57話
気付いた時、俺は学園を見上げる場所──最初のスタート地点に戻っていた。
「鷹村さん」
人気のない正門を早足で超えると、強張った顔の藤堂さんに迎えられる。それを目線だけで促すと、背後を小走りで藤堂さんがついてきた。
「さっきのは何だったんでしょう」
「何か爆発したようだったが詳細はわからん。だが目的は俺達をループさせることだろう」
振り向かずに答えると、後ろから息を呑む音が聞こえた。
「それは──」
「ループすると学園の外に戻される。どう考えても時間のロスだ。今は一刻も早くバグの大元を見つけて接触したい。それを妨害したい奴──恐らくバグの大元が、手っ取り早い妨害方法として俺達をループさせることを選んだんだろう」
「じゃあ学園に入ったら、また同じような方法で妨害されるということですか」
「恐らく。だが過剰に構える必要はない。前言撤回するぞ藤堂さん。手分けはしない。俺が先陣を切るから、ただ着いてくるだけでいい」
「わかりました」
赤茶けた壁が目前に迫り立ち止まると、三階建ての建物を見上げる。KK学園は変わらぬ姿のままそびえ立つ。だが今まで気にも留めなかったそれが、今や俺達の行く手を遮る大きな壁のように見える。
いつまで突っ立っていても仕方ない。砂埃の舞う白っぽい昇降口に踏み入り、上靴に履き替えるべく下駄箱に手を入れる。
すると──ぺたり。冷たい何かが手に貼り付き、声にならない声をあげて引き抜いた。と同時に背後からも小さな悲鳴が上がる。目を丸くした藤堂さんが、俺と同じように右手を抱えている。
「……い、今何か、わたしの手に」
「……大丈夫だ」
彼女の右手に異常はない。俺もだ。しばらくたっても藤堂さんの姿が変わらずそこにあることを確認して頷いた後、今度は自らの手首に触れ心音に意識を向けた。いつも以上に大きく聞こえるそれは、一定のリズムを刻んでいる。大丈夫だ。今はまだ。
冷たい廊下に、ぱたりと鈍い音が響く。人のざわめきのないここでは、足音すら耳に残る。
頭上にある白い蛍光灯が瞬き、採光窓の少ない廊下をいっとき闇が覆う。
俺達は昇降口を出て右に折れ、階段脇を通り抜けた。
ぱた、ぺた、ぱた、ぺた。ふと足を止め後ろを振り返ると、ほんの二、三歩の間をあけて藤堂さんが着いてくる。気付いた藤堂さんと目があう。ぱたり。小さな足音が止まる。
しんとした廊下の空気を大きく吐いた息で乱してから、俺は歩みを再開する。
階段の脇を通り抜け突き当たった所で足を止め、脳裡に思い浮かべた校舎の配置図と七不思議を照らし合わせる。ほぼ考えることなく右に折れる──浮かび上がる、
人影。
ぎくり。体を震わせた俺は、ややしてその正体がわかると肩を落とした。鏡だ。奥の壁に嵌められた大鏡に、俺の姿が映っている。
教室と向かい合わせの壁には、外の光景を映し出す窓が並んでいるが、今日はあいにくの天気のため光はほとんど届かず、空気もひんやり冷たい。こうした薄暗い中だと、鏡に映る自らの姿は、距離のせいもあり、まるで別の誰かがぼうと立っているかのように見える。
とん、と軽い衝撃を背中に受ける。首を回すと、藤堂さんの丸いつむじが眼下に映る。
その時、視界の端でもぞりと何かが動いた。
藤堂さんが二歩後ろに下がる。顔が白蝋のように蒼白だ。それを心配する暇もなく、俺は首をゆっくり前に戻した。
細く長い何か。鏡から、何かが出てきていた。指だ。しなやかな指先が、まるで水鳥が水面から頭を覗かせるかのように鏡から現れ、次いで腕、爪先と徐々に姿を現してゆく。とぷり。肩、腰。とぷり。頭。
全身を鏡から出し佇んだそれは、がくりと首を左から右へ傾けた。ひっと息を呑む音がいずこからか漏れ聞こえる。
それが、ぱかりと口を開ける。あぁぁ。細く悲し気な声が廊下を木霊する。悲鳴にも呻き声にも似たそれは、どこか人を呼ぶ声のよう。
ずるり。何かを引きずる音。
ぴちゃり。水音が小さく廊下を反響する。
女だ。髪の長い女が緩慢な動きで歩いてくる。滴はだらりと垂れ下がった女の腕と、右手に光る鋭利な獲物からこぼれ落ちる。
ぴちょん。
右に左に揺れる女は、覚束ない足取りで歩み来る。俺の足は冷たい廊下に張り付いてしまったかのように動かない。女から目を離せない。女はぎこちなく、しかし確実に近付いてくる。ゆらり。五メートル先に。
あぁぁぁぁぁ……。再び物悲しい声が耳に届く。体の奥から絞り出すような悲痛な声。彼女は何を訴える。あと三メートル。
その姿は、薄暗い廊下でもはっきりとわかる位置まで来ていた。乱れた長い黒髪は嵐にあった後のようにざんばらに絡まり、制服の左袖はしっとりと濡れて腕に張り付いている。朱。あと二メートル。足は、動かない。
スカートの左半分の色が変わっている。それは袖から滴るもののせいか、それとも隠れた足もまたどこか損なわれているのか。──あと一メートル。
ふと、女が顔を上げた。髪の奥から赤い唇が覗く。艶やかな唇がうっすらと開き、白い歯の奥からちろりと舌が現れる。あと三歩。濁った瞳が俺を捕らえる。あと二歩。
細く長い指先が伸びてくる。一歩。
触れる。
「────!!!」
指先が頬を捕らえる直前、後ろから強い力で肘を引っ張られ、俺はよろめいた。突然耳に鳴り響く大きな鼓動。心の悲鳴。
白い靄が彼女を覆う。彼女の姿が薄くなる。彼女が、消える。
思わず紡いだその名に、彼女が淡く微笑むのが見えた気がした。
「……また、最初からですね」
再び校舎を前にして、藤堂さんがぽつりと呟いた。彼女の言う通り、俺達は何の成果も得られず再び最初の場所に戻された。
それほどあの衝撃は大きかった。妨害はある程度予想できたことであるにも関わらずだ。だが人間には慣れというものがある。二度目に同じ事態に遭遇しても、一度目より耐えられるはず。
「一階から調査するのはやめますか?」
それは非常に魅力的な提案だった。いくら慣れて周回しなかったとしても、あの光景は二度もお目にかかりたい代物ではない。だが俺は苦笑を返すに留める。
「七不思議の中で調べたいのは人体実験の行われる地下室、深夜徘徊する幽霊、鏡から現れるドッペルゲンガー、存在しない九組だ。先程のヤツは『鏡から現れるドッペルゲンガー』のようだが、未唯や木村へ繋がるように見えなかった。とは言えども地下室は一階に入口がある可能性が高い。『深夜徘徊する幽霊』のために深夜まで待つ訳にもいかないし、『存在しない九組』の手掛かりがない以上、まずは一階から探っていくしかないだろう」
「わかりました」
余計なことを言わないでくれるのはありがたい。頷いた俺は足を踏み出しかけて、ふと考えを改めた。
「鷹村さん?」
「ちょっと待て。一つだけやっておきたいことがあった」
ポケットからシンプルな銀色の筐体を取り出すと、親指を滑らせる。僅かな待ち時間もなく、すぐに相手の声が耳に届く。
『はいはーい』
「清水、お前今どこにいる?」
『えー。ふつーに校内にいるよ。鷹村も早くおいでよ』
出るかどうかは賭けだったが、清水はいつも通りの口調で端末越しに応えた。ざわざわと背後が騒がしいから、彼女の言うことは嘘ではないのだろう。よく通る声を聞きながら、俺は目の前にある建物を見上げる。校舎に人の気配はない。
「清水、お前は以前俺に、今度質問の機会をくれると言ったな」
『えー? そんなこと言った? 覚えてなーい』
覚えていないのは当然だ。今周はまだ清水に会ってすらいないのだから。だが以前の清水が言ったのもまた事実。
「覚えてなくてもいい。だが約束は果たしてもらうぞ」
『うーん。……まあ一つだけならいいか。何?』
不服そうな声に、僅かに面白がる色が混じる。清水の猫のような笑みが端末の向こうに見える気がした。
一つか。しばし俺は黙考する。聞きたいことは山程ある。だが一つだけ選ぶとすれば。
「清水、聞かせてくれ。お前の家にいるのは誰だ」
沈黙が三秒きっかり流れた。次いで返ってきたのは爆笑。
弾けたように笑う清水は、俺の問いかけに答えない。時間の限られている俺は、悠長にそれを待つ余裕はない。
「おい清水。まさか」
『違う違う。あは。あははははは。そっか。あたし鷹村に答えるって言ったんだー。あははははは。笑える~』
「何が可笑しい。違うって何だ」
思わず憮然とした声になると、ひとしきり笑った清水がふうと息を吐いた。
『残念。鷹村の会いたい人はウチにはいないよ』
「──そうか。ありがとう」
『ねえ鷹村ぁ、あたし薄情かな?』
吐息のように漏れ聞こえた声に、切ろうとしていた指を止めて、俺は微笑む。目の前にいない清水の姿が、何故か先程よりはっきりと想像できた。
清水のそれは、俺が答えることじゃない。だが、
「俺は、清水に助けられたよ」
『──そう。うん、そっか』
じゃあいい、と清水は口にしなかった。ただひとこと『あまり女を待たせるなよー』と平淡な声で告げると、ぷつりと通話を終えた。そして二度と、彼女が俺の呼び出しに反応することはなかった。
俺はそのまま銀色の筐体を握り締め、誰もが知る連絡先を選ぶ。即座に流れ出したオペレーターの声にかぶせるようにして口を開く。
「◯△町◯番地の住宅付近に、刃物を持った少女の姿を見掛けました。怖いので確認してもらえませんか」
『情報の提供ありがとうございます。ではまずはご住所とお名前を──』
流れる声を無視して切断し、大きく息を吐いて空を仰ぐ。これで事態がどう動くかはわからない。だがこの鈍色の雲の向こうにある陽の光を目指して飛び続けるだけだ。例えイカロスのように翼を焼かれたとしても。
「俺の用事は終わった。行こう藤堂さん」
外部強制切断まで残りあと25分。