震いをした。

 彼女の作りこまれたエガオは異質だった。

 語る彼女の『本音』も、狂気に感じてしかたなかった。



 しかしクルードは武骨に首を振る。

 すべての可能性を列挙し、言葉を選んでいるような顔つきで腕を組むと、



「夫婦のことは解らん。もとより、政略婚の関係……、情など生まれなかったのだろう。それに」



 言いながらクルードは、ハンカチを握る手に力を込めて言う。



「リュネット殿は壊れてなどいない。あれは、壊れた人間の目ではない。……むしろ、壊れかけているのは周囲の方だろう。誰かが(なぶ)られる姿を見るのは、気持ちのいいものではない」

「……彼女は、それをも狙っているのでしょうか?」


「わからん。……ただ、彼女は、恐ろしく用意周到に状況を作り上げている」

「……それが、ワタシ(ショーン)には恐ろしく感じるのです」


「ショーン……それは、我々もそうでないか?」

 諭すように述べるクルードに、ショーンは、はっと顔を上げた。飛び込んできた主の瞳が問いかける。



「……茹るような怒りに駆られ、執念に突き動かされているが、我々は壊れているのか?」「……」



 ショーンは答えられなかった。

 自分自身は「壊れている」とは思わない。しかし、自分がリュネットに感じたように、他人には壊れているように見えるかもしれない。



「……いいえ、分かりません」

「なら問おう。お前から見て、俺は壊れているか?」

「──いいえ」



 ショーンはすぐに首を振った。

 クルードは怜悧冷徹な男だ。

 それは、今も昔も変わらない。


 しかしショーンはわからない。

 リュネットが見せた策略の巧みさと、仮面の下に潜む鋭さには息を呑んだが、それを踏まえて協力を申し出たクルードの考えが。



「……クルードさま、なにをお考えですか?」

「簡単だ。彼女が同志なのか、それとも”駒”に過ぎないのか……それを、見極める」



 不安を宿した問いに、クルードは端的に答え、窓の外に目をやった。日が暮れていく。燃えるような夕日を眺めて、クルードはぼそりと呟いた。


 

 「……同志か、駒か」

 その、どちらともつかない第三の選択肢を考えている自分に気づいて口を閉ざし、リュネットを思い浮かべた。



 彼女の目には、理屈では割り切れない力がある。

 彼女の雰囲気には、男でさえ躊躇う覇気がある。

 ────そして……



「……」クルードは、彼女の忘れたハンカチを折りたたみ、懐にしまい込みながら、口の中で呟いた。




「……しかし、あの女……愚図(ダルネス)の女にしておくのは惜しい……」



 呟く彼の鼻腔に、ハンカチから香るほのかな匂いが広がった。




ショーン:クルードの付き人

ネネ:リュネットの侍女




 一方、リュネットの馬車の中も静まり返っていた。

 馬の動きに合わせて、揺れるランプが影を遊ばせる。

 黙りこくる主人・リュネットに対し、隣のネネは慎重だった。


 主の無言に気を使いながらも、言葉を選びながら問いかける。



「……奥様……、クルード伯爵の申し出を、どう捉えますか?」

「彼は賢い御人(おひと)ね。わたくしたちに事情をお話になられたのも、こちらを読んでのことでしょう」


「伯爵様がダルネス様に恨みがあるのはわかりま」

「──しっ。口を慎みなさい。御者(ぎょしゃ)に聞こえてしまうわ」


 

 リュネットは素早くネネを諫め、馬を操る御者(ぎょしゃ)に目くばせをした。ガタンゴトンとけたたましく音を立てているが、完全に声が紛れるわけではないのだ。会話には気を付けねばならない。



 御者(ぎょしゃ)の動きを注視しながら、リュネットが思い出すのはプレニウス伯爵の吐露である。




 聞けば、クルードはかねてより、ダルネス家およびその周辺を調べていたらしい。その理由は語らなかったが、目的があるのは明白である。


 その最中、彼が掴んだ「こちらの事情」。

 ダルネスが奪い掌握した販路と人脈は、彼の人望の無さが露呈し、ぼろぼろと崩壊しかかっているらしい。

 それを分かっていながら、リュネットに話を持ち掛けたのは──更に、奥なる理由があった。



(……驚いたわ。彼にそんな事情があったなんて……)


 胸の内で呟きながら思い出すのは、クルードの問いである。

 伯爵ほど地位にある人間が、 男爵ごときに目を光らせている理由が脳に蘇る。




 『……サラ・マクラベルという名前を聞いたことはあるか』。

 静かな問いに首を振った。

 聞いたことのない名前だった。

 後ろでショーンが驚いた顔をしたが、クルードは続けた。



 『……そうか、口にもしないのだな。……報われない』

 述べる彼は心の底から悔しそうで、その気迫に息を呑んだほど。



 それを聞いただけで、おおよその推測は立った。



 彼にとって、そのサラが大切な存在であったこと。

 サラはもうこの世にいないこと。

 そのサラはおそらく、ダルネスと関係があること。


 それを裏付けるような長き沈黙の後。

 クルードは、絞り出すように話し始めたのである。


 

 『爵位に就いて、内密に調べさせた結果、ダルネスのもとに辿り着いてな。結果、リュネット殿の件も知る由となった』



 そう語るクルードには、武骨な痛みと申し訳なさ、云いようのない無念が漂っており、リュネットはそれ以上を問うことができなかった。



 おそらくあれが、彼の精一杯なのだ。

 男爵の妻である自分に言えることなど、今は限られていることもわかっている。

 


 ──事情は分かった。

 彼がもう少し、亡き妹サラについて情報を欲しがっていることも。ダルネスがサラに何をしたのか、そこを突き留めたいことも。



「……リュネット様? ()()()()()()()、よろしいのですか?」

「……ええ」



 これは好機かもしれない。

 家の名前・販路・サルペントの誇り。

 自分が売りに出される前に、取り戻す、最後の好機……!



「先方の事情はわかりました。わたくしも、このまま黙って売られる女ではありません」

「……では……!」

「──ええ。こちらから動きましょう。ネネ。力を貸して下さるかしら。貴方にしか頼めないの」

「……はい、奥様……!」

 


 こうして、売られる奥方・リュネットと、復讐の伯爵・クルードとの協定は、事実上結ばれることとなったのである。









 それから、少しの時が流れた。

 侍女のネネを橋渡しに、リュネットとクルードが連絡を取り合っているなどつゆ知らず。ダルネスとナルシアは相変わらず、他人を蔑みあざ笑う生活を送っていた。


 それに根を上げたのは、リュネットではなく使用人たちである。ナルシアの傍若無人の振る舞いにより派閥ができ、空気がギスギスしていたが、加えて嫌がらせまで加わったら勤めてなどいられない。



 屋敷からは、ひとり、また一人と消えて行った。

 しかし、ダルネスもナルシアも鼻で笑って気にしていなかった。


 使用人ならいくらでもいる。

 募集をかければ、金欲しさにやってくる。

 そう、高をくくっていたのだが──問題は、問答無用で襲い掛かってきた。



 ダルネスの世話係、ピヨールが逃げ出したのだ。旧知の仲であるピヨールの失踪は流石に堪えたようで、ダルネスは珍しくリュネットに泣きついた。



 『私など誰も愛してはくれない、リュネット、お前は違うだろ?』



 ……自分から「妻売り」に出し、愛人まで作り好き勝手やっているのに、何を言っているのだこいつは。と、リュネットは心の底から思ったのだが──



 彼女はそれを逆手に取った。

 ダルネスにひとり、真面目な使用人を紹介したのである。

 規律正しく、落ち着いた声を持つその使用人を、ダルネスはとても気に入った。




「おい、ショーン! 彼女がナルシアだ! 挨拶をしなさい!」

「はい、ダルネス様。初めましてナルシア様。わたくし、ショーン・マクラベルと申します」

「まあ! 素敵な青年ですこと! ダルちゃんのお付き? いいなぁ、ナルシアにもついてくれない?」

「はははは、冗談が過ぎるぞナルシア! お前にこんな男を付けるわけにいかない、すぐに食べられてしまうぞ? わたしがお前にしたように、な♡」

「きゃ♡ もぉ~、ダルちゃん、そんな恥ずかしいこと言っちゃダメ♡」「はっはっは!」「ふふふ♡」



 いちゃつく二人に、ショーンは心を閉ざし笑顔の仮面を身に着けた。これも全て、念願成就のためだと、静かに拳を握りながら。









 一方、リュネットとクルードの文通は順調だった。

 リュネットの侍女・ネネを橋渡しに、まずはご挨拶から。

 二人のやりとりは、どこかぎこちなさを纏い始まった。



 [拝啓 クルード・フォン・プレニウス卿

  ネラ地区の交易記録を送ります。

  サルペントの時代は

  ほぼ使われていない販路でしたが、

  最近動きが盛んのようです]




[拝呈 リュネット・サルペント様

  感謝する。

  この情報は非常に有用だ。

  取引の裏にある意図を探るべく、

  さらなる調査を進める。

  ショーンは元気だろうか?]




 [拝啓 クルード・フォン・プレニウス様

  ええ。

  毎日よく尽くしてくださいます。

  主人も喜んでおります。

  彼がダルネスを篭絡(ろうらく)するのも、

  そう遠くないでしょう]



 [拝呈 リュネット・サルペント様

  ショーンから報告を受け取った。

  ネラ地区の件だが、確かな情報を得た。

  おまえのおかげだ、礼を言う]

 



 ──はじめは「業務的」。

 しかし、言葉を重ねるごとに、不思議と固さが抜けていく。

 いつしかその手紙に、彩りと安らぎを覚えるようになっていた。





[拝啓 クルード・フォン・プレニウス様

  クルード様。

  お褒めにあずかり光栄です。


  今日は

  特に進展はありませんが、

  ペンを執っています。


  日差しが柔らかく暖かいです。

  庭先で寝ていたジョンを描いてみました。

  上手に描けました]




 [リュネット・サルペント様

  おまえは絵が上手いのだな。

  おまえの意外な一面を知り、

  心にほころびを覚えている。


  ジョンとやらの躍動感が見事な描写だ。

  機会があればぜひ乗ってみたい。

  とても立派な馬なのだろうな]




 …………ふふ。


 綴られた文字を前に、リュネットはほほ笑んだ。


 まあ、嬉しい。

 ただの文字に、こんなにも色を感じたことはあったかしら。クルード様は何を思って、こんな言葉を記してくださったのかしら。


 やりとりが暖かい。

 目的は違うと解っているのに……

 あなたは今、お元気でしょうか?




[拝啓 クルード・フォン・プレニウス様

  ご機嫌いかがですか?


  最近快晴が続きますね

  クルード様も遠乗りなど

  されるのでしょうか?

 

  追伸・ジョンは犬なのです。

  馬のようでしたか?]




[リュネット・サルペント様

  道理で躍動感があると思っていた。

  素晴らしい犬だ。

  

  おかしなことかもしれないが

  リュネット。

  俺は最近、

  おまえの手紙を心待ちにしているようだ。


  おまえの文字を見ると心が躍る。

  今日は何を書いてあるのだろう、と。

  浮ついては駄目だな。

  神・カルデウスの教えに背くわけにはいかない。


  追伸

  今日の欄外に描いてくれたのは、キツネだろう?

  野生らしさがにじみ出ている。

  よく描けているな]




[クルード・フォン・プレニウス様


  ダルニスがネラ地区の件で

  騒いでおります。

  勘づかれたのかもわかりません。

  ダルネスは知恵のない男ですが、

  勘は働きます。

 

  あなたに、

  神祖カルデウスのご加護があらんことを。


  追記・ウサギです]




 [リュネット・サルペント様

  ダルネスの手の者を捕らえた。

  リュネット、お前のおかげだ。

  礼を言う。


  最近、朝夕は冷えるようになった。

  おまえが身体を壊していなければいいのだが]




「……!」

 書かれた文字に、リュネットは、胸に便箋を押し当て、綻ぶ顔が緩まぬように力を入れていた。



 どうしましょう。

 重ねれば重ねるほど、罪と想いが募っていく。

 既婚者であるにもかかわらず、彼の言葉がうれしい。


 これは、神祖カルデウス様への冒涜かしら。

 神の選びし半身に愛されていないとはいえ、こんなこと……


 心が躍ってしまうなんて、あってはならないことです。

 まだ恋ではないわ。

 神に対する裏切り行為は出来ません。


 ──けれど、

「……こんな時間がずっと続いてくれたらいいのに……」



 祈るように呟いて、リュネットは机に向かいペンを執った。

 伝えなければならない。

 今日、あったこと。

 この先の話。





[クルード・フォン・プレニウス様


  今日は

  「競売の日が決まった」と知らせがきました。

  焦りが募ります。


  男爵の妻が売られるなんて、

  長き歴史にも例を見ないこと。


  黙って売られるつもりはありません。

  しかし

  烙印を背負うと思うと気が落ちます。


  神祖カルデウスが御導き下さった半身に

  好かれ愛されなかったのは

  わたくしの落ち度であり

  運命なのはわかっているのですが

  

  わたしも

  暖かな想いに包まれこの命を終えたかっ



  ああ、クルード様。

  このような泣き言を申し訳ありません。

  わたくしは強くあらねばなりませんね]

  



[親愛なる リュネット・サルペントへ

 

  二人だけで話がしたい。

  月が満ちる夜

  ルッソ湖のほとりで落ち合えないだろうか。

  良い返事を期待している]



「……!」






 クルードの手紙を読み終えて、リュネットは勢いよく顔を上げていた。


 驚いた。

 遅かれ早かれクルードとは落ち合うつもりでいたが、まさかこんなにも早く、しかもあちらから呼び出すとは思わなかった。


 思考が錯綜する。


 なにか動きがあったのかしら?

 あったとしたら、何かしら?

 ネラ地区の動きを悟られた?

 ダルネスの財務記録を持ち出していることが明るみに出てしまった? いいえ、違うわ、きっと、ショーンのことね……



 思い返すは数日前のショーンだ。

 その日、ダルネスとナルシアに引っ張られ、酒の席に着いた彼は、憤怒を閉じ込めた顔つきで部屋に戻っていったのである。


 その理由をリュネットはまだ、聞き出せずにいた。


 リュネットは予感した。

 きっとこの逢瀬が、何かしらの転機になる。

 ──それはつまり──



 こうして文を交わすことも無くなるのかしら……



 覚悟と共に湧き出す、一抹の寂しさと切なさに胸が痛い。

 彼とのやりとりは、ただの協定であり情報交換だとはわかっている。


 しかし、いつしか、手紙が来るのを心待ちにしていた。彼の文に暖かさを感じていた。紙面を前に、ほほ笑み、ため息をつき、それを抱きしめ空を仰ぐなど、らしからぬこともしてしまっていた。走るペンに思いを託し、妙なことを書いてしまったりもした。



 ああ、神様。

 カルデウスの教えの元、他の男性に思いを寄せるなど、許されることではありません。解っているのです。しかし、事の終わりが、事態の収束が、これほど寂しく名残惜しいと感じたこともありません……




「………………クルード様」



 ──ひとり。

 声に出したその名前は、彼女の中で淡く色を付け、胸の奥へと落ちて行った。


 






 月の満ちる夜、ルッソ湖のほとりは静寂に包まれていた。

 水面に揺れる月。

 風がさざ波を立てる中。

 リュネットは一人、控えめな黒いドレスに身を包み、柔らかな外套を肩に、空を見上げていた。



 ああ、静寂に浮かぶ月が美しい。

 煌々と降り注ぐ光は穏やかに広がり、まるで神に選ばれたような感覚に気が締まる。


 

 一昔前、戦乱の時代、戦に向かう兵士はこんな気持ちだったのかしら。己が世界を変え、導くという気概と、失うかもしれない恐怖を諫め立ち向かったのかしら。


 

 ──そう、思いを馳せるリュネットの耳に、馬の嘶きが届いた。

 そろりと振り返り闇の奥を見つめ息を顰める。

 闇の中から現れる人間は想像がついていたが、それを認識するまで安心など出来ない。


 

 がさりと音を立て、近づく気配に息を呑んだ。

 無意識に袖の刃に触れるリュネットは、次の瞬間。白銀の光に照らされた金の髪に胸をなでおろした。


 クルードだ。

 間違いなかった。

 長い金髪をひとつにまとめ、煌めく紺碧の瞳に宿った、やや優し気な色。



 気のせいか、初めて会ったあの日より少し、雰囲気が和らいだような印象を受ける。


 クルードの紺碧の瞳がリュネットの瞳を射抜いて、そのまなざしにドキンと息を止めた時。彼の、武骨で穏やかな問いは、緊張を孕んで投げられたのである。



「……追手は無いか?」

「ええ。お越しいただきありがとうございます、クルード様」

「こちらこそ、呼び出して済まなかった。本来ならば、このような手段を取るべきではないのだが」

「それを承知の上で参りましたわ。貴族ともなれば、移動に護衛はつきもの。ですがそれは、周りに『貴族の往来だ』と主張しているようなものですし」


「はは、それもそうだ」笑うクルードは少し砕けていた。



 ……彼は、こんなに柔らかな色を放つお方だったかしら?

 


 リュネットは小さく目を見開き観察した。

 横に立ったクルードは、覚悟と緊張を漂わせながらも、放つ空気がどこか穏やかで柔らかい。そんな彼に一瞬、『文から見えるクルード』が重なり、妙な納得感が落ちていく中。


 クルードはもう一度、気配を探るように目くばせをすると、倒木のベンチに腰掛け、座るように促した。



「それで、本題に入ろう。ダルネスがネラ地区で武器の取引を進めているという情報が入った。……これはおまえが送ってくれた記録のおかげだ」



 月光の夜。

 水面に静かな光が落ちる中。

 静かに切り出したクルードに、リュネットも静かに答える。 




「そう……やはり動きがあったのですね」

「おまえの洞察力には驚かされる。だが、その分、危険も伴うだろう。ショーンはどうしている?」


「……彼は良く働いています。ダルネスも気に入っています。……ただ……」



 そこでリュネットの声が一瞬途切れた。

 彼女の脳裏に過るのは、数日前。

 深夜の廊下で見たショーンの姿だ。


 この世の恨みを煮詰めたような気迫をまとい、鋭い眼差しで前だけを見据えていた、あの顔。



「ショーンにも、何か事情がおありなのでは?」

 問いかけには深刻と切実が入り混じっていた。



 瞬時、クルードの顔がわずかに歪む。

 リュネットはその変化を見逃さない。



「先日、ダルネスの酒の席に、彼が同席いたしました。その後、ショーンは鬼気迫る勢いで部屋に戻っていった。ダルネスに何を聞かされたのかはわかりません、けれど、あの様子は……」


 ”今にも誰かを殺しそうで”。

 それは飲み込んだ。

 言ってはならない気がした。



 途端、静寂が重くのしかかる感覚に、リュネットは表情険しく息をつめる。


 ああ、苦しい。

  水面に映る月明かりさえも冷たく揺れて、闇が全てを押し潰してくるかのよう。


 聞くべきではなかったかもしれない。

 けれど知っておきたい。

 それを込め、先を待つリュネットの瞳が、彼の紺碧の瞳と交わった時。


 後悔に揺らめいた紺碧が、諦めと覚悟を宿して事実を放った。




「……あいつは、サラの実弟(じってい)だ」

「……弟……!?」



 一瞬で駆け巡る記憶に血の気が引いた。


 クルードがかつて口にした“サラ・マクラベル”。

 おそらく彼の大切な人。だが、ショーンがその実弟とは……()()()


 思わず息を呑むリュネットに、クルードは静かに続けた。



「サラとショーンは同じ親から生まれた。戦争孤児だ。父上が俺の遊び相手にと引き取り、育てたんだ」


 

 聞こえてくる事実にリュネットの理性が飛んだ。

 胸を締めつける後悔と動揺を整理できない。駆け巡る冷感に震えが止まらない。ショーンを引き込むよう提案したのは自分だ。なんてことを、なんてことを。

 

 あ、あ……

 逃げるように口元を押さえようとする指に、暖かなものが触れて動きが止まる。クルードの大きな右手だった。

 震えを包み込むように握ってくれたその手は、まるで『自分を責めるな』と言っているようで、リュネットは恐る恐る目を上げていた。救いを求めるように。


 そんな彼女を裏切ることなく、クルードは、優しく悲し気な色で語りだす。


「……リュネット。おまえに聞いてほしいことがある」






昔話だ、と前置きをして、彼は静かに話し始めた。







 『サラ・マクラベル』という名を覚えているか?


 彼女は俺の妹だ。

 いや、妹のような存在、と言うのが正しい。

 ショーンは彼女の弟、俺は……彼らの、兄のような存在だった。



 レンザという村を聞いたことはあるか?

 プレニウス領の端にある小さな村落でな。

 昔は麦を育てる長閑(のどか)な村だったが、今はもう何も残っていない。


 「レンザの夜襲」で消滅したのだ。

 当時、プレニウスに不満を持つ敵対勢力が、滞在していた軍を狙って夜襲をかけ、多くの命が奪われた、凄惨な一件だ。


 サラとショーンの両親も、その犠牲者だ。


 俺の父、アンデリックは、己の滞在が悲劇を引き起こしたとして、彼らを引き取り俺と共に育てた。もちろん、伯爵の嫡子と村落の子では身分が異なる。平等というわけにはいかなかったが、遊びに興じた時は……その差は無かったように思う。


 俺とサラとショーンは、俺が一番年長でな。

 年の差は無いと同義だったが、俺の名を呼び、慕ってくれる彼らと遊ぶのは楽しかった。狩りにも出た。遠乗りもした。大切な妹だった。



 そのサラが奉公に出て、死の証(メダリオ)として帰ってきた。


 知らせを受けた時、心に穴が開いたように痛かったが、見ていられなかったのはショーンの方だった。「自死のようだった」と告げられても、到底受け入れられない様子だった。



 父のアンデリックも心を痛めていたようだが、サラの死の究明をしようとはしなかった。”育てた”とはいえ、共に過ごす時間は少なかったし、父にとって彼女は、罪の証のようなものだったのだろう。


 その後、父上が引退し、俺が伯爵の座についた。兵を動かせるようになり、俺たちはやっとサラの死を調べられるようになった。


 そして……





「ダルネスのもとに、たどり着いた……」

「ああ」



 重い、重い相槌に、リュネットは一瞬息を詰めた。

 しかし。


「……先を聞いても、よろしいですか?」「……」



 恐る恐る先を求めた声賭けに、クルードの顔が痛みに染まる。


 口にするのは苦しいのだろう。

 「吐き出したいが吐き出せない」、そんな葛藤がありありと見えて、リュネットはただ、言葉を待った。


 静寂が支配する。

 ずんと落ちた沈黙から這い出す様に、クルードは、大きく息を吐き出した後、遠慮がちに口を開くと、




「……ショーンが、やっと、掴んできてくれた。サラは、ダルネスに汚されていた。酒に酔ったヤツが自慢げに語っていたそうだ。何度も何度も犯したのだと。嫌がるサラは恍惚だったと。その内サラは逃げ出して、運悪くナルシアに拾われた」


 クルードの語る一言一言が重く、冷ややかに響く。リュネットは震えを隠せず、ただ黙って彼の声に耳を傾けるしかなかった。


「ナルシアは、サラに金を稼がせた。奴が劇場で上り詰めるための衣装や装飾品などの資金を、すべて。その上あの女は、容姿や体つきのことを散々貶し、自信を奪い、隷従させた」

「……それは、どこから」

「本人が語ったそうだ。ショーンに向かってな」



 瞬間、彼女の脳裏にショーンの姿が浮かび、繋がった。

 あの日、あの晩、あの酒の席。

 彼が聞かされたのは、その話だったのだと。

 

 『誰かを殺しそうで』

 先ほど飲み込んだ言葉が、納得を纏ってリュネットの中で舞消える中──クルードの悔しさを帯びた声が、その場に響いた。



「……その場で剣を取らなかったショーンに、俺は称賛以外の言葉をかけられなかった。……つくづく、俺は言葉を知らん」



 吐き出す嫌悪が闇夜に溶けて消えていく。

 水面に映る満月が、 静かに揺らめき静寂を落とす。


 それらに、整えられたのだろうか。

 やがてクルードは背を伸ばし目線を上げると、短く息を吐き出し、一拍。



「──死んだ人間は戻らん。それは解っている。私怨に塗れた復讐に、誰かを巻き込むなど愚かなことだと、それもわかっている。

 しかし、奴らをのさばらせるわけにはいかん。

 爵位・地位・名誉・財、全てを取り上げるだけのものが欲しい。……それを探していた。サラのことだけでは不十分だった」


「……爵位を取り上げるには、国王を動かさなければなりませんものね……」


「……ああ。だから俺は、俺はおまえを利用したのだ。……すまない」

 

 その言葉には、自責の念が込められていた。


 

「……そうですか。」


 リュネットは目を閉じ、胸を静めるように深く息をついた。

 そこには、悲しみも怒りも含まれておらず、あるのはただ静かな決意。『全てが腑に落ちました』と言わんばかりの表情で、リュネットはクルードに顔を向けると、



「……それで、取り上げられるだけの情報(もの)は揃いましたか?」



 深き紫の瞳で問いただす。

 まるで、今しがたまでその場に漂っていた悲哀や怒り、葛藤の全てを飲み込み、清冽(せいれつ)な刃へと磨き上げたかのような目つきだった。彼女の言葉に揺るぎはなく、決意は鋼の如し。



「足りぬとおっしゃるのなら、用意しましょう。欲しいものはありますか?」

「……リュネット……!」



 目を見開くクルードに、リュネットは素早く顔を反らし、そして静かに首を振る。



「あなたは「利用した」とお考えかもしれませんが、わたくしはそう感じておりません」


 

 述べるその声は、強さを帯びてはいるが、かすかに震えが混じっていた。僅かな隙間から見える、胸の奥に秘めた葛藤にクルードの視線が迷う。そんな中、彼女は、ぽつり、ぽつりと零すのである。



「あなたの誘いに乗ったのも、策を講じたのも、全てわたくしの選んだこと。……むしろ、報復さえしたかった。利用したのはわたくしの方です」



 固い口調で述べた。

 そこにあるのは覚悟と恐怖だった。

 ああ、本音を晒すのは、こんなにも怖いことだったなんて知らなかった。


 『蛇能面』も気高い自分も、こぼす言葉と共に儚く壊れていく。これを聞いた彼は、どのような反応を示すのだろう──


 その恐怖を待つリュネットに、隣から。

 彼の声は、驚きと驚嘆を纏いながら、低く柔らかく響いたのである。

 


「……お前は強いな」

「強くなど……ありません」



 リュネット逃げるように目を伏せた。

 頭の隅で、”意固地を壊すのは優しさだ”と理解しながらも、口は止まらない。



「わたくしは、弱さに抗うために戦っているに過ぎません。すべてを守るために、いいえ…すべてを取り戻すために」



 言いながら、彼女はすっと背を正し、クルードを正面から見つめた。


 その表情に浮かべるのは、糸の切れたような笑顔。

 悲しみと痛みを湛えながらも、慈しみに満ちたものだった。


 頑なだった心が揺れる。

 革がぽろりと剥がれ落ちるように、リュネットは力なく呟いていた。

 

 

「……だから、ごめんなさい。ショーンに……あなたに……わたくしは……」

「……それは、作り物ではないな?」



 言われ小さく息を呑む。

 重なる瞳から逃げるように顔を反らした。

 見透かされた、と居たたまれなくなるリュネットに、彼の穏やかな声が降る。



「おまえの真の思いだろう? そんな顔もするのだな、リュネット」

「……見ないでください」



 リュネットの声は掠れ、微かに震えていた。

 胸に押し寄せる感情の奔流に抗いながら、彼女は眉間に力を込めた。


 だが、その場の空気が彼女を許さない。

 逃げられないと悟った瞬間、心の奥底に押し込めていた言葉が溢れ出るように、口を突いて出る。



「お判りになられているのですか? わたくしはまだ、()()()()()()! あなたに惹かれるわけにはいかないの、なのに、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか!」


「愛おしいものを見るような顔で見るのですか!」


「……大体、迂闊なのです! サラの件も、どうして、どうしてあそこまで……! あなたのことは知りたかったですけれど、わたくしがそれを悪用したらどうされるのですか!」


「どうして、どうして、ほだされるようなことをおっしゃるのです!」



 はあはあと肩を揺らしながらも、胸が押しつぶされそうな息苦しさを覚える。抑え込んできた全てが溢れ出した結果だとわかっていた。


 しかし、そんな感情をぶつけても、クルードは動じない。

 彼の静かな瞳はリュネットを正面から捉え、彼女の動きを一挙一動、刻み付けているかのようだった。


 そして、リュネットの息遣いが静まりを見せてきたころ。彼は物憂げに視線を反らし、口を開ける。



「……「どうして」か……俺にもわからない。」

 

 低く、静かに漏れこぼれた彼の声に滲むのは、呆然たる迷いの色。しかしそれが、本心であることは明白だった。クルードらしからぬ沈黙に、リュネットの瞳が迷いに満ちた時。


 彼は、答えを探し当てるように、短く紡いだ。



「ただ――おまえには伝えたかった」



 上げた瞳がリュネットを捉える。

 決意を帯びた紺碧の瞳が、まっすぐ彼女を貫いた。



「おまえなら解ってくれると、俺はどこかで確信めいていたのかもしれん。おまえは、俺と同じだ。何かを背負い、戦うことを決めた人間だ。そうでなければ、こんな状況に巻き込まれながらも、ここに立っているはずがない」



 とくん、とくん。胸の奥深くから響く音が、恐ろしいほど大きく感じられる。張り裂けそうな衝動と、逃げ場のない感情に飲み込まれそうになりながら、名前がこぼれ出した。



「クルード様……?」

「──俺は、そんなおまえの笑顔が」


 クルードの声が微かに震えた。

 それは、迷いを断ち切り、初めて口にする想いだった。



「この世で一番美しいと思っている」







 月夜の逢瀬。

 別れた後。

 広い自室で彼が思い出すのは、彼女の叫び。




 『お判りになられているのですか? わたくしはまだ、()()()()()()!』『どうして、絆されるようなことをおっしゃるのですか!』


 感情的なリュネットを瞼の裏に、クルードは静かに目を閉じた。『わからない』と答えたが、それは半分だ。「残り半分」その理由は明白だった。

 


 目を閉じれば蘇る。

 彼女と初めて顔を合わせたあの日。


 忘れるものか。

 時が止まったような感覚。

 頭の中で響いた音。

 きっとあれが、ひとめぼれ(天使の旋律)というのだろう。だが、それは純粋に美しさを称えるものではなく、神の御心に背く危うい誘惑の調べだ。

 


 纏う髪は銀の糸。

 神秘を湛えたかのような深紫の瞳。

 英知を宿した表情に、──”美しい”。そう認識した瞬間、どくんどくんと鼓動が囃し立て、動揺に飲み込まれ、我を失った。


 ショーンが声をかけるまで、意識が飛んでいた。

 その動揺を隠しながらリュネットと対峙したのが、遠い昔のように思えて仕方ない。


 いくら一目で惚れたとはいえ、自分は爵位もち。相手はあの男爵の妻だ。利用するにしても協定を結ぶにしても、馬鹿な女を引き込むつもりはさらさらなかった。

 だから、試した。


 誰にでも愛想よくヘラヘラと笑う女は嫌いだ。偽善を振りまく女も好かない。ましてや、自分の愛嬌を振りまく女など虫唾が走る。

 そんな女ならば、例え敵が同じだとしても、共闘など申し込めるわけがないと。



 ──しかし。


 『あら。お見通しですのね』


 鎌をかけた先で、彼女は笑ったのだ。

 まるで、悪戯がバレたような声だった。

 彼女はクルードの想像の上を行った。 

 すべてを利用していた。

 

 聡い女は好きだ。

 強い女も好きだ。

 あれほど美しい女は見たことがない。

 



 カルデウスの教えに背くことは解っている。

 彼女が「売られた妻」という烙印を押され、傷物として忌み嫌われる女になってしまうことも。


 しかし、それでも、クルードは焦がれていた。



  「……今は駄目です。」

 別れ際の彼女の言葉が、胸の奥でまだ燃え続けている。


 ふと目を開けると、部屋の片隅で揺らめく蝋燭の炎が目に入った。



 リュネットが欲しい。

 彼女が欲しくてたまらない。





◇◇

 ──そして、その日は訪れる。

◇◇











「さあ! この私、ダルネスの女を買うものは居ないか!」



 柔らかく降り注ぐ陽の元、ダルネス・キルスティン男爵の意気揚々とした声は、広場に響いた。連れられた妻・リュネットの表情は冷静を落としたように動かない。


 白銀の髪・神秘を宿したような、深き紫の瞳に宿る、覚悟の色。


 沸き立つ熱気・耳に届く噂話。

 集まる好機の視線・蔑みの眼差し。

 ざわめいていた群衆がぴたりと止んだ。

 水を打ったように静まり返った広場を一望し、ダルネスはもう一度声を張る。



「なに、遠慮することはない! 男爵であるわたしの御墨付きだぞ!」

「誰も手すら上げないなんてぇ、リュネット様かわいそぅ~」


 『これで自由になれる! ほら、手を挙げろ愚民ども!』と言わんばかりのダルネス。その腕に絡みつくナルシアの、嘲笑を帯びた笑みが厭らしく光った。


 しかし、集められた主たちは動かない。

 その目線だけが冷たくダルネスたちを射抜く。



 ダルネスの額にうっすら汗が滲む。


 なんだこれは。

「どうした! お前たちにとって、絶好の機会だぞ!」

 声を荒げる。が、その言葉は虚空に消えていくばかり。


 何かがおかしい! そう感じはするが理由がわからない。

 妻の競売など、いつもは大盛り上がりのはずだ。

 男どもが好色の目で女を見定め、嬉々として金を出すのが普通じゃないのか!


 ──そう、瞳を動転させるダルネスの隣、見かねたナルシアが愛想笑いで声を投げた。


「皆さん、遠慮なさらずに!」

 ナルシアとて、ここでリュネットに買い手がつかないのはマズい。彼女を売った金で支払いを済ませる算段なのだ。そのつもりで高価なドレスを仕立てたというのに。

 その焦りは、ナルシアの口から「失言」となって飛び出していった。



「この女、サルペント商会の元娘よ!? ほらぁ! 庶民じゃ到底手が出ない女を売ってやろうッて言うんだから、っていうかなんで黙ってるのよ!? なんなのよこの空気!」

「「「…………」」」


 壇上の中央で、騒ぎ立てるはダルネスとナルシアのみ。

 店主たちは眉一つ動かさず、じっとナルシアを見つめている。

 その空気に気づき、ようやくナルシアは青ざめた。



(なに? なに? なに? この空気は何?)と混乱のナルシアの隣で、ぼそっとダルネスの声がする。「……待て、この顔ぶれ、見覚えが……」


 喉から絞り出したような呟きが、凍てつく空気に溶けた時。

 その静寂を破ったのは、広場後方に立つ一人の老店主だった。


「……神への冒涜が許されるとでも思っているのか?」

 その低く重みのある声に、全員の視線が集まる。


「カルデウス神を裏切ったおめえに、誰が金なんか払うか!」

「背信行為で家庭を汚し、領を支える我らを愚弄するとは!」


 別の店主が声を上げた。

 それを皮切りに、次々と怒りの声が広がる。


「お前たちのような輩に、我らの大切なものを預けられると思うか!」

「恥を知れ! 領主どころか人間としての資格すらない!」



 次第に怒声は増え、収拾がつかないほどに膨れ上がる。ダルネスとナルシアは次第に後ずさり、顔面蒼白となった。



「まて!まて! なぜお前ら庶民が不貞行為(それ)を知っている……!? ナルシア(かのじょ)はただの侍女だ! 決してそんな、痴れ(もの)ではない!」


「嘘つくんじゃねえ!」

「知ってんだぞ馬鹿野郎!」

()()()()()んだってなあ!!」

「不貞を隠すならまだしも晒すとは、何考えてんだバカ領主!」

「「──な……!?」」



 ダルネス・ナルシア声が重なる。

 ぐるりと歪み蘇る、『自分たちの行い』。

 確かに()()()()()

 妻の前で行う行為は最高に高揚し、何度もむさぼり合ったのを忘れたわけではない。


 しかしそれは、リュネットの前でしか行っていないのに!


 ダルネスは、震える瞳で妻を見た。

 この女、この女……!

「リュネット!! 貴様、まさか……!?」

「──あら。あんなものを見せたのはダルネスさまではありませんか」



 恥と怒りで真っ赤に染まるダルネスに、リュネットは顔色一つ変えずに一瞥をくれると、



「『夫の行為』など見せられて、わたくしが黙って暮らすと思われていたようですね。舐められたものです。わたくし、あのような痴態を見せつけられ、許せるほど器量よしではございません」


「貴様あああああああああ! 言いふらしやがったな!? ヒトの皮を被った悪魔め!!」

「まさか! 言いふらすだなんて下品な行いは致しませんわ。……ただ──、わたくしは、神に聞いて頂いていただけです」



 棘を宿して彼女はにっこりと微笑んだ。



 そう。

 彼女は毎日、足しげく通った礼拝堂にて、神の前で懺悔を繰り返したのだ。



 「神よ、夫に裏切られ、誓いを護れぬ私をお許しください」「夫は若き女に夢中で、私のことなど見向きも致しません」「目の前で情事にいそしむ夫らを、私はどのように許せばよかったのでしょう?」「ああ、神よ、お導きを。若き妻に、まるで赤子のように甘え行為を行う夫を、それに戸惑う妻を、どうか、どうか」



 彼女の告白は懺悔室を通じて徐々に広まり、礼拝堂の壁を超えて町の隅々にまで届いた。


 そもそも娯楽に飢えた民草にとって、『男爵の性趣向および浮気女の性癖』など、格好の娯楽である。瞬く間に民の話題を掻っ攫い、町中に知れ渡ることになった。



 リュネットがそれを知らなかったはずがない。

 それでも彼女は冷然と白を切る。


 彼女は空を仰ぎ、静かに手を組んで微笑むと、あたかも自らの潔白を神に誓うように告げた。

 


「不思議ですわね。神にお導きを頂いておりましただけですのに。町中に知れ渡って。これも神の悪戯でしょうか?」


「きっ……貴様! ふざけるな! このダルネスに恥をかかせやがって!! 死刑だ! 極刑だ! 売り飛ばすなど生ぬるい! 貴様、地獄に落としてやる!」


「……寝言は寝て言え、ダルネス男爵」

「……プ、プレニウス卿……!?」



 広場全体が一瞬で凍りついた。

 舞台隅から、威厳に満ちた足音と共に現れたのは、クルード・フォン・プレニウス伯爵。

 その姿はまるで一閃の刃のごとく。

 民衆はざわめきをあげながらも、鋭い視線と凛とした佇まいに飲まれ、誰も声を上げられなかった。


 ゆっくりと舞台へ歩みを進めるクルード。その足音が、静まり返った会場に規則正しく響き渡る。



「ダルネス・ドル・キルスティン男爵。貴様がネラ地区の販路を使い、ヴィハン帝国へ武器を流していたこと、そしてそれにより利益を得ていた事実は、既に調査済みだ。それが国王陛下への背信であると解っていての行いだろう? 答えろ、男爵」



 その冷厳な声には一切の隙がなく、反論の余地すら与えない。会場は静寂に包まれ、ただ彼の言葉だけが強く響いた。



「領地を守るどころか、己の欲に溺れ国を裏切った貴様の行いは断じて許されるものではない。神と国王陛下の名の下に、相応の裁きを受けてもらおう」

「……ッ!」



 ダルネスは目を見開き、口を震わせた。その顔には恐怖と怒り、そして追い詰められた者特有の焦燥が浮かび上がる。


 そんな彼を尻目に、民衆は一斉にクルードを見上げ、その圧倒的な存在感に息を呑む中。



「やぁん、プレニウス様ぁ~!」場違いな甘えた声が場に響いた。

 声の主はナルシアだ。

 まるで状況を理解していないかのように身をくねらせ、クルードに向かって駆け寄ると、


「助けてください! あたし、無理やり抱かれたんですぅ」

「寄るな、痴れ者が!」


 クルードの冷たい声が彼女を制した。

 びくんと震え止まるナルシアに、クルードは侮蔑の表情を向け述べる。



「貴様、不貞の女だな。この世で最も愚かしい愚図が、人の言葉をしゃべるな!」

「はぁああ? ちょっとなんなのえらっそーに!!」


 瞬時。

 開き直るように喚いたのはナルシアだった。

 先ほどまでの甘えた表情を消し去り、醜く歪んだ表情そのまま、感情的に言い返す!



「神? 半身? はっ! ばっかみたい! そんなもんいるわけないじゃない!」


 彼女の叫びに周囲は答えない。

 民衆の視線がますます冷たくなる中、ナルシアの叫び声だけが響く。


「どこにいるのよ! 見せなさいよ! ほら! いるっていうなら出しなさいよ! ほら! 出せないでしょ! 居ないって証拠じゃない! 馬鹿馬鹿しい!」

「…………滑稽な」

「宜しいではありませんか」



 酷く、冷たく一蹴したクルードを諫めるように、冷静な声を響かせたのはリュネットだ。

 彼女はその場に一歩躍り出ると、冷たさの中に慈悲を宿した面持ちで述べる。



「──カルドールの民とはいえど、全ての民が神を信じ崇めているわけではございません。中にはこうして背くものも居るでしょう……。姿が見えませんもの、致し方ありません。神祖カルデウスもお許しになられるでしょう」



 その言葉には皮肉が込められており、ナルシアだけでなくダルネスの顔にも影を落としゆく。


 「──けれど。」と、リュネットの次なる声が広場に響き、視線を集める中。彼女は言うのだ。

 


「神に背いたあなたたちを──、カルドールの民々が、領主として認め従うとお思いですか?」

 


 ざわりと広がる民衆の囁き声が、静寂の広場に緊張を孕んで響き渡る。民々の視線が冷たい鋭さを増し、次第に静まり返っていく。


 それが答えだった。


 水を打ったような静けさの中。クルード・フォン・プレニウス伯爵は冷ややかな視線でダルネスを睨み据え、僅かに冷笑を浮かべた。


「……無様だな、ダルネス男爵。これが貴様の愚行の果てだ。理解したか?」

「……ちがう、ちがうのです、伯爵様……!」


 縋りつく男爵を見下すクルード。


 しかし男爵は続けた。

「わたしは、わたしは、領のために、国のために、彼ら庶民にも気を配り心を削って……!」


 ほう、国のために? 身を削ったと。


「不貞は謝ります! プレニウス卿、これはすべて領民のため……いや、国家のために仕方なく! わたしは領民のために! 彼らを導くために!」

「……尽くしてきた、と言いたいのか」

「はい!」


 ダルネスは気付けない。

 クルードの問いの裏に潜んだ、静かな怒気に。

 クルードの瞳に、抑えきれぬ激情が蠢いていることに。


 人知れずリュネットが息を呑み見守る中、彼の問いはダルネスを撃つ。



「下々の者も愛し丁重に扱ってきた、と?」

「はいッ!」

「──ならば問おう。サラ・マクラベルを覚えているか」


 その問いは、今までのどんなものより重く、固く、その場に響いた。クルードは確かめようとしていた。しかし、ダルネスはぽかんと口を開けるばかり。



「……さ、さら……?」


 その存在すら知らないと言わんばかりに首を傾げるダルネスに、直後。狂気を怒りで抑えた笑いは、クルードから放たれたのである。



「──く……! ははははは! 覚えても居ないか! キルスティン! 貴様に犯され凌辱された挙句、ローズ家に落ち延びた私の妹だ!」


 息を呑むダルネス。みるみる顔色を変えるローズ。

 逃がさないと言わんばかりにリュネットが彼女を射抜き、言い放った。



「ナルシア・ド・ローズ。貴女も、サラに嫌がらせの限りを尽くしたそうですね。わたしに(おこな)ったように」


 怯えるナルシアの顔が語る、「赦して、許して」。

 しかしそんなことは関係ない。



「……サラはその後、命を絶ったのです。あなたたちの快楽と享楽の犠牲となったのです。さあ皆さん。彼らのどこが『領を導く立派な為政者(いせいしゃ)』でしょうか?」



 『すべてを白日に晒し、取り戻すため』。

 彼女は最後の問いを投げるのだ。

 ダルネスに切られ販路を失った、かつての同胞たちに。



「お集まりいただきました、元サルペントの販路を担う者たちよ!   もう一度問います! この方々を領主夫妻として、税を納め敬えますか?」


 リュネットの言葉に、最初は誰も口を開かない。

 しかし、誰かが低い声で呟いた。


「許せるわけがない……!」


 その声は瞬く間に波紋のように広がり、罵声の嵐を引き起こす。

「神を裏切った背信者が!」

「領を滅ぼす愚者どもめ!」

「恥を知れ!」



 憤怒の声が波紋のように広がる中、広場はまるで嵐の前の海のごとく荒れ狂い始めた。その怒りは、裏切り者への失望と神への忠誠心が交錯し、一人一人の心を燃やしていく。


 しかしそんな中で、青ざめたダルネスが、今もまだみじめに体裁を取り繕おうとしている。



「待ちたまえ! わ、私は領主だ!」

「国王陛下には(プレニウス)の方から直々に伝えておく。覚悟しておけ、男爵」



 ──それは、事実上の追放宣告。

 愕然と膝をつくダルネスの脇から、そっと逃げ出そうとするナルシアを、クルードは逃がさなかった。


「貴様もだ。ナルシア・ド・ローズ。神に背いた罰、その身をもって知るがいい」








 終わった。

 混乱の中で飛び交った怒号も、彼らを断罪する言葉も、今では静寂の中に消え去っていた。


 リュネットは広場の中央でひとり、薄暗く曇った空を見上げた。


「……終わった、やっと……」

 

 緊張の糸がぷつりと切れたように零していた。

 気づけば頬を伝う涙の感触。

 手に触れた水滴に目を見張り、リュネットは痛烈に眉を寄せて膝をついた。


 ああ、肩は小さく震えている。

 視界がゆがむ。

 瞼のふちが熱い。

 

 誇り高く気丈であろうとしてきたが、今だけは何もかも忘れ、心が解き放たれた気分だった。


 終わったのだ。

 ダルネスのもとで虐げられる日常も、ナルシアの振る舞いに惨めを噛みしめる日々も。


 ダルネスは今後、不貞と反逆の罪に問われ、裁きを受けるだろう。「競売に出された妻」であることは逃れられなかったが、混乱に乗じて買い手もつかなかった自分は、この後──どうしたら良いのだろう?


 リュネットはそこで初めて気が付いた。

 報復に心を燃やし、クルードと手を組み成し遂げたが、何も残ってはいないことに。


 サルペントを立て直すにしても、途方のない時間と労力が必要となる。今の自分には、なにも──……

 


「……リュネット?」


 後ろから響いた声に息を呑み顔を上げた。

 クルードの声に心臓が跳ね上がる。

 瞬時、涙をぬぐい、気を律した。

 ──泣き顔など見られたくはない。

 


「──はい」張った声で答えた。音は少し震えていた。


 足音が近づいてくる。

 広場に残る冷たい風に目を細め、気づかれまいと努めて表情を整えるものの、肩の震えまでは止められない。


 ああ、見られてしまうのだろうか。こんな無防備な自分を──

 そう思うと胸が苦しい。


 しかし、そんなリュネットを揺さぶるように、低く優しい声が届く。


「……泣いているのか?」

「いいえ」


 短く、けれどぎこちなく答えた。

 するとクルードは彼女の視界にゆっくりと現れると、一拍。すぐに視線を反らして口を開いた。



「……そうか。雨でも降ったか」

 淡々とした声。

 ぎこちなく空を見上げる彼。

「体が冷える。」



 ──ふ……。

 不器用な気遣いに、リュネットはかすかに噴き出していた。

 

 彼の存在が心強い。

 武骨な優しさに心が震える。

 彼が伯爵でなければ、わたくしが「烙印付き(売られた妻)」でなければ、この方の隣にいる未来もあったのかしら。


 ──そう、苦く甘く広がる痛みに、彼女が自嘲気味の笑みを浮かべた時。


 そっと肩を抱かれてよろめいた。

 遠慮がちの大きな手。暖かく優しい温もりに、リュネットは一瞬目を閉じ、心の奥から湧き上がる涙を飲み込む。


「おまえは、一人で全てを背負いすぎだ。だが、それができるおまえだから、俺はこの手を放すつもりはない」


 リュネットは驚いたように顔を上げた。信じられない。



「……クルード様? それは……」



 揺れる声に応えるように、クルードの眼差しが返ってくる。

 紺碧の瞳に宿るは、確固たる意志と、あたたかな色。



「禊を終えたら、婚約しよう。俺のそばで生きてほしい」



 一瞬、時が止まったように感じた。

 リュネットの瞳に映るクルードの表情は、今まで見たどの顔とも違う。冷静で毅然とした伯爵ではなく、彼女だけを見つめる、一人の男の顔。


 ふと、リュネットは唇にかすかな笑みが浮かべた。

 涙に濡れた顔のまま、彼女は首を軽く傾け、冗談めかした口調でこう述べた。



「……ふふ、わたくし、売られた妻ですのよ?」

「構うものか。俺の心は、おまえのものだ」











 その後。

 クルード伯爵は周りが頬を緩めるほど彼女を寵愛し、末永く幸せに暮らしたという。






END.



 

読破おめでとうございます!

ここまでありがとうございます!


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― 新着の感想 ―
一気に拝読いたしました。 リュネットの忍耐、そして堕ちていく男爵。 最後まで緊張の糸が切れませんでした。素晴らしいです!
最後の「あぁぁあれそういうこと!!?」が最高に気持ちよかったです。 そうだよね、この子のこれに意味がないわけながなかったね。 文を交わすゆったり感と それをこの場で読み進める小説ならではの臨場感。 …
性格:虎視眈々この言葉であっ、これ一筋縄でいかないやつだ!と理解しました。 そして、伏線部分も簡単な謎解き要素があって、あ〜ここでここで繋がるのか〜と、とても楽しめました! ここからもっと深堀された…
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