52話
わたしは隣に並ぶセオを見詰めた。静かなヘーゼルアイが揺らぐことなくわたしを見詰め返す。風がセオとわたしの間をすり抜ける。
ややしてしっとりと濡れて艶めく唇からふっと短い吐息を漏らすと、セオが手摺を掴んで体を伸ばし微笑んだ。
「僕はね、まどかの全部が大好きだよ。でもね、一番好きなのは安心したような笑顔のまどか。一生懸命作った笑顔もキュートだけど、気の緩んだ時にふと出てくる、目尻が下がって幼く見える、あの一瞬の笑顔が一番好き。……でもまどかからは、どんどん笑顔が失われていった。傷付いた君は、内側に籠って、固く平淡になっていく……あんなによく笑っていたのに。このままじゃ取り返しのつかないことになる。だから僕の心は決まった。君を必ず元に戻すって。例え二度と君に会えなくなっても」
「セオ、違う。わたしが傷付いていたのは帰れないからじゃない。貴方が傷付き倒れるのを何度も目にしたから、そしてそれをどうやっても止められないことに絶望していたからなのよ」
「違わないよ。まどかは元の場所に帰れば、以前のように笑える」
「それでも。わたしがここで体験したことや感じたことは、なかったことにできない。例え今元の世界に戻ったとしても、わたしの心はここに囚われて、今まで通りになんてできないわ」
自分で口にした言葉が、喉の奥で絡み付くようでわたしは一度唾を飲み込んだ。どこかで気付いていた、けれど認めたくなかったことが、唇から溢れ出てつまびらかになる。
「そう。わかってるの。もしここで貴方を止めることができたとしても、わたしが犯してきた過ちが消える訳じゃない。わたしの前で死んだ貴方がいなくなる訳ではないのよ」
「まどかの過ちなんてどこにあるの? 僕に何があったとしてもそれは君のせいじゃない。そして元の世界に戻りさえすれば、君ならきっとまた前を進んで行ける」
「セオのことを忘れて?」
「僕とのことは道端に咲く金鳳花のように、どこにでもある出来事の一つとして記憶の底に深く沈めてしまうんだ」
「そんなことできないわ」
「大丈夫。きっと君はすぐに忘れて歩いていけるよ」
わたしはゆるりと首を振り、ライトコーラル色の筐体を突き出した。ポンと軽い電子音が響く。
『セオ……』
「?」
風に乗りゆるやかに浮かび上がった声に、セオが不審気に眉を顰める。だが続く言葉と響きに、その目が徐々に大きく見開かれた。
『セオは昔から強くて優しい子だった。一緒に過ごす日々は私にとってキラキラ光る宝物だ。……あの日行ってきますと言ったあの子が、夕方になれば帰ってくるんじゃないかと期待して、お帰りを言えないことに毎日絶望してしまう。セオ、私の愛しい孫。私の宝物を奪った者を、無惨にもその手にかけた略奪者を、私は決して許さない』
「──ねえまどか。これはナニ?」
沸き出る声を遮るように、鋭い声をセオがあげる。
「これは、一体、ナニ!?」
「これはわたしの反則技よ、セオ」
わたしの掌に伸ばしかけた手が中途半端な所で止まり、セオの表情が固まる。信じられないというようにわたしの顔と掌の上の物体を視線が行き来する。
『私はあの子を抱き締め言うだろう。思いのまま生きなさい。後悔のないように、と。あの子がいなくなって私は悲しい。辛い。苦しい……。だが私の苦しみのためにあの子を閉じ込めることはしない。あの子には後悔しないよう、今自分が望む道を精一杯歩んでほしい。後から間違っていたと知っても、その時の自分が選んだ道だからと胸を張っていられるように。わたしの、わたし達の嘆きが……愛しいあの子の足枷にならないように』
優しい声音と堪えきれない嗚咽が冷たい空気を震わせる。圧し殺した悲哀は聞く者を苦しくさせる。胸が痛い。優しい悲しみに引き摺られる。
「まどか待って。 これは、だってこの言葉は──ッ!」
セオが両手で耳元をふさぎ、恐怖に塗り替えられた表情でわたしから距離を取った。
「ダメだ! ダメだダメだダメだ! おねがいまどか!それを止めて!」
それは罪の証。自ら遺した爪痕。セオが直視するには厳しい現実だろう。ましてやお祖父さんの言葉は、従兄の死によって変わってしまった彼自身に返ってくる言葉だ。セオの未来を変えることを諦められないわたしには、決して言えない。
奪った者への憎悪を決して忘れないと言いながら、それでも愛しい者の歩みを止めないなんて。
セオを止めようと足掻くわたしにも、
憎悪という鎖に囚われ愛しい者を切り捨て進み続けるセオにも、
──決して口にできない言葉、持ち得ない強さだ。
「やめてまどか! まどか! まどか! お願いそれを止めてッ! ──お願い……だ」
両手で顔を覆ってしまったセオを細めた目で見詰め、わたしはわずかに首を傾げる。そうして追撃する。だってセオ、貴方まだわかってないでしょう?
「ねえ。これだけじゃない。お祖父さんだけじゃないのよ、セオ」
『セオ……お前、今満足してんの。一人で、ニコニコしながら自分勝手に逝っちまって。ほんっとお前は薄情で嘘つきだよな……』
流れる言葉は止まらない。わたしが今まで少しずつ一つずつ拾い上げた声が、次から次へと流れ出る。
『俺のこと、頼りになるって言ったじゃん。何かあったら言えって言ったじゃん。あれも嘘なのかよ。お前の言葉を、オレはどこまで信じれば良かったんだよ。何で……何で、肝心なことは──ひとつだって言ってくれないん……だ……』
セオの棺に彼への声を録音したメディアを入れてもらおうと思います、ひっそりとした願いをわたしが告げると、ある人は悲しげに微笑み、ある人は激昂し、それでも何人かは賛同してくれた。
セオのクラスメイトの新君、部活の仲間、秋月遼や一条雅、そして一部の先生達だ。突然去ってしまったセオに、届かないとわかっていても届けたい声を、想いを、皆大なり小なり持っていたのだろう。
わたしはそれを端末に記録した。周回しても唯一その中身と共に持ち越せるプレイヤーアイテムに。
『セオ……オレはどこを間違えて……お前本当は……』
及川新の隠しきれない慟哭が大気を震わせ、消える。
次から次へと言葉が紡がれる中、セオは顔を覆った両手の隙間から、濁った瞳を覗かせていた。わたしの掌に乗ったライトコーラルの塊は、留まることなく次々と声を空に送り出す。
遺された者の言葉は、どこか皆同じ想いを纏っている。それは後悔、それは哀惜、そして度しがたい未練だ。どうして。
『俺は木村君が目障りだった。君は知らないだろう。君のせいで後戻りのできない暗闇へ足を踏み出してしまった子のことを。一生消えない後悔を心と身体に刻みつけてしまった子を。変わってしまった彼女達と、彼女達が引き起こした今とこの先を見た時、君は何て言うだろうか。……どうしても君を諦められなくて意味のない足掻きを繰り返し、傷つきぼろぼろになっていた彼女を、君の守りたかった彼女の姿を見て、それでもまだ足を止めずにいられるだろうか』
秋月遼の言葉が流れ始めた時、セオの目線がこちらを向いた気がした。だが気のせいだったのかもしれない。わたしがセオに目を向けても、彼のそれを捉えることはなかったから。
『聡明な君のことだ。彼らの声を、傷を、涙を想像していたかもしれない。だがそれは想像でしかない。本当の意味で君が知ることができたなら、君は何て言うだろう。それでもたった一つだけを胸に、全てを振り払って進むことを選べるだろうか。皆の前で平然とその決意を口にできるだろうか』
ふつりと一旦声が途切れる。その先を続けることを逡巡するように。
『──もし君が、捨ててしまった物を再度手にする覚悟を持てたならば、俺は今度は君に手を差し伸べると約束しよう。同じく道を誤ってしまった者として。だから──』
先輩の声はそこで終わる。セオはお祖父さんの声が流れ始めた時よりも少しだけ落ち着いた瞳で、じっとわたしの掌を見詰めていた。
「ねえセオ。わかる? わかった? 貴方を忘れて生きていけるだなんて、そんな言葉は貴方のエゴでしかないって思い知ってもらえたかしら。皆にとって貴方の存在はそんなに軽いものじゃない。そして皆よりも貴方といる時間が短いからって、貴方を大切に思うわたしの心まで否定してほしくないわ」