45話
「一条先輩、もう体調は平気ですか?」
「ええ」
ふわりと一条が微笑む。目の形から鼻筋、唇の傾きまで綺麗に形作られた微笑は、何故かあまり温度を感じさせない。一条の動きを何とはなしに目で追っていると、気付いた一条が目を伏せた。長い睫毛が頬に影を作る。
「それで鷹村君の用事は何かしら?」
「俺は、一条先輩に聞きたいことがあります。でもその前に言っておかなきゃならないこともある」
「鷹村君のお話なんて珍しいわね」
言われて反射的に頷く。確かに俺は人から事実を聞き出そうとするばかりで、自分が話すことはあまりない。
「そうですね。俺は自分のことを自らすすんで話そうとは思いません。別に話すことを厭っている訳ではなく、ただ必要と思わないからです。でも一条先輩に話を聞く前に、俺は自分の話をすべきだと、そう判断しました」
「どうしてなのかしら」
それには答えず、俺は続けた。
「俺はある人に言われたことがあります。俺は前ばかり見ていて人に興味がないだろうと。別のヤツにも言われました。もう一歩踏み込んで、周囲の人間の言葉を汲み取ってやるべきだと。確かに俺は人の声なき声を取り零す失敗を何度もしてきている。だが俺は相手の話さない決意を、もう少し頑張ると決めた強さを尊重したい。だから異変に感付いても口にしなかった。それが相手を尊重することだと信じて。でも──」
目の前の一条の姿が、朱を纏った姿に変わる。壊れてしまった一条、去ってしまったあいつ。
「貴女が声を、想いを吐き出せないまま、取り返しのつかない、手の届かない場所に行ってしまうくらいなら、お節介だと言われようと、身勝手だ独善的だと謗られようと俺は手を離すべきじゃない。なかった。俺はもう今までと同じ失敗をしたくない。だったら見て見ぬふりをするのではなく、拒絶されようとも内面に踏み込んで、本当の心を暴く──そう、決めてきました」
「……そう。それで、そこまでして鷹村君が聞き出したいことは何なのかしら」
「九月十日、貴女が高坂美琴と会って以来、貴女が恐れていること。そして木村達の死を耳にして、倒れる程のショックを受けた貴女の事情を」
一条が疲れたように溜息を吐いた。
「それって悪趣味ね、鷹村君」
「……はい。俺もそう思います」
起こった事実ではなく、人の心に踏み込むなんて芸当は、一条の言う通り悪趣味なものなんだろう。ましてや後輩の死など、誰もが口を噤むような話だ。それに関わっている相手に、何故ショックを受けているんですかと聞くなんて、聞かれた側からすれば何を無神経なことをと罵倒したくもなるだろう。
だが俺は、今まで彼ら彼女らの心情や発せられない言葉について脇に置いてきた。そうして多分、沢山傷つけてきた。一条や未唯、あいつや弟、そして恐らく藤堂さんのことも。
だから今の、今までのどうしょうもない最低な状況の一因が俺のやり方にあると言うなら、俺の拘りなんてまとめてゴミ箱に捨ててやる。失敗のループに嵌まった時に同じやり方に拘るなんて愚の骨頂だ。
「でもいいわ。貴方の覚悟と、藤堂さんに免じて話してあげる」
藤堂さん? と聞き返す前に一条がベッドから降りた。軽やかに降り立ったその足元を見て、初めて彼女が素足であることに気付く。
「鷹村君の言う通り、私はその日高坂さんと会ったわ。内容は鷹村君、貴方のことよ。彼女は本当に貴方のことが大好きなのね」
反応に困った俺は、肩を竦めることでそれに応じる。高坂美琴と会ってなどいないと否定されるよりはずっと楽だが。
「彼女は私のことを邪魔に思っているようだったわ。そしてとても興奮していたの。それで……少し諍いのようになった結果、私は彼女を怪我させてしまった」
以前にもこの辺は聞いた。一条は恐らく、怪我をした未唯の前から一旦去っている。それを補強するかのように彼女は続けた。
「その後高坂さんはずっと休んでいるし、怪我の様子すらわからない私はとても心配で……鷹村君なら知らないかしらって様子を聞こうかとも思ったわ。でもできなかった。今更って、張本人が何をって責められるんじゃないかって怖かったの。身勝手よね。でもそんな私の様子に、木村君はすぐに気付いたみたい。彼は今の鷹村君と同じことを聞いてきたわ」
木村よりずっと近くにいたはずの俺が何も気付かず、一条のことを放置していたと責められているようで、罪悪感がよぎる。
彼女の口調に責める色があった訳ではない。内心渦巻く感情を押し込め、努めて訥々と話している。だが唇は震え、顔色は一層白くなっている。このまま続けさせても大丈夫だろうか。脇に置かれたテーブルの上を見遣る。刃物やそれに変わる物はない。
「私は高坂さんとのやり取りを話したわ。もう抱えていることも苦しくなってたから。でも木村君は私のことを責めなかった。むしろ私のことを心配して、関わるな忘れろって言ってくれたわ」
関わるな? 一体何に?
「でもその時の木村君、今思うと少し変だった。見付けて、止めなきゃって言っていたの。凄く怖い顔で」
「止める? 先輩は一体木村に、高坂美琴とのどんなやり取りを話したんですか」
「……鷹村君、私は高坂さんを身体的に傷つけてしまった。けれど、だからこそ年下の女の子を更に精神的に傷つけるような真似をする訳にはいかないの。私は高坂さんとのやり取りについて貴方に詳しいことは話せない。けれど彼女……高坂さんは私と会った時明らかにおかしくて、恐ろしい害意を見せていたわ。多分木村君は、その害意が暴走して、また私や他の人にまで及ぶことを恐れたんだと思うの。特に、藤堂さんに」
「危険? 藤堂さんが?」
反芻して俺は眉を顰めた。先程も感じた違和感がまたぶり返す。木村が一条に言及している対象は根津未唯に他ならない。何故なら一条に高坂美琴との繋がりはないからだ。だとしたら木村が止めようとしているのも、危険だと認識しているのも殺人犯の高坂美琴ではなく、ただ高坂美琴と遠い血の繋がりがあるだけの未唯ということになってしまう。
しかしそれなら何故木村は殺された? そもそも未唯はたまたまこの学園に来ることになったのだから、転校前から木村が追っているのは高坂美琴でしかありえない。では木村は何故未唯のことをそこまで気にする? 未唯を危険視する理由がどこにある。どういうことだ。
木村は本当は誰を──何を止めようとしていた?
「鷹村君」
「あ。すみません」
「鷹村君は、今誰のことを考えているの?」
「え?」
「鷹村君は、本当は誰が好きなのかしら」
突然ぽんとその場に投げ込まれた問いに面食らう。そういえば、こういうゲームだったかこれは。以前も誰かから突然似たようなことを聞かれたなとうっすら思い出す。風に揺れる白いレースのカーテンに、一条が目を遣る。
「木村君はね。自分勝手な私にも凄く優しくてとても心配してくれたけれど、多分彼は藤堂さんのことが一番心配で、大切なのね。だから彼は、藤堂さんのために動いたんだと思うの。秋月君も私のことを心配して、高坂さんの怪我の様子を確認してくれたりととてもお世話になったけど、彼が見ているのも私じゃない。きっと、私のために動いてくれた訳じゃない」
思わず見上げた先に、諦めたような、壮絶な孤独を感じさせる一条の横顔があり、思わず言おうとしていた言葉を失う。
「鷹村君、貴方もそう。私の前にいる時、どこか遠い所を見る。わかってるの。みんな私を見ない。みんな、みんな私を通して別の人を想う。でもそんなことは免罪符にならないわ。どんなに私が取るに足らない存在でも、みんなが私に見向きもしなかったとしても、私の存在が高坂さんを追い詰め、私の言葉が木村君に何かを決心させ、そして彼と彼のクラスメイトの女の子の死の一因となってしまったことは事実、認めなければならないの」
ああやはり、と俺は思う。やはり一条は木村達の死と、そして高坂美琴の不在を自分のせいだと捉え、悔いているのだ。それに対して前回俺は何も言えなかった。不確定事項を口にするのを良しとしなかったからだ。だがその結果があれだ。ならば俺がやることは決まっている。
「一条先輩、木村達のことは貴女のせいじゃない」
「何故そう言えるの?」
「……貴女が何もしなくても、木村は危険に飛び込んだだろうし、未……あいつは、学園からいなくなったでしょう。木村はそれだけの事情があったし、高坂美琴が学園からいなくなるのは決まっていたことでした。それがこのタイミングで相次いで起こってしまったのは……もし、それを誰かの責とするのならば、それは俺や藤堂さんにある」
一条雅はしばらく黙って俺のことを見ていた。
「先輩の言う通りです。あいつは俺の一挙一動に心を動かしていた。だからあいつが何かしでかすとしたら、俺が原因です。でも俺は、あいつのことを気にもかけなかった。気持ちを考えようとしなかった。それがあいつを追い詰めて、その結果悪い影響が一条先輩にまで及んだに過ぎない。先輩は被害者で、原因は俺です」
『君がキーだよ鷹村君。始まりも終わりも君次第だ』
鏡の声が唐突に脳裡に甦る。わかってるよ鏡先生。つまりそういうことなんだろう。
「俺が何かをしなかったからあいつは思い詰め、一条先輩を傷つけ、そして去った。更にもしそれが木村にも何らかの影響を与えたというのなら──木村達が死んだのも、一条先輩でもましてや藤堂さんでもなく、俺のせいということになります。だけど俺は未だ、あいつに何をするべきだったのか、何と声をかければ良かったのか、正直わかっていない」
なのに藤堂さんには木村をどうにかしろと指示した。彼女が木村と接するたびに不安定になっていっているのをわかっていたのに。
「手を借りること、差し出すこと、どちらも悪いことではありません。でもそのタイミングは、どこで頼るかは自分で判断するものだ。俺が勝手に口出すのは違う。俺が先に手や口を出したら、それは相手の能力を信じていないことになってしまう」
『……鷹村さんは、俺には荷が重いと思ったから、裏で手を回してくれたんですよね』
「本当は、全く気付かなかった訳じゃない。貴女やあいつが思い悩んでいることに気付かなかった訳じゃないんです。でも自分でどうにかしようと足掻いているのに、求められてもいない俺が手を出したら、それは相手の頑張りを無下にすることになる。見限ったことになる。これは単なる怠慢の言い訳でしょうか。相手の気持ちを推し測ることを放棄し、責任転嫁していることと同義でしょうか。傷つき、弱っている相手に求めるのが間違っているんでしょうか。……そう、全く迷わなかったと言えば嘘になる。でもそれでも俺は……」
『うるせえ! 兄貴に俺の気持ちの何がわかる! 俺はあんたじゃねえ!! 俺を自分と同じだと思うなッ!』
「人の気持ちを勝手に決めつける訳にはいかない。どんなに気にかかっても、俺の信じる道と違えようとも、もうそれだけはしたくない。そうでなければまた俺は間違える。俺は人の気持ちがわからないから。どれだけ考えても、幾通り考えても考えても惑うばかりで正解なんて得られやしないのだから。でもそれこそが、俺のその選択こそが誤りで取り返しのつかない事態を引き起こすとしたら。俺は、俺の取るべき行動は──」
ふと両手に冷たく柔らかな感触が触れた。一条が、俺の両手を自らのそれで包み込み、そっと口元に寄せた。
「ごめんなさい鷹村君。私はまた自分のことしか見えていなかった」
「──何が、ですか」
「私ね、鷹村君は何も気にしていないのだと思っていた。本当はどういう気持ちでいるのかわかっていなかった。鷹村君も、私と一緒なのね。高坂さんが姿を消したのは自分のせいだと悔やんでいるのね」
「いいえ。悔やんでなんかいません。そんな感情に意味はない。何故ならあいつが学園から去るのは
やり直しの効かないことだから」
「そう。やり直せるなら、もう一度って思ってしまうその気持ちは、私にもわかるわ」
「違う。俺は……俺は結局何もわかっていない、何も変えられていないんです。一条先輩だけでなく、あいつだけでなく、他の誰の気持ちも未だわかっていない。一条先輩じゃない。俺が、俺こそが自分のことしか見てなくて、人のこともわかった気になってて、わかろうとする努力を怠ってきた。そして未だに何が正しくて何が間違っているのかすらわかっていない」
「いいえ。鷹村君。それは間違いとは言わないわ。貴方も、そして皆もその時その時自分の思うようにしただけ。たまたまそれが──木村君と、あの女の子のような取り返しのつかない不幸な結果を引き起こしてしまっただけ。そういう結果を引き起こしたという事実は、絶対に忘れてはいけないことだけれど」
ぬぐい切れない後悔の色を声音に見出し、目線より下にある一条の顔を見詰める。彼女が淋し気に、だが精一杯の気丈さを見せて微笑む。
「わかったわ。貴方は決して人に無関心でもなければ薄情でもない。ただ少しだけ臆病なのね。人の心に踏み込むことを、人より過剰に恐れている。理由はわからないけど、それが周りの人達に突き放していると淋しさを感じさせるのかもしれないわ」
懐かしい顔が、目の前の少女の顔に重なる。
「それでもいいの。良かったの。それが貴方ですもの。ただ私は少しだけ淋しくて、耐えられなくて、そんな貴方から逃げてしまっただけ。それが鷹村君を傷つけることになってしまったのね」
『理人、私……』
お前もただ……淋しかったのか?
両手を伸ばして俺の頬を包んだ一条が、俺の瞳を覗き込む。
「でもね。私達は今こうやって向かい合えている。どんなに誤解しても、傷つけあったとしても、これから歩み寄っていくことだってできるわ。だから鷹村君も諦めないで。高坂さんにもう一度会いたいんでしょう? 会って彼女が何を思っているのか聞きたいんでしょう? 貴方ならまだ間に合う。貴方ならできるわ。だって私ともこうしてきちんと話すことができたんですもの。絶対大丈夫よ」
「……どうすればいいのかわからない俺が、あいつと会って、あいつの想いを推し測ることができると思いますか」
「わからないわ。でもこうして貴方が話してくれたように、貴方が会って感じたことを、ただそのまま伝えてあげればいいと思う。お互いに見えてないことはきっと沢山ある。それは言葉にしないと伝わらないのよ」
「そんなことで、状況が変わるとは思えない」
「でも今、変わったわ」
何が、とは言わなかった。その時一条が俺と同じものを思い描いたとは思えない。だけど。
「……そうですか。今俺が何かを変えれたと言うなら……先輩がそう言うのなら」
もし俺の行動で、目の前の彼女が疲れ切って彼岸へ旅立つのを防げたのなら。
あいつにも、俺は意味あることができるだろうか。
言葉を口にしない一条の微笑みはひどく柔らかく、ふいに腹から熱い何かがこみ上げてきた。それを押し留め無理矢理笑ってみせる。多分、笑いにもならない、酷く不格好な表情になったと思う。
「……一条先輩今ちょっと、年上らしいです」
「当然でしょう? だって私、お姉ちゃんですもの」
何の脈絡もない俺の言葉に、同じように根拠にもならないことを言って一条は笑った。
だけど何故か彼女は自信たっぷりで。そんな彼女の態度に、俺もまた何故か肩の力が抜けてしまうのだった。