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51話

 鷹村さんとの通信が切れ、しばらく考えを巡らせていたわたしは、端末をしまい悠生に目を向けた。


「お願いがあるの。悠生」

「なに」


 風がわたしの髪を巻き上げる。正面に立つ悠生が、ゆるく目を細める。

 わたしは彼の全身を上から下まで観察した。まだ幼さの残る顎のライン、太い首、肩から二の腕にかけてしっかりとついた筋肉は、しかしまだ細く、今後の成長を予想させる。意外と細い腰も、高校生にしては太めの足も、彼の体つきはわたしの好みどんぴしゃだ。

 でも悠生の良い所は別にある。わたしは彼の左腕、そして左足に目を向けた。以前大怪我をしたというそこは、未だ元のような動きができないと言う。でも彼は普段それを一切感じさせない。体育の授業さえ普通に参加し、誰にも何も悟らせない。

 それは並大抵の努力じゃないだろう。痛みがぶり返したり、もどかしい思いをすることだってあるはずだ。だが悠生はそういう現実を当然のものと受け止め、決して弱音を吐くことはない。彼はあるがままを受け入れ、理不尽な現実に対する不満を漏らすことがない。

 それは他人に対する姿勢も同様で、人をあるがまま受け入れる彼だから、わたしも安心して気持ちを吐露できたのだ。

 どんなに醜い弱音を吐いても、彼ならそれすらわたしだと、拒絶することはしないだろうと。


「一度だけ、わたしを抱き締めてほしいの」


 両手を前に出し、悠生から目を離さずに言う。照れくささを隠すために意図的に上目遣いをしてみたのもまあ愛嬌だ。見逃してほしい。悠生は戸惑ったり照れたりするかなと少しだけ抱いた意地の悪い期待は、次の瞬間あっさり裏切られた。

 彼の両腕がわたしの二の腕の横をするりと通り抜け、背中に回る。太い大きな腕が優しくわたしの身体を抱き締め、全身が樹木のような落ち着いた香りに包まれる。温かく優しい感触と馴染んだ香りに、見えないわたしの心臓がとくんと胸を叩く。落ち着くのに、落ち着かない。久しぶりに感じる独特の心地良さを味わいながら、わたしは彼の胸に顔を埋めた。ああ、ずっとこのままでいたい。


 ──でも、そういう訳にはいかない。


 しばらく微睡みのような甘い安らぎに浸っていたわたしは、意志の力で顔を上げて悠生を見上げた。彼の身長はわたしより十センチくらい高いので、彼がわたしの顔を覗き込むようにしてくれない限り、わたしから彼の顔は見えない。

 胸を叩く音がいつもより早い。多分、このまましばらくすれば周回の規定値に達する。その前に彼に話しておきたい。


「悠生、ありがとう。わたし貴方がいたから頑張ってこれた」


 セオを失って気持ちがどこか遠くへ行ってしまいそうな時でも、気付くと教室で悠生の視線を感じた。その力強い視線が、存在が、いつもわたしを正気に引き戻してくれた。今ここにいるわたしが、わたしだと思い出させてくれた。


「わたしが本当に自分の場所に帰ってしまったら、もう貴方には会えない。それが凄く残念だわ。でも今ここにいる貴方(・・・・・・・・)には、いつどんな時でも、その時その瞬間が最後だってことには変わりないのよね」


 周回してしまえば、こうしてわたしを抱き締めてくれた悠生には、もう会えない。でも考えてみたら人との出会いはそんなものだ。これが最後かもしれない、という点は大小あれどもリアルと変わらない。

 だからわたしは伝えることを躊躇ってはならない。言葉を惜しんではならない。

 冷たかった風が今は心地良い。それは腕の中が温かいからだ。


「悠生、わたし貴方が大好きよ。別の出会い方をした時に、例え貴方とわたしの年齢が凄く離れていたとしても、ずっと一緒にいたいって思うわ」


 リアルで社会人のわたしを見て戸惑う悠生の姿を想像して、思わず笑みがこぼれる。


「でもわたし、逃げないって決めたの。自分の起こしたことは自分で片を付けたい。でないとわたし、前を向けない。今を直視できずに、貴方やセオや、一条雅や高坂美琴や……そうね、鷹村さんとも向き合うこともできずに、ずっと目と耳をふさいで蹲ったままになりかねないの」


 こっちに来てから気付いたんだけど、わたし面倒そうなことや嫌なことが重なってキャパオーバー起こしかけると、とりあえず逃げようとする性格だったのよね。情けないわ。

 でも、気付いたから。わたしが逃げ続けると『最悪最低の底無し沼のような状況』に陥るんでしょう?


「だから悠生、わたし行くわ。自分のために。自分を変えるために。だからお別れね悠生。そして次があったら、今とは違うわたしと貴方で会いましょう」


 少しずつ、その時が近づいてくるのがわかる。離れがたいぬくもりが、少しずつでも確実に薄れていくのを肌で感じる。

 その時、ふいに柔らかな感触が目元に触れた。

 温かいそれは目元の滴を掬い取り、吐息がわたしの頬を緩やかに撫でていく。

 そして目の前に、ありえない程近い場所に、悠生の目が。薄く光る睫毛が。目の離せない距離に。え。ちょっと待って。


「ゆ、ゆうせい……貴方、今……!」


 彼が笑う。少しだけからかいを含んだ笑い声が、触れ合った体を通じて震えとしてわたしに届く。


「泣くんじゃねえよ笑え馬鹿。──行ってこい」


 わたしを見下ろす悠生の瞳は、穏やかな陽光のように温かい。

 今まで聞いたこともないような優しい、優しい声が、しかし少しずつ遠くなる。

 目の前の笑顔が、白く白く霞んでいく。

 わたしは口をはくはくと動かしながら、消えゆく前にひとこと何かと考える間もなく息を吸った。


「悠生! 貴方そんな──ッ、そんなキャラじゃないでしょぉぉぉぉ!?」


 悠生の笑い声が、霞の向こうに沈んで消えた。







 次に気付いた時、学園の入口前、校舎を見上げる位置にわたしは立っていた。いつものスタート地点と様子が違う。そして周囲を見渡してから気付く。人の気配がない。学祭後の振替休日に戻ったのだろうか。

 わたしは一息つくと校舎に足を踏み入れた。ぺたぺたという足音を響かせて、たった一人階段を上る。セオが、そこで待っている気がした。誰に会うこともなく一番上まで行き着いたわたしは、その場に構える重い扉に手をかけた。蝶番が擦れる甲高い音が静かな廊下に響き、吹き込んできた風がわたしの頬を打ち髪を揺らす。

 陽光を反射して煌めく柔らかい栗色の輝きを見て、わたしは微笑んだ。


「セオ」


 手摺に凭れて街並みを眺めていたセオが、わたしの姿を認めてにこりと笑う。


「何だか久しぶりだね、まどか」

「そうだったかしら。毎日学園で会っているじゃない」

「うん。でも何故だろう。そう言いたくなったんだ」


 わたしはセオに向けて足を踏み出す。彼との距離はまだ遠い。


「ねえセオ、わたしがここではないどこかから来たって言ったら貴方信じる?」

「うん? 僕も毎日頑張って学園に来てるよ」

「そういう意味じゃなくて」


 気合を入れた第一声に、気が抜けるような言葉を返されて肩が落ちる。だが微笑むセオを見て思い直す。そう。そうね。


「──いえ。確かにセオの言う通りよ。皆それぞれの場所から来て、それぞれの場所に帰るわ」

「そうだね。どんなに大好きな相手と一緒にいても、一日の最後にはみんな必ず誰かの元に帰る。大好きな人を沢山作ることはできるけど、帰る場所は大抵ひとつだ」


 靴裏で小さく砂利が鳴る。こちらを見るセオの瞳は静かだ。


「セオの帰る場所はどこなの? お祖父さん達のいるお家? 従兄を亡くした過去? それとも帰る場所を見失っちゃったかしら?」

「僕はちゃんと帰ってるよ。まどかこそどうなの?」

「わたしだってちゃんと帰るべき所へ帰ってるわ」

「本当に?」

「……そうね。心は帰れず、ずっとここに──今いるこの場所に留まったままかもしれない。セオのことが気になって、心が凍りついてしまったのかしら」

「……」


 わたしはセオの横に立ち、人のいない校庭を一緒に眺め下ろす。


「ねえセオ、わたしとセオが初めて会った時のこと覚えている?」

「覚えてるよ。六月のここで、今と同じようにまどかが屋上の扉を開けてやってきたんだ。ここは意外と生徒が来ない。だからこんな場所に女の子が来るなんてビックリした」

「そう、そうね。それが始まり。この世界でのセオとのスタートは必ずここだった」

「最初は同級生かなって思ったんだ。だけど見たことないからすぐに違うってわかった」

「悪かったわね。童顔で」

「ちゃんと『センパイ?』って言ったよ」


 セオが笑う。そう。セオは一度も初対面のわたしを同級生と間違えたことはない。『見たことない』──彼は恐らく、全ての同級生の顔と名前を一通り調べたのだろう。彼の追う者が──高坂美琴らしき者が、他にいないか確認するために。


「わたしがセオに会った時の感想を教えてあげましょうか。『また()りづらそうな敵が来たわね』」


 ぱちくりとセオが大きな目を瞬く。


「敵? 僕が?」

「そうよ。この世界の目立つ男の子は皆敵。あ。鏡先生を男の子扱いはおかしかったかしら」

「まどかにとって僕やカガミは倒す相手なの?」


 わたしはちらりとセオを横目で見上げてふふんと笑う。僅かだけど、セオが珍しく困惑している様子なのがおかしい。


「そうよ倒さなきゃいけない敵。何よ今更確かめるように全身見なくても、鍛えた身体つきなんてしてないのわかってるでしょ……そういう意味じゃないわよ」


 実は小テストの結果得られるパラメータ補正を攻撃力に振れないかうりちゃんに確認したのは、誰にも、鷹村さんにも内緒だ。否といううりちゃんの返答がビミョーに遅い気がしたのは、まあ芸が細かいということにしましょう。サポーターが返答に困るなんてある訳ないもの。


「じゃあ敵って?」

「心を奪おうとしてくる敵。心を奪わなければいけない敵」

「ふうん。それで目的は達成した?」

「セオはわたしに心を奪われたの?」


 セオが笑う。何故かとても幸せそうに笑う。


「僕はまどかと出逢って変わった。まどかといると心が春風に包まれたり大嵐に巻き込まれたり大変。それが心を奪われるってことなら、そうなのかな」

「わたしもセオといると感情が忙しかったわ。でもわたしはセオより少しだけお姉さんだから、振り回されないようにうまく防御膜を作るのに長けていた、だから奪われるなんてことない、そう思っていたの」


 風がセオの香りを運んでくる。セオの視線がわたしの右頬を掠めたのがわかる。


「わたしね。元の世界でも同じようにうまく立ち回ってきたの。そりゃあうまくいかないことだってあったけど、人との距離を測って、傷付いても影響が小さく済むようにガードして押す所と引く所を見極める、そんな駆け引きを楽しんでた。それが大人だって思ってた」


 脳裏に浮かんだ男が、皮肉気な笑みを浮かべながら溜め息を吐いた。わかってるわよ。


「でもね。それじゃあ何も得られないしできなかったの。わたしがやっているのはただの逃げ。普段はそれで何でもなく過ごせるかもしれない。でも、誰かと衝突してしまった時、誰かの心を変えたいと思った時、今まで人と深く付き合ってこなかったわたしには、どうすればいいのか全くわからなかった」

「……」

「ねえセオ、わたし貴方を失うのが怖くて貴方を止めようとしたわ。何度も何度も。でも貴方は止まらない。過去を贖罪するかのように高坂美琴を追いながら、見えない何かに追い立てられるかのように彼女と似た存在を追い求めている」


 悲痛な色を灯したセオの瞳を思い出す。


『僕はね、いつも思ってることがあるんだ。どうして、どうしてって。ごめんまどか。僕は諦められない』


「わたしは怖くて踏み込むことから逃げたけど、貴方は何かを恐れて止まることができなくなってしまったの?」


『まどかの傍にいたい。まどかの気持ちが他へ行っちゃう所は見たくない。まどかの姿が見えなくなるのは耐えられない。でも僕はまどかを傷つけたくない。だから僕は……壁の向こうで、決して手を出せない遠い場所で、ただ見てるのが一番いいんだ……』


「わたしはセオが帰ってこなくなることが不安で貴方を止めようとしたけど、貴方はそんな不安を抱えながら、それでもわたしを──貴方のいない別の世界へ帰そうとしてくれたの?」






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