66話
『まどかの傍にいたい。まどかの気持ちが他へ行っちゃう所は見たくない。まどかの姿が見えなくなるのはもっと耐えられない!』
ダメだ。その言葉はまどかを傷つける。
『君のせいで、木村セオは死んだ』
違う! 君だってそんなこと思っていないだろう。何故まどかを傷つけようとする!?
『わたし達は何も止められていない。セオは死に続け、事態は悪化の一途を辿っている。──更にどんな情報があれば、セオを止められるんですか?』
まどかのせいじゃない。僕が選んだことだ。そんなことを思わなくていい。
だって僕は──君のその八つ当たりのような言葉が僕に向けられたものだったらいいのにと思っている。僕が耳にしたことのないまどかの弱音。僕は……なんて罪深いんだろう。
『重度精神障害。最悪の場合廃人になる恐れすらある。外部によるプログラム改修を待つ訳にはいかない。これ以上のダイブは藤堂さんの心身におけるリスクが高すぎる』
……ああ。そうか。今まで僕は迷ってたみたい。真実から目を背けて、まどかの傍で過ごす日々を捨てられずに。でもそんな猶予はなかったね。
教えてくれてありがとうリヒト。僕は今決めた。
何があろうと、どんな卑怯な手を使おうと、まどかを元の世界に帰してみせる。
例え誰を犠牲にしようとも。
決めた。もう迷わない。だから、ねえ──
君もわかってるよね?
ぴんと張ったしなやかな二の腕がめきりと音を立てて膨張し、目で追うのも困難な速さで振り下ろされる。何かが壊れる衝撃音と共に、室内に白い埃が舞う。
呆然と見るしかないわたしの前を猛る獣が駆ける。悠生には今、目前の敵を排除することしか眼中にない。
──というかあの腕おかしいでしょ! どう見ても普通の力じゃないじゃない!
悠生の咆哮が響く中わたしが抱いたその考えは、ぎりぎりの所で攻撃を避ける鏡も一緒だろう。未だまともに悠生の攻撃を受けていない鏡だが、その表情には一切の余裕がない。それはそうだろう。悠生の拳が当たった場所の惨状を見れば、余裕なんて生まれるはずもない。
「──はっ! 獅子の寝惚けは洒落になりませんねッ!!」
悠生が突き出した左拳を鏡が竹刀でいなす。力の方向を無理矢理変えられた悠生は、つんのめるようにしながら勢いそのまま窓に拳を叩きつけた。
大きな音と共にガラスが粉砕される。キラキラと舞う破片の中で、悠生は自らの拳を顧みることなく底光りする視線を鏡に向けた。対して鏡は構えを崩してはいないものの、有効な一打を与えられずに攻めあぐねている。
悠生の動きは獣のそれだ。鏡の剣先が腕や肩に何度か当たっているはずだが、それを物ともせずに立ち上がってくる。どうすれば行動不能にできるのか、そもそもダメージを与えているのかすらわからない。
何とか躱して逃げられないかと教室の端に目を向けると、何故かぴしゃりと扉を閉めた爽子が笑顔でこちらにやってきた。
「先生!? 何をやってるんですか? 隙を窺って教室から離れないと」
「あら藤堂さん。立木君をこのままにしちゃダメだわ」
「そう言われても、これじゃあわたしには手を出せません」
もう一度彼らの方を見る。ちょうど鏡が再び悠生の拳を竹刀でいなした所だった。かなりの衝撃なのだろう。鏡の表情が険しくなる。
「いい。藤堂さん。少しでもいいから立木君を止めるの。貴女にしかできない」
「と言われても……」
一瞬止めるだけならともかく、それでドラマか漫画のように悠生が元に戻るとは思えない。そしてわたしは確証もないのに彼の前に立つような自殺行為で周回するつもりもない。
「大丈夫。一瞬でも立木君の気が逸れてくれればいいの。藤堂さん、貴女がやるのよ」
言われて爽子に向けていた目を悠生に向ける。
悠生がいつもの彼でないことはわかっている。でもそれは他の生徒達も同様で、逆に鏡や爽子が何故いつも通りなのかわからないのだから、悠生を元に戻すヒントなんて一切ない。
わたしが逡巡する間に、悠生の拳を鏡の竹刀が正面からまともに受けた。力技になっては敵わないと距離を置こうとする鏡に対し、逃さないとばかりに悠生が刀身を掴む。焦りの表情を浮かべた鏡が即座に悠生の逆手を警戒する。そこに振り上げられたのは──右足。
咄嗟に竹刀から手を離しガードしようとした鏡の腕に悠生の足が容赦なく打ち込まれる。衝撃を抑えきれずに鏡が横凪に吹き飛ばされ、倒れた机の中に突っ込んだ。大きな音にわたしの体ばびくりと震える。
怖い。そうわたしは怖いのだ。悠生のあの暗い瞳が怖い。何の感情も窺えないあの手が怖い。
あんなに優しかった瞳が。相手を慮るようにおずおずと伸ばされていた手が。
変わってしまった悠生の前に立つのが、わたしは怖い。
机にぶつかった時にどこかを傷めたのか、鏡はぴくりとも動かない。悠生がそこにゆっくり向かう。それが鏡を助けるためでないことは、わたしにでもわかる。
「ダメ! 悠生っ」
流石にそれ以上は見ていられなくて、怖くて。わたしは悠生の背中に抱きついた。想像より細い腰に両手を回して引き留める。
「お願いいつもの悠生に戻って!」
わたしは甘かった。これはゲームでわたしは少なからず彼に好意を持ってもらえたプレイヤーだから、わたしなら彼を止められるのではとどこかで期待していたんだと思う。
でもそんな甘い期待は打ち砕かれた。正面から彼の目を見ることもできないわたしに、ヒトカケラの視線も寄こすことなく悠生はわたしの腕を引きはがすと、まるでそこらにあるゴミのようにぽいと放り投げた。
一瞬の浮遊感。そして落下。机の角が背中にあたる。息が詰まる。椅子の脚が腕を頬を抉る。床に打ち付けられたわたしの上に、いくつもの机と椅子が倒れかかってくる。目の前に迫る恐怖に、知らず悲鳴が漏れる。
その一瞬の間に、ただひとつだけわたしが見たのは。
キィィィィィィィィィィ──────ッ!
宙に浮く机の隙間から悠生の目を見た気がした次の瞬間、不可聴の音が周囲を切り裂いた。
それは暴力。漂う全ての大気を食い千切り、聞く者すべての中身を破壊する音なき音。
だがそれに驚く間もなくわたしは次々落ちてくる机と椅子に視界を塞がれてしまう。
体を襲う連続の衝撃。痛みはない。暗闇の中襲ってくるただの衝撃。それがこんなにも恐ろしいことだと知らなかったけれど、それでも、だからこそここで周回してなるものかと必死に意識を別へ向ける。
「藤堂さん!」
────……どのくらいたっただろうか。きっと一瞬だったのだろう。しばらくして、酷く切羽詰まった様子の鏡の声と共にわたしの視界に光が射した。
意識を目の前の光景に戻すと、体の上に倒れていた物はほぼ退けられ、心配そうな鏡がわたしの顔を覗き込んでいた。
「藤堂さん! 聞こえてますか藤堂さん!」
必死に呼びかける鏡の後ろから「あらあら」と爽子が顔を覗かせる。
大丈夫だと伝えようとした時、視界の端に動くものを見つけた。
悠生だ。悠生が身を起こしかけている。呻き声でも聞こえたのだろう、気付いた鏡がわたしを庇うような位置に素早く動き竹刀を構えた。悠生がゆっくりと立ち上がる。わたしの位置からも悠生の顔が見えるようになる。
警戒する鏡の前で、悠生が腹を抑え軽く顔を顰めた。そして鋭い目を向ける鏡とその後ろにいるわたしに気付いたのだろう、目を見張ると自らの腹を抑える左手を見下ろし、そしてもう一方の手をゆっくりと持ち上げた。
動向を見守る一同の前にそっと傷だらけの手が差し出される。
「……悪ぃ。藤堂」
起伏のほとんどない短い言葉に鏡の肩が僅かに下がり、隣に座る爽子の空気が柔らかくなる。
うん。わかってるわ悠生。誰も貴方を責めないから気にしないで。わたしの知っている悠生に戻ってくれて本当に嬉しい。
でもねその手を取るのはもう少しだけ待って。今わたし指先を動かすことすらできないの。
ねえ、もう少ししたらその手を取って、大丈夫よって伝えるから。
いつも通りの笑顔を、貴方に向けるから。
もう少しだけ。
──セオはね、最も未唯と美琴に近付けるキャラクターなんだ。理人兄を除けば未唯の一番好きな相手。だからこそ未唯にとって最も厄介な存在。
セオの苦悩が知れる今のストーリーは元々用意されていたものなんだよ。
三倍以上に膨れ上がった悠生の左腕が、生気のない生徒達をなぎ倒す。その間にわたしは二年三組の扉を開ける。いない。次っ!
──立木悠生は、事故で左腕と左足を失って最新技術の義手義足がつけられているんだ。それによって彼はいくつかのものを得たけれど、引き換えに沢山のものを失った。
これって彼との一番好感度の高いエンディングを迎えるとわかる情報なんだけどね。普段淡々とした彼の奥に潜む強い感情に振り回されるプレイヤー、見たかったな。
鷹村さんの姿は今の所どの教室にもない。未唯やセオの姿もなく、放心したように椅子に座るゾンビ生徒の姿が時折見られるのみだ。彼らがわたしに気付き襲ってくる前に、わたしは扉を閉める。次っ!
──鏡先生が理事長の孫なのは知ってるんだよね。それだけじゃなくて彼は立木悠生の義手義足の執刀をした医師の友人でもあるの。エンディングを迎えた後は、自責の念に押しつぶされる先生の姿が見られるよ。
間に合わずに扉から這い出してきた生徒達を、鏡が竹刀で押し込む。その様子に躊躇は見られない。事情を話した直後はわたしに武器を持たせることも、自らが持つことも忌避していた彼が、周を跨ぐごとに忌避感を失ってきている。まるで自らの力不足を痛感した過去周を経て、二度と同じことを起こさないと決意したかのように。
──栗城先生? 彼女は宇宙人なんだって。理人兄達とは違うけど先生もまたここではない世界の住人ということだね。
それもこの閉じられた世界でのことだろうって? そうかもしれない。でも理人兄はそれをどう証明するの? 理人兄が引いた境界線はホントに唯一のもの?
「もうっ、女の子に無断で触っちゃダメよ」
気の抜けるような言葉を発しながら、爽子がわたしの肩を掴んだ生徒をぺしりと叩く。聞くに絶えない悲鳴を上げ、手を掻き毟りながら床を転げる生徒を見て、一体何をしたのかと浮かんだ疑問を即座に捨てる。
爽子については不思議なことが多い。悠生の時に発した不可思議な声もそう。彼女曰く声の届く範囲にいる相手にものすごい負担をかけるモノらしいが、一瞬の隙を生む程度で持続時間は短いらしい。原理を聞いても「うーん説明が難しいのよね。ごめんなさいね」と隙のない笑顔で謝られてしまえば、それ以上の疑問は持つだけ時間の無駄だ。わたしにはあの笑顔を突破できる自信はない。
──もちろん一条雅と清水律にも裏設定はあるよ。清水律が美琴という犯罪者と同居していることはもう知ってるんだよね? 普通の生活を送る普通の彼女がどうして美琴という犯罪者に惹かれてしまうのか、その歪さを解いていくのが彼女のルート。
一条雅は財閥令嬢。エンディング後だと婚約者が出てきたりと彼女の家庭の事情に巻き込まれちゃうんだ。そうだよ。わたしはほんの少しルートに行きつくアルゴリズムを弄っただけ。彼ら彼女らの根本的な所には手を付けていない。
わたしは即席ブラックジャックを振り回しながら、ひたすら走る。足が重いのは走りづめだからだろうが、今はそんな細かい仕様も全く嬉しくない。ったくチートになれる開発者モードがないのがつくづく悔やまれるわ!
ブラックジャックの先端が長髪の女生徒の顔面にもろに当たってしまい、一瞬顔を歪めてしまう。でもわたしは振り返らない。わたしはもう、元の世界に帰るって決めたのだ。
──秋月先輩は記憶力がとてもいいんだ。顔と名前も一発で覚えられるの。だから未唯のことも誰よりも早く気付くんだけどね。夢に向かって頑張る彼は、自分の力も影響して精神的負担が大きいんだよ。だからエンディング後のプレイヤーは彼を助けるために奔走しなきゃならない。
うん。そうだよ。皆隠されたエンディングを一つずつ持っていて、その子のエンディングを網羅するとルート解放されるようになっているの。
三階に続く階段から、目を血走らせた女生徒達がすし詰めになって降りてくる。何故かびしょ濡れの彼女達の目的は当然わたし。舌打ちしたわたしは目を左右に走らせる。流石にこの人数に一度に襲われたら捌ききれない!
離れた位置から名を呼ぶ声。抱擁を求めるかのように両手を差し出し向かいくる少女達。周回した方が早いかという考えがわたしの頭を過る。その時。
階段の更に上から静かな静止の声がかけられ、少女達の動きがぴたりと止まった。
喧噪の中、その声はやけによく通った。
どこかで聞いた声だと思った。
だけど現れたのは、知らない少年。和装に近い不思議な格好で、腰に長い刀を差した十代半ばくらいの少年だった。
石像のように動かなくなった少女達の間を縫いやってくる彼を見て、悠生が腰を落とす。だが悠生が行動を起こすより早く、彼は悠生の方に向くと人差し指を唇に当ててみせた。唇が何かの言葉を紡ぐように開く。声なく紡がれた言葉に、悠生が僅かに目を見開く。
誰もが動けない中、周囲の様子など物ともせず優雅に、どこか浮世離れした様子で彼はわたしの前までやってくると、ふわりと微笑んだ。
貴方は? 問い掛けを口にする前に空いた手を取られる。少しだけ温度の低い、かさついた手の感触。
──だけど次の瞬間その感触は消え、姿形は目の前から跡形もなく消えていた。
開けた廊下に不思議な静寂が訪れる。わたしは呆然としたまま、彼の指先が触れた自らの掌に目を落とした。そこに乗っていたのは小さな刀型のマスコットと。
「藤堂さん、今のは……?」
ぼんやりと彼の消えた辺りを見ていると、動くものがいなくなった廊下を鏡と爽子がやってきた。鏡の問いにわたしは拳を握りしめると、もう一度彼が消えた廊下に目を戻した。
「多分、鷹村さんからの届け物です」
彼が悠生に向けて告げた言葉。や、く、そ、く。約束。
「彼は鷹村さんの代わりに、わたし達を助けに来てくれたんです」
少しだけ幼さの残る彼の微笑みは、わたしがよく知るものだった。
──幸せなエンディングを迎えた後に、皆が持っているもう一つの顔を暴いていく。
それがプレイヤーの最後の役割だよ。
外部強制切断まで残りあとX分?




