53話
「……まどか、僕は……」
重心を失ったかのように揺れたセオの右手が、銀色に光るフェンスにがちゃりと当たる。それを一切顧みることなく、セオは瞳を彷徨わせると、ぽつんと小さな声で呟いた。
「僕は……リューを助けられなかった自分を一生許せない」
「うん」
「僕達家族からリューを奪った美琴が憎い」
「うん」
「同じ血を引きながら、何も知らないかのように美琴を手助けするミイを許せない」
「うん」
「ミイがあの女と同じようにまどかやミヤビに手を出すなんてこと、許せやしない」
「……うん」
「でも……爺ちゃん達が、泣くんだ」
「うん」
「僕は──僕はただ、ただもう同じ想いをしたくない。ただそれだけなのに」
「うん」
「なのに──皆、僕がリューを失った時と同じだ。ツラいって」
「うん」
「わかってた。わかってたはずなのに──」
「……そうね」
ぱたりと雫が落ちる音を契機にわたしが手を伸べると、その手を取られ引き寄せられた。背中に回った手がわたしの身体を抱き締める。まるで縋るように。
とくとくと鼓動が聞こえる。こうしてお互いのぬくもりが感じ取れるのは生きている証だ。セオはわたしの世界ではアンリアルかもしれないけれど、今この時この場所ではこうして触れ合える現実の存在で。今のわたしにとって、それが全てだ。
「イヤだ。僕はこれ以上失いたくない。傷付けたくない。でもこれから起こることを指を咥えて見ているなんてできない。ねえまどか、僕は……僕はどうすればいい?」
「そうね。わたしもこれ以上自分や誰かが傷付くのは嫌。何もしないではいられない。だから……一緒に考えましょう。大切な人達と、本当の自分の心を置き去りにしないで、大切にできる方法を」
「まどかは教えてくれないの」
曖昧な答えに納得できなかったんだろう。拗ねたような言動が返ってきた。わたしの吐いた息が色素の薄いセオの髪を揺らす。
「言ったでしょう。わたし人とまともに付き合ってこなかったって。わたしも、どうすればいいのか考えなきゃいけないことばかりよ」
「……まどかの世界には、まどかが向き合いたいと思う人がいる?」
脳裏に皮肉げな笑みを浮かべた男の顔が過る。
「そうねえ。向き合いたかった相手はいないでもないけど、もうどこで何しているのかわからないから、今後の課題かしらね」
「そっか。……ねえ、僕がいなくなった時まどかも泣いた?」
「泣けなかったわ。悲しいのに、何度も何度も目の前が真っ暗になるくらい辛い想いをしたのに、涙だけは出なかった。泣いてしまったら、挫けちゃう気がして。セオを助けるっていう覚悟がぱちんと弾けてしまいそうで」
「うん。それ、ちょっとだけわかる。──ごめんね」
静かな、静かな時が流れる。触れ合う場所から、じんわりと温かいものが流れてくる。それはきっと、体温だけじゃない。
「一つだけ、ちゃんと訊いてみたかったことがあるんだ。まどかは帰りたいって思う?」
「え?」
「元の場所には色々大変なことがあるんでしょう? それでも帰りたい?」
わたし、元の世界のことそんな風に話したかしらと思いを馳せながら、わたしは一呼吸置いた。柔らかく清々しいセオの香りが胸いっぱいに満ちてくる。
「わたし、あっちでやりたいことが思った以上にあるみたいなの。それを放ってずっとここにいたら、気になって気になってそれこそ心から笑えないわ。残してきちゃった子もいるし」
剣を差した十代の少年の姿が脳裏に甦る。最後に見た時より眉間の皺が深くなっている気がするのは、待たせているというわたしの罪悪感からか。
「……それはどんな子?」
「ふふ。セオみたいに可愛くて頑張りやな子。ああ寡黙な所は悠生にも少し似てるかな」
過酷な環境下にいる子だから、ここにいる子達より表情に滲み出る苦悩の差は大きいけど、決して折れない強さを持っている。わたしがそう創りあげた。リアルで開発していたことが遠い昔のように思い起こされる。
「そう。やっぱりまどかは、そっちでも皆に必要とされてるんだね」
「セオも、ね」
「うん。わかってる……つもり」
付け加えられた自信なさげな言葉に、わたしは微かに笑った。さわさわと風が産毛を撫でてゆく。セオの熱と香りがわたしと交わり溶けてゆく。
眼下にある正門の前を兄弟らしい幼子二人が駆けてゆく。弾ける笑い声が微かに耳に届く。通常であれば部活動の声も騒がしい時間帯だが、学祭後の休日だからか学園内は静かだ。
「セオ、帰ろう」
「……」
「わたし達、帰る場所は違うけど、大切な人のいる場所に、自分が帰ると決めた場所にちゃんと戻ってもう一度始めよう」
「──」
「わたし邪魔なモノなんて全部蹴散らして、ちゃんといるべき場所に帰るわ。もう決めたの。だからセオはわたしのためじゃなく、従兄のためでもなく、自分のために、セオの周りにいる大切な人達のためにもう一度考えてほしいの」
「うん」
「だからセオ、わたしを信じて送り出して。わたしの本気を、力を信じて。セオの力がなくてもわたしならできるって信じてほしいの。わたしも貴方を信じる。貴方なら人を大切にできるって信じられる。だからセオが信じてくれればそれはわたしの力になる」
「うん」
「そうして──本当の最後の最後になったら、笑顔で送り合いましょう。そうすればわたし達は、どこにいても頑張っていけるわ」
「……」
「セオ?」
わたしを抱くセオの腕が一瞬キツくなった。しかしすぐに腕を弛めたセオが、吐息をついてわたしの顔を覗き込んだ。コツンとおでこ同士がぶつかる。
「……まどかは、僕が好き?」
「好きよ」
「それはどういうもの?」
わたしはセオの拘束からどうにか片手だけ抜け出し、目の前の彼の頬に触れ、笑った。ああ、つるつるでちょっとひんやりした、十代のセオの肌だ。
「貴方が幾度もの眠れない夜を悪夢に魘され、後悔と懺悔の想いと共に吐き戻し、それでもまだ明けない夜に絶望しのたうち回っていたのをわたしは知ってる。そんな貴方が毎日皆に向けていた、その笑顔にわたしは惹かれたの。苦しみを内包する強さと何よりも皆の幸せを願う優しさ。嘘のないそれらの気持ちがあふれる、貴方の眩しい笑顔がとても好き」
濡れたヘーゼルアイがわたしを見詰める。宝玉みたいな二粒の光は、不思議な色に煌めきわたしを捉えて離さない。離せない。
それらが更に近付き、唇から漏れる吐息が甘く交わり、絡む。
『──木村』
ノイズ交じりの、酷く聞き取りにくい声が宙を割った。
わたし達二人は動きを止め、視線を交わす。声はわたしの制服の胸ポケットからだった。わたしはセオから身体を離すと、そこからライトコーラルの端末を取り出した。わたしが録音したデータは秋月遼のものが最後のはず。じゃあ一体これは?
『お前がコイツの強さを信じられないって言うなら──』
悠生だ。信じられない、いつの間に? 彼と話している時に録音操作をした覚えはない。もちろんこんな会話をした記憶もない。彼はわたしが皆の声を録音していることをどこから知ったのか。
『俺が、お前と代わる』
「──フザケンナっ!」
短い台詞に、セオが過剰なまでに反応した。
驚いた。心底驚いた。珍しく口調も荒く声を張り上げた彼は、憤懣遣る方ないといった様子で目を怒らせている。
「ダメだ! 決めるのもやるのも君じゃない! この僕だッ!」
地団駄を踏みそうな様子で怒りを顕にしたセオは、ライトコーラルの塊を乗せたわたしの掌から、突然の変貌に驚くわたしの顔に強い目を向けた。
「まどか。僕は君の強さを知ってる。ホントは弱さもって言いたい所だけど、心底悔しいけど、それを知ってるのは僕じゃない。だからこそ僕は誰よりも君の強さを知ってる」
わたしはセオの語気の強さに気圧され、頷くことしかできない。
「サヨナラだまどか。君達の目の前に立ち塞がる存在はとても大きいけど、君達ならやれる。僕は君を信じる。信じてこの手を離すよ。僕もまた君の前に立ち塞がる存在の一つでしかないけれど、僕の望みは君が君らしくいられる場所で笑ってくれること。例え全てが食い潰されて見えなくなったとしても、僕の、僕達の想いが存在することをどうか忘れないで」
「セオ待って。言っていることがわからない。それはどうい──」
「笑ってまどか」
わたしの言葉を遮るように、セオが一方的に願いを口にする。
「笑ってまどか。君の笑顔が僕の祈り。君が笑えば僕の想いは永遠に生きる」
突然の言葉にわたしは困惑する。セオの瞳に懇願の色があるのはわかったけれど、笑えと言われてすぐにできるものじゃない。いつもならすぐに浮かべられる作り笑顔なんて、今のセオに見せたくない。
そんなわたしの様子に気付いたセオは、薄く微笑むと突然わたしを軽々と抱き上げフェンスの上に降ろした。鈍く銀色に輝く天面は、座れない程細くはないが緩やかに歪曲していて不安定だ。わたしは咄嗟にセオの腕を掴む。
「必死にすがり付かなくても大丈夫だよ。可愛いなぁまどかは」
「セオ、わたし高い所は苦手ではないんだけど、かといって得意でもないの。降りるからそこをどいて」
「大丈夫だよまどか、僕がしっかり支えてる」
「そういうことを言ってるんじゃないってわかってるわよね? 」
視線を背後に向けたら、そこにはぽっかりと何もない空間が口を広げて待っている。いつも身近な存在の地面は、はるか下方に悠々と横たわってとっても偉そうだ。そんな泰然自若とする存在に、改めてこんにちはしたくない。
下ばかり見ていたらくらりと目眩がして身体がふらついた。「おっと」と軽い調子でセオが支えてくれる。助けてくれることを疑ってはいないけれど、だからと言って全面的にセオの行動を信頼できる訳じゃない。それに今は。
「それよりセオ、わたしまだ貴方に──」
「ふふ。まどかの視線がいつもより高い」
わたしを支えたまま、セオがわたしの首筋に頬を寄せた。セオの腕だけを支えに、身動ぎもできずなすがままになっていたわたしは、ぬるりと生温い柔らかいモノが首筋を走る感触に肌を粟立たせた。ぎゃあ!
「ちょ、ちょっとセオ──」
「んー?」
そのまま耳元まで唇を滑らせたセオは、がぶりと耳朶に噛みついた。
「──うきゃあああッ!」
くくっと低い笑い声が振動として耳元に響く。ぬめりとしたそれは耳殻を象るように移動し、わたしの全身に痺れを生み出す。ぴちゃりと小さく水音が届く。
「──セオ、やめてやめて。そういう時と場所と場合じゃない。貴方まだ何か隠してる。煙に巻こうとしているわよね」
「うん」
リップ音を立てて唇を離したセオは、寂寥や至福といった複雑な感情がない交ぜになった苦笑のような表情でわたしを覗き込んだ。
「でも残念。時間切れだ」
セオが言葉を発すると同時に、周囲に白い靄がかかってきたことに気付く。薄れる人の気配、遠くなる優しいセオの声。
「待ってセオ。約束して。必ず皆の元へ帰るって。二度と早まった行動をしないって」
「ありがとうまどか。君は戻るんだ。始まりの元へ。全てをゼロにして」
「なに? 聞こえないわセオ──ああっ! もう! まだ全然平気だと思ったのに時間切れって何よっ!?」
「あはは。まどか可愛いなあ。Good luck my sweetie」
「セオ、約束よ!? いいわね? セオ! セオっ!!」
白く薄れゆく視界の中、最後に見えたのはとても幸せそうなセオの笑顔だった。
そう。最後の。