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62話

 小さなカプセルがわたしの頭上から床に滑り落ち、カツンと軽い音を立てる。それが白い床を転がり入口近くの棚の下で止まるのを横目で見た後、わたしは正面に立つ人物を見上げた。


「わたしが根津未唯? どうしてそんな風に思ったんですか」


 わたしの頭から手を離した彼は、一度だけ自らの手を見遣ると軽く振り下ろした。


「『真実(まみ)』という名を藤堂さんは知らない。俺が口にしたのは後にも先にもただ一度きり。ここで未唯(お前)と別れてログアウトする時、藤堂さんが先にログアウトした時だけだ」

藤堂円架(わたし)が聞いていたかどうか、鷹村さんに確かめようがないでしょう」

「ログアウト時は聴覚から切断される。姿すら見えなくなっていた彼女が、俺の言葉を聞ける筈がない」

「状況から推測しただけですか」

「お前は知りようないだろうが、リアルでも確認している」

「わたしが敢えて口出すことでもないですからね」


 肩を竦める彼を見てわたしは内心溜息を吐く。ここまで断言するなら、彼は自分の言葉に相当の自信があるんだろう。だがこういう時の彼は往々にして視野が狭くなる。


「言っておくがお前に違和感を抱いたのは、別にそこからじゃない。受動的過ぎるスタンス、立木や鏡への態度、この部屋の惨状を見た時の反応、諸々を含めた総合的な判断だ。お前は鏡のことをどう思うって言った?」

「とっても有能で生徒の信頼も厚く、頑迷な先生方とは一線を画する良い先生だと」

「個人的感情はどうだ?」

「先生のことは大好きですよ」


 淡々と告げると、彼は口許を覆い心底可笑しそうに笑った。


「そう。そうだな。確かに藤堂さんならそう言う。実際どこかで口にしていそうな言葉だ。だが彼女はそういう顔で言わない。そんな真顔じゃない。隙のない小憎らしい程綺麗な──笑顔だ」


 眉を顰めて鷹村さんを見上げると、彼は笑って続けた。


「藤堂さんは隠したい感情がある時ほど笑顔になる。お前にはそれがない。……藤堂さんの表情の使い方が、感情が、意味がわからなかったんじゃないか」

「わたしのことをやけに決めつけますね」

「すまないな」


 今度はわたしも溜息を隠さなかった。このままでは堂々巡りだ。仕方なく鷹村さんの脇を擦り抜けて入口の方へ向かう。鷹村さんの緊張を背後に感じる。


「鷹村さんの言い分はわかりました。でも全て決定的な証拠となりえないのはおわかりでしょう。真実(まみ)さんの名前は以前社内で耳にしていましたし、わたしの反応については完全に鷹村さんの主観でしかありません。鷹村さんは女性の耳聡さや複雑さを軽視し過ぎです。一方わたしも同じように鷹村さんへ抱いた疑惑について先程弁明頂きましたが納得いった訳ではありません。ですが現状どちらも同じように、お互いが確かにお互いの知っている相手であると証明することはできない」


 白い床に同化してしまいそうな程小さく白いカプセルを拾い、鷹村さんの掌の上に落とす。


「修復プログラムは全部で二つでしたよね。はい。無駄にならなくて良かったです」


 わたしの言葉の意味に気付いたのだろう。鷹村さんがカプセルを握りしめ、己の拳をじっと見詰めた。わたしは部屋の中央にあった手術台に浅く腰掛ける。視線が少しだけ高くなったけれど、それでも鷹村さんの高さには届かない。


「鷹村さんとわたしが触れてもそれは起動しなかった。であれば少なくとも、二人共バグではありえない。時間もないですし、一旦それだけわかれば充分として次の行動について話し合いましょう」


 鷹村さんの唇が僅かに動く。もしかして彼もまた不安と疲労に苛まれ正常な思考ができなくなっているのかもしれない。いつもの彼ならば、確実な証拠もないまま疑惑を口にすることが、どのような影響を及ぼすか考えられない筈がない。


「大丈夫ですよ。鷹村さんがわたしのことをどう思おうと、わたしは何も変わりませんから」


 突然鷹村さんが顔を上げてわたしを見た。目を逸らさずそれを受けとめる。白い壁に包まれた閉鎖空間で、ふたり正面から見つめ合う。吹くはずのない風が通り抜けた気がした。


「俺は……心が決まらなかった」

「心、ですか」

「流石に卑怯だと、そう思った」

「唐突ですね」

「だけどどれほど狡くて卑劣で浅ましくても、それが俺なんだったら、そのまま向き合うのが本当の意味での誠実なのかと、今考えている」

「……」


 彼の真摯な眼差しが、わたしの瞳の奥底まで見通そうとでも言うように真っすぐ突き刺さる。

 彼の心があまさずわたしに向かう。

 ゆっくり震えた唇が、壊れ物のように優しくその言葉を紡ぐ。


「なあ未唯。お前は俺のことが好きか?」


 存在しない筈の時を刻む足音が、二人の間で規則正しいステップを踏んだ。

 何かが動き、何かが止まる。

 静寂の支配する空間に、誰かの乱れた呼吸音だけがやけに大きく響いた。


 わたしを象る黒い双眸から徐々に溢れ出したものが、瞳から頬へ、唇へと伝播していく。同時にそれは顔全体を動かし、微笑みという形に収まった。

 彼はわたしに、感情がわからないと言った。

 でもそれは間違いだ。わたしは多分今、幸せというものを抱いている。


「うん。──うん、大好き」


 くるんと身を翻して彼から離れると、吹くはずのない悪戯な風が制服の裾を揺らし、射し込むはずのない光彩が周囲を彩る。


「あーあ、バレちゃった」


 そう言って笑うと、理人兄が少しだけ驚いたような顔で『未唯』に戻ったわたしを見ていた。






 ~Side 円架~

「──ッたく、なんっなのよ一体これは!!!」


 怒鳴りながら手に持った獲物を振り回し、わらわらと群がる生気のない生徒達をなぎ倒す。最初の頃はご丁寧にも血しぶきをあげ苦悶の声と表情で倒れた彼らも、面倒くさくなったのか今や声すらあげずにその場に伏す。やる気ないなら来るんじゃない!


「次っ! 行くわよ!」


 背後からわたしに手を伸ばした輩をぶちのめしてくれた同行者に声をかけ、わたし達は廊下の先を目指して走り出した。




 少し時間を戻そう。

 厚みを感じさせる白い左官仕上げの門柱の向こうに要塞の如くそびえ立つ赤壁。セオとの屋上での会話の後、再びそれらを見上げる位置に立ったわたしはすぐさま背後を振り返った。ぽっかりとどこまでも続くトンネルのようなそこには、しっとりと質量を持った静寂がただある。

 わたしは唇をきゅっと一度噛み締めると前を向いて歩きだした。砂を踏む足音と衣擦れの音、それだけがわたしの耳に届くただ一つ。


 しんとした、だだっ広い校庭を横目に見ながら校舎に向かって歩く。誰かが片づけ忘れたのか、薄汚れたサッカーボールが樹木の下に転がっているのが物悲しい。

 部活動に精を出す姿も、遊び興じる喧噪もない学園は、異様な静けさと圧迫感を感じさせた。

 朝だというのに空が暗い。どんよりと暗い雲と空を背景に佇む校舎は、行く手に立ち塞がる要塞のようにも見える。ちょうど鷹村さんも校舎を見上げて似たような感想を抱いたことを、この時のわたしは知らない。

 昇降口に続く僅かな段差を踏み越えると、埃っぽい空気の中に背の高い靴箱がいくつも立ち並ぶ場所に出た。

 角にひっそりと立てかけられたロッカーにわたしは手を伸ばす。目当ての物を見つけると、居並ぶ様々な種類の運動靴をざっと確認しながら、たった一つぽつんと残された自分の上靴に履き替える。ぐるりと回って一組の靴箱も確認するが、見た所学校規定に則った華美でない運動靴が並ぶのみだ。


 暗い廊下を右に折れると天井の電気が突然瞬く。

 薄暗い廊下に一瞬深い闇が訪れる。

 ひたりひたりと足音が響く。緊張とは異なる何かが、汗となり背中を伝い落ちる。

 前に踏み出す足が重い。頬にまとわりつく髪の毛が鬱陶しい。舌が顎に張り付き、喉の奥がきゅっとすぼまる。

 それらを意識しないよう、努めて外へ意識を広げながら一歩ずつ足を進める。二年の教室は二階にある。階段はぐるりと回りこまなければならない。

 階段の前に辿り着いたわたしは、一度足を止めて左右を窺う。

 しんと静寂に包まれた廊下。時に静寂は人の精神を蝕むという。

 なぜ人の気配がないんだろう。わたしはずらりと並んだ運動靴を思い出す。登園した生徒達はどこにいるのか。授業中ならもっと、


 ──その時、鐘の音が不気味に鳴り響いた。

 わたしの体が反射的に震える。

 何故今。わたしはどのくらいここにいた? 眩暈がする、時間間隔が狂う。混乱でおかしくなりそうな頭を一振りし、階段へ一歩踏み出す。


 わたしの肩に、ひやりと冷たい手が乗せられる。

 ひっと息を呑み反射的にそれを振り払うと、入口で拝借したモップを構え振り返った。


 目の前に、生徒だったモノがいた。

 生気のない肌、コケ落ちた頬、落ち窪んだ黒い眼窩、まるで死者のような面立ちをした人物をかろうじて生徒だと判断せしめるのは、身に纏う制服だ。但しそこにもあちこちに赤黒い染みが見える。なに。


 それ(・・)がわたしを見た。

 そこにあるのは害意、ただひとつ。


 それが叫ぶ。筋の浮いた細い両手がものすごい勢いで迫ってくる。咄嗟にそれをモップの柄で振り払ったわたしは、段差に足をかけた不安定な体勢だったこともありバランスを崩し廊下に尻餅をついてしまう。

 相手はよろけはしたものの倒れるまでいかず、がらんどうのような双眸で再び私を見るとぽかりと口を開け、突然吠えた。低くどこか物悲しさを感じさせる唸り声が廊下に響き渡る。その声に紛れ、ひとつふたつと近付く足音。足音?


 嫌な予感に急ぎ立ち上がったわたしは、突進してきた生徒をかろうじて避けると階段を駆け上がった。

 だが踊り場に辿り着く前に強い力で腕を引かれ、背後にいる相手と共に階段を転げ落ちる。

 階下まで落ちるも痛みはない。そこで自らが下敷きにしたモノに気付いたわたしは短い悲鳴を上げた。

 わたしの腕を掴む細い腕。それがありえない方向に曲がっている。わたしではない。わたしの下にいる生徒の腕が、ぽきりと折れてしまっている。

 すぐさま身をどけ生徒の姿を目に入れたわたしは、無事を尋ねる代わりに喉の奥から掠れた悲鳴を絞り出した。

 倒れているのは女生徒だった。だがその姿は哀れにも変わり果てていた。

 スカートから除く左腿は潰れて果実のように赤く染まり、長く乱れた髪もまた頭部から溢れ出した血だまりに広がり、滴を吸い取り沈んでゆく。


 違う! わたしのせいじゃない。だってこんな、こんな風になるはずがない!

 彼女の手を肩から剥がそうと躍起なっていると、突然背後から冷たい抱擁を受けた。

 黒い浮腫が浮かんだ両腕がわたしの体に蛇のように巻き付く。

 荒い息遣いが耳のすぐ後ろで聞こえる。




 周りが白く白く白く見えなくなるまで、わたしは叫び続けた。

 叫んでいることにすら、気付かないまま。






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