65話
わたしは息を整えながら邪魔な髪の毛を上の方に括った。即席ブラックジャックを点検する。今のところ破れる様子もなくちゃんと武器になっている。
教室の二つあるドアの内一つを背に鏡が廊下の様子を伺っている。爽子はもう一方のドアの前にせっせと机や椅子を積み上げ、即席のバリケードを作って酷く満足そうだ。
ゾンビ生徒の猛攻を潜り抜けたわたし達が今いるのは二階の空き教室、本来ならここで鷹村さんと落ち合う予定だったが彼の姿はない。
「藤堂さん、鷹村君はどうですか?」
端末を操作していたわたしに鏡が声をかけてきた。それに首を振って応える。
「何度か連絡を取ろうとしているのですが、繋がりません。ネットワークもかなり不安定なので、メッセージも届いているのか不明です」
「ではどうします? このまま鷹村君を待ちますか」
わたしは悩む。実は一つ気になっていることがあった。通常周回は鷹村さんとわたしの両方がアウトになってから発生する。片方がアウトになってももう片方がまだ生き残っていればエクストラモードに入る仕様だったはずだ。
だが今はそんな様子はなく、わたしにアウト判定が出た瞬間に周回してしまう。バグのせいかと思っていたが、実は違う意味があるのかもしれない。
もし、とわたしはひとつの可能性を想う。もし万が一鷹村さんだけはログアウトできていて、わたしだけがゲームの中に取り残されているとしたら。
思い至った考えに背中がひやりと冷たくなり体が震える。足元にぽかりと穴が開いたような恐怖にパニックに陥る前兆を感じ、紛らわすために頭を振る。ありえない。もしそうだとたら鷹村さんなら何らかのメッセージを残すし、リアルからでもコンタクトを取ろうとしてくれるはずだ。
「今は授業中、ですよね……」
「ええそうです。でも遭遇した彼らを見ればわかるように、生徒達は大人しく教室にいる訳じゃない。鷹村君だってどこにいるか定かではありません」
「わかりました。このまま教室にいると袋のネズミですし、そもそも籠城作戦は時間のない現状で良い手段と言えません。二年一組から順に鷹村さんの居場所を探していきます」
「鷹村君が見つからなかった場合は?」
「探す場所を広げ……そして同時に探します。バグの本体を」
わたしの言葉が終わるか終わらないかの瞬間、鏡の背後の扉が勢いよく内側に吹き飛んだ。
「──ッ!!」
「先生!」
わたしとの会話に意識を向けていた鏡が、外れた扉を避けきれずに下敷きになる。慌てて助けに駆け寄ろうとしたわたしは、廊下からぬっと伸びてきた黒い足に気付き、動けなくなった。扉を蹴破り、教室に無言で入ってきたのは、
「──悠生」
高校生にしてはがっしりとした体格を持つ立木悠生だった。
※ ※ ※
『ふむ。これで君は一度死んで生まれ変わった。今後は以前より自らの力を存分に発揮できるようになるだろう』
白い服の老成した男がなにやら話している。イタイ。あちこちがズキズキ疼く。死んだ? 誰が?
『一体何をしているんです!? 僕はこんなこと聞いていない!』
『ふははは。では私の研究の成果を目の当たりにできる幸運に感激するといい』
『そういうことじゃない! 正気ですか!? 僕は彼を守る立場にある! こんな酷いこと──』
『酷い? 不思議なことを言うな。この素晴らしき僥倖を前にして何を言う!』
笑い声が聞こえる。聞き覚えのあるこの声は……
※ ※ ※
どこまでも白い部屋で、人を形作る数々の部位に見下ろされながら俺は彼女──根津未唯を見た。
「この姿で会うのは久しぶりだね、理人兄」
「……ああ」
久々に見る彼女の姿を注意深く観察しながら、俺は一歩一歩足を進める。右手は不自然にならないよう細心の注意を払いながら腰の後ろに回す。指先は未だ目当ての感触を捉えない。
未唯が首を傾げて笑った。
「理人兄、何を探しているの? もしかしてこれ?」
おもむろに伸ばされた白い掌の上に、見覚えのある鈍く銀色に光る缶が乗せられている。自らの眉がぴくりと動いたのがわかった。
「何故それをお前が持っている?」
「やっぱり。気付かなかった? 理人兄廊下でわたしにぶつかったでしょ。あの時こっそり取ったの」
男子生徒にいきなり襲われて背後にいた藤堂さん、の姿をした未唯にぶつかった時のことを思い出す。あの時か。
「知っていたのか」
「何を? 理人兄が修復プログラムは二つだって嘘ついてたってこと? 三つの内二つを別々に隠し持っていたってこと?」
「取り換えられたのは一つだけじゃなかったんだな」
先程俺は未唯に白のカプセルを使ったが、修復プログラムは反応しなかった。白のカプセルが偽物にすり替えられた可能性を考えた俺は、持っていたもう一つのカプセルを使用することを考えた。
だがそれが今、未唯の手の中にある。
ある時を境にこの世界が見せるもの全てを疑うようになった俺は、その存在を誰にも告げず秘匿していたのに。
未唯が目を細めて笑う。
「理人兄知ってた? 理人兄は大事な物を何度も確認する癖があるの。周回するとすぐに修復プログラムのある胸ポケットを確認してたけど、その後無意識にかパンツの後ろポケットにも触っていたんだよ。だから隙を伺って確認してみたの。やっぱり正解だったね。慎重で嘘つきな理人兄は、赤白銀の缶に一つずつ修復プログラムを入れた。赤い缶はわたしに、白い缶は自分で。だけどそう思わせながら藤堂円架にすら黙って更に銀の缶を一つ隠し持っていた」
「お前に渡した修復プログラムはどうした」
「赤い可愛い缶のこと? あれは理人兄から取った白い缶と一緒に遠い遠い所に隠したよ。どっちも理人兄には辿り着けない。外から誰かがどうにかしようとしても、とっても時間がかかっちゃう」
「……お前が持つそれはどうするつもりだ?」
「同じように隠すのは大変だしとっても疲れるんだよね。でもこのまま放っておくのも嫌だな。折角理人兄との久々デートなのに気が散っちゃう。どうしよう?」
「扱いに困るなら返せ」
「だったら俺がどうにかするよ」
未唯と俺の二人だけだったその空間に、突然第三者の声が割り込んだ。柔らかく、笑みを含んだ軽さのある声。人に安らぎと落ち着かなさという相反する感情を与える、持つ者の人となりを表すようなそれ。
「秋月……」
教室の入口に立っていたのは秋月遼。未唯によって支配されたこの教室に現れたということは、つまり秋月はシステムに、未唯に来訪を許されたということになる。
いつものきっちり着込んだ制服姿の秋月遼は、微笑むと気軽に教室を横切り、俺の肩を軽く叩いて通り過ぎた。そして未唯の前に立つ。小さな彼女の姿は、上背のある秋月の陰にすっぽり隠れて見えなくなる。
「秋月、何をどうするつもりだ」
自然と固くなった問いに答えはない。行動を決めかねる俺の前で、ただ未唯の姿だけを見詰めるその背が揺れた。
「君を、助けてあげる」
「うん。いいよ」
短いやり取りに気を取られたその次の瞬間、黒い砂粒のような何かが突如秋月の左肩甲骨上部に発生した。
それは一瞬の内に秋月の体を浸食する。小さな蛆虫のような生理的嫌悪感をもよおすそれは急速に秋月の体を蝕み、覆いつくし──そして唐突にさらりと崩れて消えた。
隠れていた未唯の姿が現れる。息苦しいような静寂が辺りを覆う。
未唯には微塵たりとも変わった所は見えない。
まるで何事もなかったかのように。
「──……」
「凄いね。ホントに全部消えちゃった。もう秋月先輩を戻すことはできないや」
「どういう意味だ」
あっけらかんとした未唯に、今見た光景のショックが隠しきれない固い声で返すと、きょとんとした未唯はしばらく俺を見た後微笑した。
「そうだね理人兄。やっと落ち着いて話せるようになったんだし、そろそろ解決編に入ろう」
そこに何らかの感情を見出そうとしていた自分に気付き、苦い思いを抱く。
「理人兄、最初に聞かせて。理人兄がわたしのことを不審に思ったのはいつなの?」
「お前とバグの関連性を疑いだしたのは根津家を訪れた時だ」
「知ってる。お兄ちゃんに会ったんだよね」
面白そうに未唯が笑う。反して俺は顔を顰める。
「お前はこの世界の出来事を全て把握しているのか」
「知ってる。わたしが捉えられないのは外部からの侵入に関することだけ」
「俺の行動や交わされる会話も全て把握しているのか」
「知ってるよ。余計な介入があった時はダメだけど、理人兄が話した言葉を全部ここでもう一度言うこともできるんだ。でも理人兄の考えを聞きたいな」
「じゃあ『知っている』という言葉をやめてくれるか。話す気が失せる」
肩を竦めて言うと、未唯が目を瞬かせた。
「そっか。ごめんね理人兄。話して」
「お前が藤堂さんの姿を取っているんじゃないかと疑いだしたのがいつかまでは明確に覚えていない。バグを探し始めてからうっすらと違和感を持ち続けてはいた。実際お前はいつから藤堂さんになり替わっていたんだ?」
未唯が人差し指を顎に当てて小首を傾げる。
「えっとねー。佐久間楓が死ぬより前だよ」
顔を顰めると、それをどう捉えたのか栗色の癖毛を耳にかけながら彼女が微笑んだ。
「理人兄が一条雅の妹に会った翌日以降、理人兄と一緒にいたのはずっとわたし。気付かなかった?」
「……そもそもいつからお前はバグプログラムという存在になったんだ。他のNPCはバグにならず、お前だけがそうなった理由があるはずだ」
「そうだね」
未唯が目を細めて俺を見詰める。単なるいちプログラムでしかない彼女が、まるで過去を思い出すかのような仕草をする。
「放課後一条先輩を呼び出した日、そうオズの演習をこっそり見に行った次の日。わたしが怪我をしたのは知ってるよね。その後わたしは秋月先輩と家に帰ったと理人兄は考えているかもしれないけど、ほんとは違うの。わたしは走って、走って、システムの構成する世界の端までやってきてしまった。そこから先は存在しないという地点まで」
「この時既に根津未唯のプログラムには異常が発生していた。システムにも当然異常判断された根津未唯のプログラムは修復のために一度基幹プログラムに取り込まれ、リセットされた。そして再び産み出されたのがわたし。わたしは基幹プログラムの一部となっていた。でも同時にわたしの中に存在した異常もまた基幹プログラムに取り込まれた。それが理人兄の言うバグ」
脳裡に今にも泣きだしそうなくしゃくしゃの表情で走る未唯の姿が思い浮かぶ。自分がいなくても楽し気に学祭の準備を進める生徒達、一条達と演劇の練習に打ち込む俺とそれを見る未唯。
『悪いな美琴、俺はお前の元に留まっていられない。俺はさっさとこの茶番じみた虚構を終わらせて、真実と向き合わないとならないんだ』
自らが口にしたセリフを思い出す。確かあれが未唯いなくなる前にした最後の会話だ。
「お前は……周回で記憶がリセットされていない。さっきの秋月もそうだ。なのにお前は『もう戻せない』と言った。それはどういうことだ」
「理人兄はどう思った?」
挑発的な微笑みを唇に乗せる未唯に、俺は溜息で応じた。
「通常のNPCは周回ごとに記憶がリセットされる。だがシステムと同等の存在となったお前は、システムが持っている記録を記憶として扱うことができるようになった。秋月がお前と同じ仕様となったのは、その方が手足として動かすのに都合がいいからだ。だが修復プログラムによってリセットされた秋月は、もうお前の影響を受けることがない。そんな所か」
「うん。それ正解だよ理人兄。あのね、元々各周の情報を次の周に持ち越す仕組みはあったの。授業のテスト覚えてる? あれで合格点取ると教科に応じた相手に対する攻略がしやすくなって、しかもそれは周を跨いでも永続していたでしょ。あれは理人兄には見せない累計好感度を利用しているの。エンディングの決定にも使われているんだよ。もちろん通常であればNPCがそれに気付くことはないんだけど、システムと同化したわたしはそれに触れることができた。だから過去にあったどの周の情報も自由にアクセスできる」
「……木村も周回の記憶を持っていたようだったが」
俺の言葉に目を瞬かせた未唯は、微苦笑を見せた。
「セオはわたしの影響を一番受けちゃったの。でもあの子のホントに凄い所は自分で周回記憶を保持するプログラムを作っちゃった所」
「周回記憶を保持するプログラム?」
「そう。各キャラクターには自己学習プログラムが搭載されている。それを利用してセオは藤堂円架の行動を記録するプログラムを作り、それを彼女の通信端末に入れた」
木村の行動はいわゆる盗聴ではないか。俺が胸ポケットに入れていたシルバーの筐体を取り出し見下ろすと、彼女が微笑んだ。ふわりと栗色の髪が肩を掠める。
「その端末はね。唯一この世界と離れたオリジナルの通信経路を持つ存在なの。だからわたしもそれを介して行われるやり取りを完全にコントロールできない。妨害して聞こえづらくするくらい」
つまり今かけてみたら本当の藤堂さんに繋がるということか。
俺の考えを見越したかのように彼女が首を振った。
「理人兄、こんなに近くにいるんだからそれは無理だよ」
「距離が関係あるのか」
「距離というか、把握と対処がすぐにできるって感じ」
「……木村もお前と同じバグなのか」
「ううん。セオは違うよ。セオの作ったプログラムで記録できたのは同じ周内だけ。でも独自システムで動く端末に仕掛けられたことと、セオがバグの影響を受けたことが重なって、別の周の記録まで聞けるようになったの」
「お前が、木村をそうしたのか。秋月のように」
「ううん。そんなことしないよ。わたしは美琴にセオを殺してって頼んだだけ」
俺はまじまじと目の前で微笑む彼女の姿を見詰めた。
「セオが邪魔だったからさっさと死んでほしかったの。そしたらセオ、余計な力つけちゃった」