70話
きゃああああああああああぁ
怪鳥のような悲鳴が未唯の口から迸る。
未唯に物凄い力で振り払われ壁まで飛ばされた俺は、背中をしたたかに打ち付け呻いた。背中からずくんずくんと振動が届く。痛みは感じないはずなのに、まるで本当に骨折か何かをしたかのようだ。
あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
顔、首、胸、腰。未唯の体中を黒い線のようなものが這いまわっていく。秋月の時とは違う。速度も広がり方も。かたかたと彼女の体が細かく震える。
なぜぇぇぇぇなぜぁぁぁぁぁぁ
未唯を挟んでちょうど向かい側で、藤堂さんがゆっくりと立ち上がった。まだ片腕はぷらんと力なく垂れ下がっている。
「わたしが渡した修復プログラム、ですね」
「……」
無言の俺に代わり、藤堂さんが未唯に応える。
「それはわたしがキルちゃんを通じて受け取った修復プログラムよ。わたしでは貴女に近付くこともできないから、さっき吹っ飛ばされた時に鷹村さんに返したの」
あぁなぜぇぇえぇぇぇぇえ
肌を黒で浸食された未唯が怒りと怨嗟の瞳で俺を睨みつける。彼女の瞳が向かうのは、藤堂さんではなく常に俺だ。
「……俺はお前が藤堂さんとして現れたほぼ最初から違和感を持っていた。だからお前に修復プログラムを一つ渡すのと同時にもう一つをキルに託した。俺の手元にあったのは残りの一つ、そしてそれを真似て作った俺の試作品だ」
「秋月先輩に使ったのは試作品だったんですね。だからわたしの元にキルちゃんの姿を借りた秋月先輩が来れたんでしょうか」
「……さあな」
ずくずくと響く背中に顔を顰めそうになるが、それでも未唯からは目を離さない。目をそらしたい気持ちを押し込めながら、ひたすら彼女を見詰める。
ほぼ全身を黒く染めた彼女の中に浮かぶ瞳が、俺を突き刺さんばかりに爛々と光った。
あぁぁぁぁいぁぁぁぁぁぁぁ
更に甲高い声があがると同時に、三つの短い悲鳴が重なった。
床に九の字に蹲る鏡が、がくんと両膝をついた爽子が、無事な手でかろうじて自らの体をささえる立木が苦し気に呻いている。
「先生! 悠生!」
同時に天井や壁がみしみしと軋み始め、棚や机ががたがたと揺れだした。
彼らの元に駆け寄ろうとした藤堂さんが、地震のような揺れによろめき悲鳴をあげる。
「鷹村さん!!」
俺はひたすら未唯を見詰めていた。自らを抱き締め、髪を振り乱しながら鬼のような形相で叫びを続ける彼女を。
明滅を繰り返していた蛍光灯が落ち、床に細かい破片をぶちまける。
藤堂さんが頭を抱えて悲鳴を上げる。
棚にある扉が狂ったように開閉を繰り返し、あちらこちらで不協和音を奏でる。
黒い網目は彼女を押しつぶそうと束縛を強め、獲物の抵抗に収縮を繰り返している。
小さい彼女はさながら網に囚われた雛鳥のようだ。生存のために全身で抵抗している。
吹くはずのない強風が部屋の中を吹き荒れる。床が盛り上がり亀裂が走る。
上下左右の揺れが続き、平衡感覚が失われる。もうもうと舞う粉塵に息が詰まる。
壁に立てかけられた棚が大きく揺らぎ、轟音を立てて倒れた。ガラスの割れる音が一斉に響く。
地下室の扉が勢いよく閉まる。
その、まるで鋼鉄の扉でも閉められたかのような大音量が響いた後、部屋には再び静寂が訪れた。
全ての揺れがぴたりと収まり、不気味な静けさが辺りを覆う。藤堂さんが駆け出す。
「先生……っ!」
転がる鏡の元に屈みこんだ藤堂さんが、悲痛な悲鳴を上げた。鏡の顔は左半分が消え、全身のあちこちが虫食いのように開いていた。
爽子は肩の辺りを手で押さえているが、抉り取られたように失われた範囲が大きく隠しきれていない。
立木は蹲っていて見えないが、恐らく同様に消された箇所があちこちあるのだろう。
そして三人は体の随所を未唯と同じ黒で塗りつぶされていた。
「鏡先生! 栗城先生! ……悠生っ!」
三人の様子を確認した藤堂さんが、愕然として顔を歪めた。
「こんな……!」
俺はその言葉を顧みなかった。自分がしたことの結果を、ただ見詰めていた。
ポケットから細かい振動が伝わってくる。
あと10秒。
9
8
7
6
黒く染まった未唯が
5
ゆっくりと顔を上げて
4
乱れた髪の間から
3
鈍い光が覗く
2
俺は
1
時計の砂が全てこぼれ落ちた時、未唯が蕩けそうな程甘い甘い微笑みを浮かべた。




