61話
わたし達は階段を下った。
人ひとり通れるくらいの幅のそこでは、一定距離進むごとに人感センサーに反応した柔らかな橙色の灯が灯り先を照らす。白く磨き上げられたリノリウムの床は埃一つなく、清掃が行き届いていることがわかる。
ぱたぺたと靴裏のゴムが鈍い音を立て狭い通路に反響する。鷹村さんの背を見ているだけのわたしには、今どのくらいまで降りてきたのか正直よくわからない。ここは窓一つないのだ。恐らく二階より更に下へ降りてきたくらいか。
長い長い階段を時折折り返しながら下っていくと、反復行動により脳が活動を控え省エネモードに陥る。極度の緊張状態が続いている今、疲労により思考が鈍りミスも犯しやすいから注意が必要だ、とそう説明しながら、鷹村さんは前を歩き続けた。適度に喋っていた方がいいと言いながら。
「ところで藤堂さん、さっき清水が言っていたことに対してどう思った?」
「どれですか?」
「未唯が……俺があいつを追うのを望んでいる、という話だ」
「さあ。未唯ちゃんはバグプログラムなんですよね。だったら素直に考えれば修復プログラムを持つ鷹村さんの行動は迷惑でしかないと思います」
「違いない」
悲嘆を一切感じさせないあっさりした鷹村さんの広い背中に、続けるつもりのなかった言葉がするりと口をつく。
「でも──何となくですけど、わたしも彼女は鷹村さんのことを待っているんじゃないかって思います」
「……そうか」
何度めかの折り返しでやっと見えた終着点では、曇りガラスの嵌められた白い引き戸が一つ、ぽつんと孤独に待ち構えていた。
鷹村さんが身振りでわたしを制し、聞こえるのは二人分の息遣いだけになる。扉の向こうから物音は聞こえない。
階段の方までわたしを下がらせた鷹村さんは、慎重に扉に手をかけた。軋む音すらせず、滑らかに扉が開く。
隙間からそっと中の様子を伺っていた鷹村さんは、半分程開けた所で躊躇なく一気に扉を全開にした。そうしてやっとわたしにも中の様子が見えるようになる。
そこは一見すると手術室か何かのようだった。白い壁、白い棚、白い床、中央に置かれた白い手術台。だが手術室と言うのに違和感があるのは、その場に不釣り合いな鈍い銀色のロボットアームが天井から二対垂れ下がっているのと、壁から張り出す木の板に太い透明ボトルがいくつも並べられているからだ。
ボトル内部のどろりとした透明の海に沈むのは、未だ生命がみなぎっているかのように瑞々しくむっちりと筋肉質な二の腕、手首から切り離され何かを掴もうとする形で止まった幅広な掌、骨ばった関節で曲げられた雄々しい腿とふくらはぎ、そうそれらは全て人の肉体を形作る部品だ。ぐるりと立ち並ぶ棚のガラス扉の先に見えるのは、心臓や肺といった臓器ではないだろうか。
だがわたしが真実見ていたのはそれらではない。首を上向け部屋の光景を見ながら身じろぎ一つしない鷹村さんの後頭部だ。彼があまりにも動かないので様子を伺おうと足を動かした時、わたしの右の踵が扉の端にぶつかり予想以上に大きな音を立てた。驚いたように勢いよく振り向いた鷹村さんの顔は、幽鬼のように青い。
「ここは、何なんでしょうか」
鷹村さんに倣って瓶詰の四肢や臓器を見上げながら言うと、彼が僅かに口端を上げたように見えた。
「……ここは手術室だ」
言うと鷹村さんが覚束ない足取りで部屋の中央まで歩き始める。床下を這う配線が彼の足に踏みつけられ小さな悲鳴をあげる。
「鷹村さん?」
「なあ藤堂さん、これを見て何か気付くことはあるか?」
彼の視線の先にあるのは二の腕のボトルだ。一体何を聞かれているのだろう。まじまじと見たい物ではないが、まるで生きているみたいですねとでも言えばいいのか。
「そうだな」
頷いた鷹村さんはボトルの底に両手を差し入れると重そうに、そしてとても大切そうに抱えあげ矯めつ眇めつ眺めた。その姿にわたしは眉を寄せる。
「そのボトルがどう──いえ鷹村さん、改めて聞かせて下さい。わたし達はここで何を探せばいいんでしょう」
「今更だな。帰還の手掛かりだろう」
わたしはいつもより強い口調になっていたのだが、鷹村さんの視線は目の前にある物から離れない。その態度にわたしの中の柔らかな部分がささくれ立つ。
「帰還の手掛かりって具体的には何ですか、どういう形であるんですか。本当にそんな物ここにあると鷹村さんは考えているんですか?」
立て続けに言い放つと、鷹村さんはやっと顔を上げ抱えた物を元の位置に戻した。たぷんと粘性のある液体が透明の壁にぶつかり泡が立つ。それでも彼の視線がわたしに向けられることはない。
「藤堂さんは、どう思う?」
「帰還するためには、根津未唯や木村セオに接触するのが近道だというのが鷹村さんの考えですよね。であれば鏡先生もおっしゃってたように、このまま学園にいても手掛かりを得られるとは思えません。例えば根津未唯と木村セオの実家に行ってみるとか、もっと確実な場所から攻めるのがいいんじゃないでしょうか。それこそ彼らの存在が根本から消えない限り、彼らは家にいると思います」
鷹村さんが微笑む。
「そうか。藤堂さんの意見はわかった」
彼の反応に、わたしは突き上げる衝動のまま掌を戸棚に叩きつけた。
「鷹村さんッ! 鷹村さん本当は何をしたいんですか!?」
戸棚がたてた大きな音に鷹村さんが僅かに眉を顰める。でもそれだけ。わたし自身への反応じゃない。
「七不思議を探しても、根津未唯や木村セオは見つからなかった。帰還のリミットは迫っているのに、彼らの手掛かりすらない。なのにどう見ても鷹村さんは焦っているように見えません」
「焦りは思考を鈍らせる。急ぐ時こそ焦りは禁物だ」
「そういうことを言っているんじゃありません! 鷹村さんが本当に探しているものは何なのかと聞いているんです。根津未唯? 木村セオ? これだけ探しても痕跡すら見つからないのに、彼らが本当に学園にいると思っています? そもそも本当に彼らを見付ければ帰還できるんですか? 彼らは本当にバグの本体で、彼らさえ見付けてどうにかすればわたし達は帰れると本当に思っているんですか!?」
中央の手術台を挟んで逆の壁に凭れた鷹村さんが、腕を組んでやっと真正面からわたしを見た。その瞳はどこまでも冷静で、わたしがぶつけた熱に煽られた様子は一切ない。
「根津未唯、木村セオはバグだ。根拠は以前説明した通り。藤堂さんに反論はなかったはずだが?」
「彼らがバグだと考える根拠はわかりました。でもバグの本体は別にいるかもしれないじゃないですか」
「現状これだけの規模で学園を占拠し、改竄しているのは確実に本体の力だ。よって本体はここにいる」
「でも二人は見つからないじゃないですか! このまま当てもなく彼らの痕跡を探し続けたら時間が、時間だけがたって、わたし達このまま──ッ」
続けられずにわたしは黙り込む。鷹村さんが片眉を上げる。何故こんなに鷹村さんは落ち着いているのだろう。
「気持ちはわかるが焦っても状況は変わらない。俺達はバグの本体、もしくは帰還システムの手掛かりを探す。今まで俺達が接してきたキャラクター性から外れた行動で妨害してくる者、それこそ立木悠生みたいなのは本体に命令された子プログラムだから放っておけばいい。逆にキャラクター性に違和感なく今までの延長線上で妨害してくる者がいたら、それがバグの本体だ」
彼の言葉はまるで幼子に言い聞かせるようだ。まるでわたしの反応こそがおかしいとでも言うように。
視線を彷徨わせていると、軽く息をついた鷹村さんが腕組みを解いて歩き始めた。
「俺達の第一目的は無事帰還することだからこそ精神の安定も重要だ。それ故の態度が、藤堂さんに不安を抱かせたならすまない。だが未唯や木村は必ず学園にいるし、彼らに接触しさえすれば道は開ける」
鷹村さんが一歩一歩近づいてくるごとに、わたしは後退る。すぐに背中を固く冷たい壁が阻む。
手術台をぐるりと回ってわたしの前に立った鷹村さんが、俯くわたしの顎を軽く握った拳で優しく上向かせる。
「まだ不安があるか?」
不安。違和感。彼の行動一つ一つが、わたしを惑わせる。そこにわたしの思いもよらない真実が隠れているとしたら? 何故それをわたしに言ってくれない?
何かがおかしいとわかるのに、それを口で説明することができない。それがただ……怖い。
「……わたし達は、根津未唯や木村セオのことがわかるんでしょうか」
「何が言いたい?」
促すような優しい声音に、何もまとまらずに出した言葉を一つまた一つと紡いでいく。
「バグは既存プログラムを書き換える機能を持っています。……であればわたし達はもう、わたし達の知る彼らに会えないかもしれない」
「一応一条や立木、清水はいただろう。ただそうだな。一条の例がある。キャラクタープログラムに変化はなくても描画を弄って姿を変えてくるかもしれない。そうすると誰しも他の攻略対象や──それこそ俺の姿になることだって可能だろうな」
視線をあげるとちょうど鷹村さんの視線が外れる所で、わたしは彼の横顔を見上げることとなる。女好きのしそうな顔立ちに意志の強そうな眉が印象的な、いつもの彼。痩せ過ぎないすらりとした体型に、緩く制服を着こなしたいつもの姿。
でもわたしの前にいるのが、本当の鷹村理人かどうかなんてわからない。そう誰にも。リアルなんてここには一つもないのだから。
突如わたしは、このまま彼についていっていいのか不安に襲われる。
「ここで見ている姿は、目で見ている物ではない。すべてプログラムに作られた虚像だ」
わたしの言いたいことを代弁するかのように鷹村さんが言う。
「だが俺が未唯に会いたいと思い、藤堂さんが木村に会いたいと思えば、きっと奴らなら出てきてくれるさ。そう、信じよう」
そう言われてしまったら、もはや反論の術はない。様々な物を飲み込んでわたしは頷いた。
「──そう、ですね。わかりました。早く彼らを見つけて帰りましょう。大切な人達の待つ、わたし達の世界に」
ごく一般的な男子高校生の姿をした彼は、その長い手を伸べるとわたしの頭に優しく乗せた。
心底安堵したとでもいうように目を細めると、ゆっくり微笑み、そして言った。
「なんだ。やっぱりお前未唯じゃないか」