63話
次の周。自分が門の前に立っていることを自覚した次の瞬間に、端末を取り出し操作していた。
無情な『out of network』の表示を眺めて溜息をつく。震える指先は無視する。
わたしは溜息をつくと赤壁の建物を見上げた。
再び一人で校舎に入るには少しだけ勇気が必要だった。
昇降口で靴を変えるとそこから全力疾走で階段に向かい駆け上がった。だが二階に辿り着く前にまたもや生徒の誰かに捕まり、引きずり落とされる。
痛みはなかったが、身を起こせずもたもたしている間に寄ってきた何人もの生徒達に圧し掛かられ、二度目もあえなく周回した。
その後何度か試して強硬突破はできないと判断したわたしは、すぐに階段に向かうのでなく一階の各部屋を探ることにする。彼らを攻略するヒントを探すために。
家庭科室と書かれた扉の前で、もう一度端末を操作する。やはり鷹村さんに繋がることはない。
ふと端末からぶらさがる猪のマスコットを手にした。茶色の硬い毛並みを弄びしばらくその感触を堪能していたが、ふうと息をつくと端末をポケットにしまった。
鞄は生徒に襲われた直後から靴箱に置いてくるようにしているので、手元にない。代わりにモップを片手にしっかり握り、深呼吸一つで扉に手をかける。
その腕を、後ろからにゅっと伸びた手に取られた。
遠慮無用、先手必勝。即座に身を翻し相手にモップを叩きつける。だが、慌てたような声と共に左に避けられる。それに更に追い打ちをかけようとして、そこで気付いた。
「ストップストップストーップ! 待って。藤堂さん待ちましょう! 落ち着いて!」
「……鏡先生じゃないですか」
突き出した両手を忙しなく左右に振りながらわたしを静止したのは、いつも通りの涼やかな風貌に焦りを滲ませた数学教師、鏡圭司だった。
「あら、藤堂さんいらっしゃい。良かったわ」
家庭科室の隣にある保健室に連れられてきたわたしは、保険教諭の栗城爽子ににこやかな笑顔で迎えられた。
白い壁やカーテンに囲まれ、柔らかな照明に照らされた室内は明るく、温かさすら感じさせる。促され中央にある白い椅子に腰かけたわたしの前に、爽子によって平たい漆器が置かれた。艶やかな朱にちょこんと置かれた黄金色を見て、わたしは僅かに目を見開く。
「芋羊羹、ですか」
「ええ。若い人は洋菓子の方が良いかもしれないけど、今これしかないの。とっても美味しいから良かったら食べてね」
微笑んだ爽子が湯呑を置き緑茶を注ぐ。透ける鮮やかな緑が満ちると共に白い湯気が立ち上り、香ばしい香りが漂ってくる。玄米茶だ。
「いえ。和菓子好きです。──いただきます」
「鏡先生も、そんな所に立ってなくて大丈夫ですよ。どうぞ」
扉の近くに佇んでいた鏡はそこから動くことを渋っていたが、爽子に促されると躊躇いつつも入口近くの壁際に設置された横長のスツールに腰かけた。その間にわたしは小さな木べらを芋羊羹の端に入れて掬い取る。しっとりと滑らかな羊羹は舌に乗せるとほろりと崩れ、ほくほくしたさつま芋の自然な甘みと香りがいっぱいに広がる。想像以上に美味しい。
芋羊羹の味を堪能しているわたしの横で、爽子がいそいそと鏡にもお茶と菓子を手渡す。鏡が落ち着かない様子で入口に目を向ける。
「先生、すみません僕は──」
「ご安心下さいな。ここは保健室ですもの。私の許可なく入室することはできません」
きっぱりとした爽子の声を聞きながら、玄米茶を飲む。温かい。ほうと息を吐きながら知らず細めた目を開けると、爽子の柔らかな笑みとぶつかった。
「落ちついた?」
「──はい。ありがとうございます」
「良かったわぁ」
満足げに頷く爽子を見たら、すとんと肩の力が抜けた。そこで気付く。全身がどれだけがちがちに強張っていたかを。
久々に落ち着いた気分で周囲を見渡していると、背後から茶器を置く硬質な音がした。振り向くと常日頃の鏡からは想像もつかないような鋭い眼差しを向けられる。
「では藤堂さん、貴女の話を聞かせて頂きましょう」
しばし鏡の端正な顔を見詰めたわたしは、にこりと微笑んだ。
「わたしの方こそ聞かせて下さい。先生、わたしは何故突然こんな所に連れてこられたんでしょう?」
鏡がぴくりと眉を寄せる。多分今の鏡より、いくらか調子を取り戻しつつあるわたしの方が余裕がある。
「──貴女が授業中にも関わらず、妙な物を持って妙な部屋に入ろうとしていたからです」
掃除用具入れから持ってきたモップは、鏡に奪われ今彼の足元にある。折角の武器だからさっさと取り返したい。
「掃除道具がそんなに妙ですか?」
「こんな状況下に一人呑気に遅刻してきて、おもむろに掃除道具を取り出したと思ったら授業もない家庭科室に忍び込もうとしている生徒を妙と言わずに何と言えと?」
「先生、こんな状況って何ですか? おっしゃる通り、わたしは今登校してきたばかりなんでさーっぱり何事も存じ上げません」
両手を開くポーズをしながら小首を傾げて見せると、鏡は両手で抱える湯呑を指先でカツカツと叩いた。いつもの小憎らしい飄々とした態度は鳴りを潜め、苛立ちを隠しきれていない。
「今の学園をひとことで言うなら、異常です。僕は学園を一通り回ってきましたが、まともなのは栗城先生だけだ。他の教師や生徒はとてもじゃないがまともとは言えない。
そんな時に突然現れたのが藤堂さん、貴女です。貴女はこの状況下で一人遅れて登園してきた。いつも通りの姿で、いつも通りに。
途中妙な物を拾い、何故か教室には向かわない様子ではあったものの、少なくとも学園にいる他の者達とは異なり『まとも』に見えた。だから万が一を考えて生徒達とかち合う前に貴女を保護することにしたのです」
『保護』つまりあの幽鬼のような生徒達が未だうろうろしているということだろう。先生もそれを見て無事でいるということは、あれらの狙いはやはりプレイヤーということか。
「先生は、いつも三階にいらっしゃいますよね。一階から三階まですべて『まとも』じゃない人達ばかりだったんですか」
わたしはまだ上の階に上がれていない。情報収集を兼ねて聞くと、鏡が眉間に皺を寄せて吐き捨てるように言った。
「ええ。学園すべてです。話すらできやしない」
わたしは唇に指をあてて考える。予想してはいたものの、バグは一階だけでなく学園全体を変えているようだ。何故このタイミングでここまで大がかりな改竄を仕掛けてきたのだろう。
「藤堂さん、何も知らないなら結構です。門まで送りますから今すぐ帰宅しなさい。そして僕か栗城先生から連絡があるまで登園してはいけません」
「でもわたしは……鷹村さんと合流しないと」
「鷹村? 二年一組の鷹村理人君ですか。彼が今日来ていたかどうかは記憶にありませんね」
「──では先生、一年一組の高坂美琴と木村セオについてはご存知ですか?」
「一年生? 僕の記憶にはないですね」
ちらりと爽子に目をやった鏡が断言する。爽子からの反論もないということは、やはり二人は学園にいないのだ。しかしここまで大がかりな妨害をしてきているのであれば、どういう形だろうとバグはここにいる。
そこまで考えてわたしは頭を振った。こういうのは本来なら鷹村さんの得意分野だ。
「鷹村君とその二人については僕の方で探しておきます。何か伝言があれば伝えておきますから、貴女は帰宅なさい」
わたしを追い返すことしか考えていなさそうな鏡を見て、どうしようかと頭を巡らす。
ここから鏡の目を盗んで二階に行くことは流石に難しい。かといって、一度門を出て戻りこっそり侵入しても二人に見つかってしまうだろう。わたしを警戒している鏡もそうだが、感情が伺い知れない爽子の動向も気になる。
「先生、わたし忘れ物を取りに行きたいんですけど」
「何を忘れたか言って下さい。僕が取ってきます」
「実はわたし、どうしても今すぐ鷹村さんと会わなければならない事情があるんです」
「どんな事情があるのか知りませんが、この状況下では許可できません」
取り付く島もない。わたしは溜息をついた。
「わかりました。では大人しく帰りますね。見送りは結構です」
「……門を出たと見せかけて再度来ようとしても無駄ですよ。正門も裏門も見てますから」
「ですよねー」
どうしようかと考えあぐねでいると、彷徨わせた視線が爽子の微笑みで止まった。何となく目を離せないでいると、その潤んだ瞳が細まり、ぷっくりと膨らんだ蠱惑的な赤い唇が熟れ落ちる寸前の果実のようにふるりと動いた。
「ねえ藤堂さん、教えてくれないかしら。貴女の抱える事情というものを」
爽子の言葉は柔らかく温かい。そこに強制や脅しの響きはなく、ただ自然にわたしを受け入れるためだけに問うてるのだとわかる。
わたしはしばし悩み、数秒もしない内にあっさり頷いた。わたしは鷹村さんと違ってあれこれ考えるのは性に合わない。なにより時間が惜しい。
「わかりました。最初からお話します。……ちなみに信じられないとおっしゃった瞬間に話を終了させて頂きますからね?」
わたしは鏡と爽子に最初から話した。そう全てだ。
鷹村さんとわたしはここではない別の世界から来たこと。
わたし達が元の世界に帰るのを快く思わない存在がいて、今の学園の状態はその存在のせいであること。
その存在は恐らく根津未唯もしくは高坂美琴という女生徒であろうこと。
今も根津未唯という姿であるか確かではないこと。
その存在に鷹村さんの持つ修復プログラムを使えばこの世界は元に戻り、わたし達も元の世界に帰れること。
鷹村さんと落ち合う場所が二階の空き教室であること。
ゲームという単語は使わない。自分達が作り物だと言われても困惑するだけだろう。
でもこんな簡単な説明で納得するものかしらね、と口にしたわたし自身が思ってしまうのだから、二人の困惑はそれ以上だろう。色々はしょった上に、骨董無稽過ぎる内容だ。反応に困るんじゃないだろうか。
「……別の、世界……」
「そうです。わたし達は先生達とは全く異なる場所から来た異なる存在です」
想像の斜め上の話を聞いたとでも言うように、目を見開きまじまじとわたしを見詰めた鏡が、緩く口を開けて閉じた。信じられないという言葉を飲み込んだんだろう。わたしの頭がおかしくなったとでも言いかけたのかもしれない。
わたしはちらりと爽子の方を見る。彼女の微笑みは変わらない。衝撃を受けていないはずはないのだが、全く反応が見えない分鏡より不可解だ。
「でも……貴女が探しているという生徒が学園にいないというのは事実です。何故彼らがここにいると主張するのですか?」
わたしの話を事実だという前提で話を進めようとする鏡に内心感心しながら、さてそこをどう説明しようと考え──面倒くさくなった。うん。だからこんな所で悩んでいても仕方ないのよ。
「実はですね。鷹村さんとわたしは、何度も同じ時を周回しているんです。例の二人は今より過去の周で生徒として存在していて、今もわたし達の近くにいるはずなんですよねー」
ね、今でも学園にいそうじゃないですか? と立てた人差し指を左右に振りにっこり笑って見せると、指先の向こうにぽかりと口を開けた鏡の間抜けな顔が見えた。




