46話
「鷹村君、私藤堂さんと話したわ。彼女に気を付けてあげて」
最後に一条は、そう気遣わし気に告げて家に帰っていった。
特に状況が変わった訳ではない。だが一条の脆く壊れそうだった何かが少しだけ和らぎ、俺を拒絶する空気がなくなったように思う。それがどう影響するのか、俺にはわからない。
それより、と俺は口元に手を当て考え込んだ。俺はこの後秋月遼と対峙するつもりだ。一条は、秋月が怪我をした高坂美琴──いや、ここでは根津未唯と言ってしまおう。未唯の様子を見に行ってくれたと言っていた。未唯は一条と揉めて以降学園に顔を出していない。となると秋月が未唯の様子を確認するには、怪我をした正に当日か後日家に行くしかない。
だがそれなら確実に「根津未唯」を認識しているはずなのだ。
俺は秋月に最後に会った時の未唯の様子と、彼女が今どこにいるかを聞きたい。だが秋月がしらばっくれて「未唯に会ったと伝えたのは、一条を安心するための方便だ。実際は怪我をした未唯に会っていない」と言われてしまったらそれまでだ。もしくは「実際に怪我をしていることを確認したが、大したことがなさそうだったので、そのまま別れた。それ以上のことは知らない」等と言われるのも避けたい。
そう持って行かせないためにどうするべきか。
俺は秋月の言動、今までの態度、そして藤堂さんから聞いた秋月の性格を思い出しながら、会話の流れを頭の中でシミュレートした。
これは恐らく、秋月遼の感情を暴くことがキーとなる。
放課後。俺は秋月を伴って屋上へ上がった。相手のフィールドにいたくないのと、人目を避けることが目的だったが、秋月は気にせず了承してくれた。
埃っぽい砂の舞う白い床が目前に広がる。俺は先行して屋上の端まで進むと、背後についてきた秋月遼を振り返った。常に変わらない、柔和な笑みを迎える。
「秋月先輩、お忙しい中このような所まで足を運んで頂き、ありがとうございます」
「うん。この時期は次の役員選挙の準備くらいだから、もう大丈夫だよ。どうしたんだい?」
「ご存知の通り一条先輩に話を聞きましたので、秋月先輩にも事実確認をさせて下さい。九月十日の放課後、秋月先輩が何をしていたか」
秋月の微笑みが陽光の下で広がる。
「九月十日というと金曜だね。確か俺は生徒会の残務があったから、それらを片づけた後帰宅したよ。時間は正確には覚えていないけど、部活動がまだ終わる前くらいの時間じゃなかったかな。帰宅してからはいつも通り宿題を含めて家のことを一通り。我が家は両親が忙しくて家事も持ち回りだけど、最近弟妹がかなり動いてくれるから助かってるんだ」
即座に返ってきた返答に、こちらの質問を予測されていた可能性が過るが、まあ問題ない。
それより秋月自身の口から家族の話を聞くのはこれが初めてだ。話題を逸らす目的にしてはお粗末だからそういう意図ではないだろうが、何故ここで挟んできたのだろう。とりあえずタイムアップにならないように軌道修正させるか。
「秋月先輩は高坂美琴の怪我の様子を一条先輩に伝えた。ということは貴方は九月十日より後で高坂美琴の様子を確認しに行った、ということですね?」
「一条さんがとても心配していて、見るに堪えなかったからね」
「直接高坂美琴に会ったんですか?」
「ああ。ご家族も心配されていたけど、怪我は大したことないと言っていたよ」
「それは彼女本人の言葉ですか? 貴方は彼女の怪我の様子を確認されたんでしょうか」
度重なる確認に、不可解だというように秋月が眉を顰める。
「そりゃ直接怪我をした部位を目視した訳ではないけど……君は何を聞きたいんだい?」
「失礼。あいつの怪我の様子が心配で、詳しいことをお聞かせ頂ければと思ったんです」
まじっと俺を見た秋月が、納得のいかない顔のまま一つ頷いた。
「そう。彼女の頭部はガーゼ一つの状態で、包帯等は巻かれていなかったよ。頭部は出血量が多くなりがちだから一条さんから状況を聞いて君も心配になったのかもしれないけど、実際それほど深くなかったんだと思う」
「傷は確実に負っていたが、深手ではなかった、ということですね?」
「そう言ったつもりだよ?」
「秋月先輩はご存知かもしれませんが、学園側は高坂美琴が怪我を負ったことを把握していません。つまりご家族は学園に怪我の報告をしていないことになります。おかしくないでしょうか。あいつの怪我は一条先輩が恐れる程多量の出血量だったと聞きます。いくら実際は大したことなかったとは言え、家族にとっては一大事だ。怪我を負って帰った娘のことで、学園に連絡するのが普通の行動でしょう。だが実際はそうでない。つまり俺にとって今のところあいつが怪我をしたという事実の拠り所は、貴方と一条先輩の目撃証言だけなんです」
秋月遼の瞳に剣呑な色が宿る。
「一条さんや俺が嘘をついているとでも言いたいのかい?」
「あいつは一条先輩を邪魔に思っていた。そして一条先輩を呼び出し、もみ合って倒れ、出血。一条先輩は狼狽したでしょう。実際その後彼女は気が気でなくて、心身共に憔悴していく様子が見てとれました。そこに嘘があったとは思いません。もしもそれがあいつの思惑通り、と言ってしまったら過言でしょうか。未だに学園側にすら連絡のない怪我、であればそれは自作自演──実はあいつは、何らかの方法で出血したかのように見せかけただけで、実際は怪我なんてしていない、それを貴方は知りながら口を閉ざしていると予測することも可能です」
「君は──君は本当にそんなことを考えているのかい。君のことを慕う彼女が、人を陥れるためにそんな悪趣味な自作自演を果たしたと本気で?」
「慕うあまり、ということが世の中にはあることを、俺は知っています」
単純に可能性がゼロでなければ論じれる、という意味で言った言葉を、恐らく違うように捉えたのだろう。秋月遼は馬鹿馬鹿しいと短く吐き捨てた。
「愚かしい程の自信だね。そう思うのは君の勝手だ。好きにすればいい。だがどうして俺がそんなことに加担しなきゃならない」
「貴方が高坂美琴を憎からず想っていることを俺は知っています。俺以外にもそう捉えている人はいる。貴方はあいつに泣きつかれでもしたんじゃないですか。少しだけ、一条先輩に意趣返しをしたいとでも丸め込まれて」
ぶっちゃけて言うなれば『好きな相手に絆されたんだろう』という酷い言葉だが、秋月遼はそれに対して高校生らしい狼狽を見せることはせず、ただ冷たく俺を見下ろした。ふむ? 俺は少しだけ引っかかったことを心の隅に留めておく。
「勝手な憶測で人のことを貶めるのはやめてくれないかな。俺は事実高坂さんの怪我を確認したよ。出血量が多いように見えたのは頭部だからで、実際は大したことはなかった。大事にしたくないという彼女の意向があったから、ご家族も学園側には連絡を入れなかったんだろう」
「頭部は危険ですよ。大したことないなんて、家族でもない赤の他人の貴方が適当に言うべきじゃない」
「俺が言った訳じゃない。病院を受診して、大したことないという診断だったんだろう。ご家族にそう伺ったんだ」
「高坂家のご家族に、ですか」
「そう。しつこいね」
俺は頷いた。ここまではおおよそ予定通りだ。手持ちのカードの一つを場に開示するタイミングだろう。
制服のポケットから端末を取り出し、一つの画像を宙に展開する。ふわりと向こう側が透けた少女のイミテーションが浮かび上がる。
「秋月先輩、こちらの少女をご存知ですか? 画像がやや粗くて恐縮ですが、よく見てみて下さい」
「……記憶にない、と思うよ」
「本当ですね?」
「……ああ」
俺は再び頷き画像を消した。不穏な空気でも察知したのだろうか、秋月遼が若干苛立ちの混じった声を上げる。
「鷹村君、君との会話はまだるっこしい。時間もないことだし言いたいことをはっきりと言ってくれないかな」
「秋月先輩、貴方が会っていたKK学園に通う少女は高坂美琴じゃない。今見た画像が本物の高坂美琴です」
秋月遼の表情が凍る。何も知らなかった、という驚愕の表情ではない。まあそうだろうな。
「学園側が把握している個人情報は本物の高坂美琴のものです。だが実際に登園していたのは根津未唯、俺の幼馴染。貴方が訪れたのは高坂家ではなく根津家です」
「突拍子もないことを言うね」
「先輩、高坂美琴は現在長期休暇という扱いとなっていることをご存知ですか。実はしばらく前から高坂美琴の母親は入院中で家にいない。父親も家に寄り付かず、学園側が連絡を取ることすら難しい有様だ。貴方は『後日高坂家に伺った』とおっしゃった。学園側から住所を入手したのでしょう。その時そういった事情も聞きませんでしたか。信頼の厚い生徒会長である貴方であれば、様子を見てきてほしいとでも言われたのではないですか?」
「……」
「それともやはり、彼女に会って怪我の様子を確認したというのは嘘でしたか? 実際は彼女の狂言だと」
「違う!」
「では貴方は怪我をした彼女が高坂美琴でないことをご存知のはずだ。根津家に行き、高坂家にいるはずのないご両親やご兄弟にまで会ったでしょうから」
「……」
秋月遼が黙す。冷たい風が足元を吹き抜け、前髪を揺らす。ここからだ。俺の知りたいことを秋月遼に語らせるには、ヤツに俺の言うことを認めさせないとならない。
秋月遼が顔を上げて俺を見て、微笑んだ。
「ごめんね鷹村君、俺は一つだけ隠し事をしていた。実は一条さんと彼女の間で一悶着あった当日、俺はすぐに怪我をしている彼女を追いかけたんだ。心配だったからね。そんなにすぐに追いつけるのはおかしいかい? 一応これでも生徒会長だから日頃から周囲の様子は注意する習慣があってね。知ってる? 彼女達が会っていた場所は生徒会室の窓から見える位置なんだよ。二人でいる所を見て何となく妙な雰囲気を察してすぐに階下に降りたら、一条さんは既にいなくて彼女が裏口から出る所だったんだ。そのまま彼女を家まで送っていったから、表札なんて見もしなかったし、後日様子を伺いに行った時も疑問なんて持たなかったんだよ」
その言葉に内心俺は舌打ちしたい気分になった。俺の言うことに証拠はない。だからしらを切られて逃げられるのが最も厄介だった。だからこそ感情を揺さぶって正当な理屈を持ち出させないようにしたかったんだが、やはり無謀だったか。
いや、と俺は思い直す。俺の目的は「秋月遼が高坂美琴と根津未唯の入れ替わりを知っている」ことを吐かせることではない。
「では秋月先輩、俺にとって貴方はご家族以外で彼女と会った最後の人物となります。当日とその後家に行った時の二回、彼女に会ってみてどのような様子でしたか」
「君は幼馴染だと言っていただろう。直接会いに行けばいいじゃないか」
「知らないんですか。あいつは今家にいません。連絡も取れないんです」
「彼女が君に連絡を取らないというのなら、俺から何かを言う訳にはいかないよ」
「では彼女が殺人事件の容疑者だったらどうします?」
秋月が目を見張った。
「──何を」
「今現在、彼女は殺人事件の重要参考人として警察にマークされています」
もう一つのカードを場に晒した俺は、足元のコンクリのように色を失くしていく秋月の顔を見て内心息を吐いた。どうやら秋月の感情を揺さぶるのには成功したらしい。だが──。
みるみる蒼白になっていく秋月の顔を見て、俺は苦い独白を声に出さずに呟く。
少なくとも秋月は、未唯が殺人容疑をかけられても不思議ではないと考えているようだ。