73話
※ ※ ※
「理人兄、おっはよー♪ ぼーっとしてると遅刻しちゃうよ!」
玄関を開けると、見慣れた満面の笑顔に出迎えられる。
波打つ栗色の髪、猫のように煌めく瞳、白い肌に紅潮した頬、チャコールグレイのブレザー、いまにもじゃれついてきそうな人懐こい笑顔。いつも通りの彼女の姿を目にして、俺は朝から脱力する。
「未唯……お前朝から元気だな」
「何言ってるの早く行こうよ理人兄!」
左腕に未唯をぶらさげて学園の前までやって来ると、前方に柔らかな黒髪を垂らす背筋の伸びた後ろ姿を見付けた。
「おはよう藤堂さん」
「おはようございます鷹村さん。相変わらず仲が良いですね」
俺の左腕を見てちらりと笑った藤堂さんに肩を竦めて見せて横に並ぶ。
「こいつは昔からこうなんだ。ずっと変わらずうるさい」
「酷いりっくん。放っておいたら一人で学園行っちゃうくせに」
「りっくんって言うな!」
「えへへ。ごめーん。でもでも、わたしだって変わったよ成長したんだよ。ほら理人兄だって知ってるでしょ」
「何をだ押し付けるな知らんわやめろ馬鹿」
「イチャつくバカップル馬鹿馬鹿しいんで、お先に失礼します」
「うわ藤堂さんその笑顔やめろ! ってか助けてくれ行くな! んで未唯! お前は離せ学園行くんだろ。いつもいつもこんなことしてるから遅れるんだとっとと行かせろー!」
「おっはよー鷹村。ラブラブだねっ」
「ふふ。おはよう鷹村君」
「あらあら仲良しなのはいいけれど、ちゃんと時間は守らないとダメよ」
清水が手を振り、一条が笑顔を見せ、栗城先生が優しくたしなめる。
「おはよーリヒト。毎日ほほえましいね!」
「あのね鷹村君、以前も言ったけどもう少し他の人のことも考えて色々遠慮できないかな」
「ああ……バカップル」
「鷹村君、学園生活を満喫するのは応援したく思いますが、そろそろ学生の本文である学業に戻ってきてもらえませんかねー?」
木村がどこかズレたことを言い、秋月が溜息を吐き、立木がぼそりと藤堂さんの言葉を反芻する。
俺は鏡先生の言葉に首を竦め未唯を引きはがし一階に押し出すと、急ぎ二階の自分のクラスに身を滑り込ませた。
清水が意味ありげな笑みを俺に向ける。両隣の男子生徒が冷やかすような笑い声を小さくあげる。
これはいつもの光景。代り映えのない穏やかな日常。
変わりなく繰り返されるKK学園での生活。いつも通りの俺。
※ ※ ※
水面から顔を出した時のようにぽかりと視界が突然開けた。目の前が暗い。視界を遮る物をどかし二度三度瞬くと、ゆっくりと目を凝らす。目に映るものを現実として脳に認識させるために。
そこは無機質な部屋だった。グレーのカーペットが敷き詰められ、白壁に囲まれた広い部屋で随所に精密機械が並ぶ。それらの保護のためか窓はないが、照明のお陰で室内は明るく空調の効きも良い。
その中央にあるリクライニングチェアの一つに、眠るように深く俺は腰かけていた。頭にはワイヤレスのヘッドセット、手首や太腿、足首にはセンサーバンドを装着している。俺が手にしているのはヘッドセットに付属したゴーグルだった。
「気が付きましたね。お名前と生年月日を言えますか」
静かな声を振り仰ぐと、白衣を着た細身の男性がタブレットを片手に俺を覗き込んでいた。細縁眼鏡の奥の目が、観察するように冷たく俺を窺う。
「鷹村理人。YY年MM月DD日」
「良好ですね。結構です」
男は頷くと背を向けてタブレットに何やら打ち込み始めた。俺は周囲を見渡す。壁際に設置された複数のモニター、その前に座り何やら作業する人々。恰幅の良い男によって俺の体から次々と外されるコードは大きめの装置に繋がれている。確かバイタルサインを確認する装置だ。
俺は自らの掌に目を落とした。握って開く。意思通りに動く。問題はない。
「……今回のダイブタイムはどのくらいだったんですか」
ヘッドセットとセンサーバンドを外しながら白衣の男の背に尋ねると、男はタブレットから目を離さず答えた。
「おおよそ六時間ですね。時間的には強制終了をスタートするタイミングでしたが、帰還ルートに入っていたので通常通りのログアウトを進めました」
あまりにも平淡な反応に俺が眉を寄せると同時に、横から若い女の声があがった。
「いないってどういうことですか!?」
見ると俺と同じようなリクライニングチェアから身を乗り出した女性が、白衣の女職員に鋭い視線を向けていた。どこか違和感を伴う、しかし見慣れた容貌……成人したリアルの藤堂さんだ。彼女は白衣の職員に渡された眼鏡ケースをむしり取ると、更に言い募ろうと口を開いた。
「どうした、藤堂さん」
そこに言葉をかぶせてやると、口を閉じた藤堂さんが俺を見て僅かに目を見開いた。そして安堵したかのように目許を緩める。
「鷹村さん……良かった」
「藤堂さんこそ無事のようで何よりだ。それでどうした」
藤堂さんが唇を噛み締める。
「この方によると、わたし達はサポーターによる正常帰還を果たしたそうです。半崎という開発者のことも知らないと」
俺は半袖から伸びる藤堂さんの白い腕を見た。特に傷跡等はない。俺は藤堂さんの近くに立つ女性スタッフに目を向けた。
「今日のダイブは終了ですか。この後我々はどうすればいいでしょう」
「十五分程お休みそ挟んでメディカルチェックとなります。特に体調等問題なければ隣室でお仕度をして帰宅頂いて構いません」
「明日はどうすれば良いですか」
信じられないという表情を俺に向ける藤堂さんを無視して女性スタッフに尋ねると、すらりとしたスタッフは軽く頭を下げた。
「通常業務に戻って頂いて結構です。これで本ソフトのテストプレイは終了となります。お疲れ様でした」
藤堂さんが無言で立ち上がった。目で追う俺の前で、テストプレイ用の白くゆったりした衣服の裾がひらりと踊る。彼女の向かう先は壁際中央に並べられた最も大きな三つのモニターとコントロールパネル。意図を察した女性スタッフが慌てて制止の声を上げる。
「お待ち下さい! まだ動いてはいけません!」
藤堂さんが目当ての場所に辿り着く前に、先程俺の様子を確認した細縁眼鏡の男性スタッフが彼女の前に立ち塞がった。
「いけませんよ。しばらく安静にして頂かなくては」
「慣れていますからお気遣いなく。プレイログを確認したいだけです」
「規定によりテストプレイの内容をプレイヤーに開示することはできません」
「開発中のプログラムを見るような真似はしません。あくまで自分のプレイした内容を見るだけです。それなら問題ありませんよね」
「申し訳ありませんが、規定ですので」
藤堂さんの顔は見えないが、そこに浮かんでいるのは恐らく底冷えするような綺麗な笑顔だろう。だが相手は取り付く島もない。騒動に気付いたスタッフの視線が集まり、モニタが次々とスリープモードに切替えられる。俺は小さく息を吐いた。
「藤堂さんやめろ。──わかりました。メディカルチェック終了後、今日は帰宅します。ログが確認可能になったら連絡下さい」
藤堂さんが振り向き、責めるような視線を向けてくる。
スタッフが揃って慇懃無礼なお辞儀をした。
「お疲れ様でした」
「……何で止めたんですか」
帰り道、何となく連れだって駅までの道を歩いでいると、藤堂さんがぽつりと言った。
「あそこで騒いでも仕方ないからな」
「でも! わたし達はバグによってログアウトできなくなった。それを半崎という開発者によって修復プログラムを起動させ、何とか帰還したんです! 鷹村さんも覚えてますよね!?」
藤堂さんが焦燥の滲む視線を向けてくる。
「藤堂さんは、そう記憶しているのか?」
藤堂さんが愕然とした表情になったので、俺は苦笑した。
「すまん。そういう意味じゃない。恐らく俺も藤堂さんと同じ記憶を持っている。だがそれを証明する術はない」
「だからログを……!」
「テストプレイ用ソフトは機密情報だ。例えプレイヤーと言えども他部署の人間が閲覧することはできない。ログも同様に扱われる」
「でも……ありえないです! わたし達のプレイ内容を誰も把握していないなんてことは」
「そうだな。プレイ内容やプレイヤーの様子は常時監視されている。だからあれだけ大勢の人間が見ていたとされる内容と俺達の記憶が異なっているとしたら、通常はプレイヤーの精神を疑う」
藤堂さんが口を噤む。ややしてその唇から発せられた言葉は、とても固かった。
「わたし達が、今回のダイブでおかしくなっていると」
それには答えず、俺は黙って歩を進めた。車通りの少ない道を、一台のバスが通り抜けていく。会社と駅を繋ぐ路線バスだが、俺達はそれに乗ることを選ばなかった。彼女は駅に着くまでに、今自分達の置かれた状況を確認し落ち着きたかっただろうし、俺も同じだった。
藤堂さんがぽつんと呟く。
「鷹村さんは、彼らのことを覚えていますか。清水律、一条雅、栗城爽子、高坂美琴……根津未唯」
「──秋月遼、鏡圭司、立木悠生、木村セオ」
続けてやると藤堂さんが目を伏せる。その横顔を努めて見ずに俺は軽い調子で続けた。
「結局本物の高坂美琴には会えなかったな。会ったら殺されて即ゲームオーバーだったのかもしれんが」
「……キャラクター数多かったですよね。その割にしっかり作りこまれていたと思います。サポートキャラもいい感じでしたし、人間関係の設定もしっかりしているように見えました」
「オリジナルプログラムを採用したからかシナリオが良かったのかわからんが、その辺は見習いたい所だ。刑事のキャラも印象深かったな。ミステリーではもう使われないような古臭い、いかにもなキャラクター造形ではあったが、土佐犬と中型犬が仲良く吠えているようで好ましかった」
「ええ。土佐……パ…………」
しばらく不自然な沈黙が続いたと思ったら、突如ぶはっと息の漏れる音が隣で上がった。振り向くと両手で口を押さえた藤堂さんが肩を震わせていた。
「土佐犬、パセ……なんのことかと……でもわかる、わかりますけどぶふっ! わかりすぎ、ツライ……くっ!」
どうやらツボにはまったらしい藤堂さんをまじまじと見て、俺は肩を落とす。そういや彼女は笑い上戸だった。
「ご、ごめんなさい。……ちょっと、何か変に気が抜けました……」
目尻に浮かんだ涙を拭った藤堂さんが、俺の顔を見上げた。それを見て俺は次の言葉を告げるべきか迷う。藤堂さんが少しだけ眉を下げた。
「わかってます。鷹村さんがあそこで止めたのは、わたしが精神汚染を疑われるのを防ぐためだって。あの場でわたし達が騒いでも何もならない。スタッフが異常なしと言うならそれがあの場での真実なんでしょう。でも……」
藤堂さんが少しだけ悔しそうに道路の方を見る。俺達の足はとうの昔に歩みを止め、会社帰りらしき人や車がちらほらと俺達の横を通り追い越して行く。
藤堂さんに言われるまでもなく、スタッフの態度を見た時瞬時にいくつかのパターンを俺は考えていた。
一つ。スタッフの言葉が正しく、俺達がロングダイブによる混乱状態にあるパターン。
全く可能性はないではないが、少なくともセルフチェックによるとそれはない。またプレイヤーの精神状態は専任のスタッフが監視している。彼らが何も言わないのだからその兆候もなかったのだろう。
だがあの場であれ以上藤堂さんと一緒に主張を押し通していたら、どう処置されるかわからなかった。場合によっては隔離処理を取られることもありうるし、精神汚染が疑われた患者の言うことなど誰も信じやしない。冷静になった彼女の言う通り、あそこでゴネるメリットはなかった。
そして一つ。俺達の記憶も正しく、スタッフの言うことも正しいパターン。
何らかの異常により外部から見える情報とプレイヤーの遭遇している状況に乖離が発生した場合。システムバグが本当に存在していたのであれば、ありえないとは言えない。
ただその場合、半崎という存在に疑念が残る。半崎がリアルな存在であればスタッフが知らないのはおかしいし、バグがプレイヤーの帰還を手助けする存在を作り出すはずもない。無事だった基幹システムセキュリティに元々存在した、所謂ヘルプキャラクターだったとしても自らをリアルの存在だと偽る必要もない。半崎自身がリアルの存在だと主張している以上、彼のことをスタッフが知らないはずがないのだ。
そして最後に考えられるのがもう一つ。俺達の記憶が真に正しく、半崎という開発者も存在し、なおかつそれをスタッフが隠匿しようとしているパターン。
この場合二つの疑問が残る。一つはプレイヤーの救助体制が整えられていなかった点。俺達が目覚めた時に見たのは通常のテストプレイと同様のスタッフ体制だった。どう見てもログアウト不可という緊急事態に対処するそれではない。栄養剤の注入跡もなかった。最もダイブ時間が六時間であればぎりぎり不要だとも言える。しかし──。
俺は自らの腕時計を見る。あの後、疲れていた俺達は意図せず眠ってしまった。長時間ダイブ後は脳の疲れから体が睡眠を欲することはままあることだが、一時間半程度寝てしまったらしい。だが本当にそんなに長く寝ていたのだろうか。
俺達が実際に時間を確認できたのは、全て終わって支度を完了してからだ。だから自分達が実際にどのくらいダイブしていたのか、リアルに戻ってきてどのくらい寝ていたのか本当の意味で知ることはできない。仮にリアルで寝ていたのが実は数分だった場合、今の時間から逆算するとダイブ時間は……
ふいに思考の渦に陥っていた俺の目の前に、不可思議な色を秘めた双眸が飛び込んできた。睫毛の一本一本がわかるような近い距離。手を伸ばせば触れる程に近付いた肢体から、甘い花のような香が立ち上る。それは成熟した大人の香であるにも関わらず、いつものレンズのない相貌は少女のようにあどけなく、アンバランスな色気を感じる。覗き込む瞳がぱちりと瞬く。
「理人兄、どうしたの? ぼーっとしてると遅くなっちゃうよ」
突然、目の前の光景が変わったような衝撃を受けた。
柔らかく響く声。よく耳にしたその言葉。
俺は今、自分がどこにいるのか誰といるのかわからなくなる。
彼女は藤堂さんになりたがっていた。自らを藤堂さんに植え付けてなり替わろうとしていた。オズ役の子がトトを演ったように。藤堂さんとしてリアルで過ごしたいと願ったのだ。俺と一緒に。
だけど俺はそれを叶えるわけにはいかなかった。代わりに他の願いを聞いた。だからそう。ここに彼女はいない。いるはずが、ない。
俺は長く息を吐き、唇を上げて不格好な笑みの形を作った。手を伸べて彼女のおでこをそっと押してやる。
「心配しなくていい。俺はあいつらを覚えている。藤堂さんは一人じゃない。大丈夫だ。今日は休んで──またゆっくり話そう」
戻した手の先で藤堂さんの顔が歪む。彼女の不安と心細さは多分俺が一番わかっている。わかっていなければならない。
突然戻ってきた現実、彼らのことを知らず、起こったはずの出来事をないものとして否定する周囲。同じ体験をしたはずの相手が向こうでのことを明確に口にしなければ、本当に自分と同じなのか確かめたくなるのも無理はない。
そしてそれは自分が正常だと、ここが本当に現実だと自らに言い聞かせる行為でもある。
俺の耳に悲鳴のような未唯の最期の声が甦る。そして思いの丈をぶつけるような、藤堂さんを呼ぶ声も。
思い出すだけで心臓が締め付けられるような、未だに耳にこびりついて離れないそれらを、きっと今後も忘れることはないだろう。多分、藤堂さんも。
藤堂さんが着いてこないことに気付き、俺は進めていた足を止めて振り返った。藤堂さんが立ち止まり、俯いている。そこにある小さな旋毛を見て、俺はつい口を開いた。
「……泣くんじゃねえよ。笑え馬鹿」
藤堂さんが勢いよく顔を上げる。零れ落ちそうな程大きく見開かれた瞳が、みるみるうちに潤み光を放つ。
「──それが、あいつらの願いだろう?」
白い頬に滴が落ちる前に、俺は藤堂さんに背を向けると空を振り仰いだ。
そこには宝石の欠片のように小さく孤独な存在があった。
自らの存在を主張するその名を脳裡に思い浮かべ、俺はゆっくりと目を細める。
冷たい風が緩やかに頬を擽る。
「……金星の女神。愛に生きるヴィーナス、か」
深い藍色の空には、宵の明星が小さな篝火のように美しく光っていた。