39話
「よしこれでどうだ!」
開発者画面で最後のコマンドを叩きつけると、プログラムが正常に認識されコンパイルを始めた。文字列が次々と並び、光の洪水のように上へ上へと流れていく。
「ったく、こんな簡単な処理にこれだけ手間がかかるとは。もう少し内部の権限強くしてもらわんと今回のようになった際に困り者だな」
流石に疲れて画面を閉じる。昨夜からずっとプログラムをチェックしてログアウトできる抜け道を模索していたため、しばらく開発者画面は開きたくない。
窓から見える空は青く、網戸の隙間から吹き込んでくる風は涼しく気持ち良い。俺は網戸を開けて頭を出すと、大きく息を吸った。外出日和と言える気候だが、そろそろ日も傾いてくる時間帯だ。没頭して昼のターンも半ばまで潰してしまったようだがさてどうしようか、と視線を宙に這わしたその時だった。
『プレイヤー藤堂円架、陥落しました』
無機質なアナウンスと同時に鳴り響くコール音。脳が状況を理解できなくて一瞬静止してしまう。何だ? 今、藤堂さんが……いやそれより電話?
テーブルに放置していた端末の画面を見る。表示されているのは『藤堂さん』。ちょうど彼女からの着信だ。だが今正に彼女が陥落したとアナウンスされていたはず。
戸惑い、だがすぐに別におかしなことではないと思い至った俺は、着信に応じた。
「俺だ。どうした」
『たか……さん、聞こえ……か』
端末から聞こえてくる音声はノイズが酷く、非常に聞き取りにくい。通信障害か。決められた仕様か、それとも俺が色々裏から手を入れたことによる弊害か。
「藤堂さん、ノイズで聞こえにくい。悪いが会話は手短にして後でテキストで送ってくれないか」
『……ますか? 聞こえますか。……ず三つ……一方的に話します』
「ああ。大丈夫だ」
『まず一つ。清水律に気を付けて下さい。た……が、バレー部の遠征の日、部活を休んでいるはずのセオが、自分も試合だと言って外出しています。この日はバレー部以外試合はありません。この日セオは……があります』
時折遠くなる声を何とか拾って解読する。木村と清水?
「わかった。清水の行動に注意しておく。詳細はまた後で聞かせてくれ。後二つは」
『秋月遼との会話に注意して下さい。彼との会話は危険です。引きずり込まれる。わかっていても会話を始めてしまうと振り払うのが難しい。今回わたしは彼に陥落されました。次もまた同じことがないとは言えません』
「わかった。藤堂さんはしばらく秋月遼と接触しなくていい。必要があれば俺が対応する」
『そして最後にもう一つ。た……セオの死によって後戻りのできない暗闇……秋…………』
「藤堂さん? 聞こえない。藤堂さん?」
そこから先は、再びノイズが酷くなり完全に聞き取れなくなったので、俺は一方的に断りを入れて通話を切断した。
木村の死によって後戻りのできない暗闇へ? 詩的な表現だ。面倒くさい。こういう言い方をしそうなのは、藤堂さんの話の流れ的にも秋月遼か。まあいい、彼女からメッセージが届いたら再度確認しよう。
だがその後、いくら待っても藤堂さんからメッセージが届くことも、再びコール音が鳴ることもなかった。
しばらくして俺は家を出ることにした。空はすっかり茜色に染まっていて、時折脇をすり抜ける風が涼しい。斜め前の空中に行先を問うウィンドウが表示されているが、答えず表示させたまま俺は歩を進める。特に行先を決めていなくてもちゃんと景色は移動し、家から離れていく。このまま当てもなく進んでいたらどうなるのだろう。
「さて、どうするか」
藤堂さんがエクストラモードに入ったとなると、俺もさっさと周回して事件発生前の地点に戻った方が効率的だ。だが困ったことに、俺が陥落するためには女性の攻略対象もしくは藤堂さんの協力が必要不可欠。内、未唯は行方不明、一条は面会謝絶となると、清水か栗城先生か、気は進まないが藤堂さんに頼むしかない。藤堂さんは最終手段として、清水の家へ行くか、外で偶然どちらかと会うのを期待するかだが……まあ清水の家が妥当か。
「清水の家へ行く」
行先を告げてからそのまま進むと、周囲の光景が微妙に変わり、前方に見慣れた白い家が現れた。清水の家だ。それを認めると同時に、するりと家の中へ入っていった人影に気付く。何だ? 一瞬しか目に映らなかったが、それは華奢な少年の姿に見えた。
低い塀に囲まれた門扉の前に立ち、中の様子を伺うが、先程見えた少年の姿はない。見間違いだろうか。不審に思いながらインターホンを押すも、反応はない。度重なる周回と休校のために感覚が狂ったが、よく考えたら今日は平日だ。ご家族は仕事、清水はこれ幸いと遊びに出かけている可能性が高い。彼女は身近で事件が起こったこんな時に、と自粛するような可愛い性格ではない。
俺はもう一度インターホンを鳴らして二階を見上げた。特に動く影もない。溜息をついて身を引くと、横から柔らかく鈴を転がすような声が響いた。
「鷹村君?」
いつもきっちりとひっつめた黒髪を流し、スモークグリーンのワンピースに身を包んだ栗城爽子先生が、驚いたように佇んでいた。
「そう。鷹村君も清水さんに会いに来たのね」
何故か栗城先生に近くの公園のベンチに座らされた俺は、レモンティーの缶を手渡された。礼を言って受け取った缶は冷たく、喉の渇きを覚えた俺はすぐに缶を開けて煽る。独特の渋味と甘みが喉を滑り流れていく。
「先生も清水に何か用事があったんですか?」
「ええ。彼女にお話を聞きたかったの。でもちょうど良かったわ。鷹村君ともお話しなきゃと思ってたの」
「何でしょう? ──とりあえず先生それ貸して下さい」
綺麗な爪で缶の口をカリカリ引っ掻いているのを見かねた俺は、栗城先生が持つオレンジジュースの缶を受け取った。爽快な音と共にプルタブを上げる。
「はいどうぞ」
「ありがとう。こういう細かい作業ってニガテなの。恥ずかしいわ」
缶を受け取った栗城先生は、そのまま俺の隣にすとんと腰掛けた。一口ジュースを飲むと、缶を両手に抱えたままおもむろに俺の方に体を向ける。
「ねえ鷹村君聞いて。私は先生。生徒皆の味方なの」
真剣な眼差しで見詰めてくる彼女を横目で眺めた俺は、缶から口を話し頷いた。
「はい。一教師として模範的なスタンスだと思います」
「高坂さんも、一条さんも清水さんも、秋月君も藤堂さんも、そして勿論貴方も。全員私の大切な生徒。だから先生は口を出すのを我慢して我慢してずっと見守ってきたわ。でもね。そろそろ先生の出番かなって思ったの」
挙がった名前に内心不信感を持ちながらも、黙って話を聞く。
彼女は口を尖らせた。怒っているというアピールだろうか、どう取り繕っても可愛らしいとしか言いようのない仕草だ。
「ですから鷹村君、私は貴方を叱ろうと思います。鷹村君はもう少し人に誠実に、そして優しくすることを覚えましょう」
「え、俺ですか?」
「そうです」
「俺はそんなに不誠実で優しくないですかね?」
やはり怒っているというアピール、しかも俺に対するものだったようだ。可笑しく思いながら、からかいの色を含んだ返事をしてやると、彼女はやれやれと言うように頭を左右に揺らした。一々仕草が芝居がかっていて面白い。
「鷹村君、優しさというのはね。信じて見守ってあげるのも大切だけど、時には話し辛いことを敢えて聞きだしてみたり、イケナイことをしていたら全力で止めてあげることも必要なのよ」
「抽象的で今一わかりかねますが、大して親しくもない相手にズカズカ踏み込まれたら、嫌じゃないですか?」
「貴方にとって大切だと思える人だけでもいいの。鷹村君は一条さんや清水さん、高坂さんや藤堂さんと充分親しいでしょう? 彼女達を大切にしたいと思わないの?」
女の名前ばかり列挙され、やや決まり悪い想いを抱きながら俺は肩を竦める。
「俺は俺なりに大切にしています。それに全員に等しく優しくすることが良いことだと思いません」
「ええ。そう、そうね。ある程度仕方なかった部分もあると思うわ。そこを責めるつもりはないの。でも一条さんは貴方に全てを曝け出そうとしていたわ。なのに貴方の言動は背中を押すどころか突き放すようではなかった? 不安を抱える藤堂さんを抱き締めてあげた? 清水さんの葛藤を聞いてあげた? 高坂さんの気持ちを知りながら混ぜ返したりしなかった?」
「──待ってください。先生、貴方は何をご存知なんですか?」
俺の声が一段低く、真剣みを帯びた物になる。
一条とのこと、清水や未唯との会話、いくらなんでも事情通過ぎる。今まで栗城先生はノーマークだったが、一体どういう立ち位置にいて、何をどこまで知っているのだろうか。
だがこちらの思惑など打ち砕くかのように彼女は首を振り、人差し指を俺の鼻先に突き付けた。
「いーい? 鷹村君。今は先生がお話をしているの。貴方の質問を受け付ける時間じゃありません」
理不尽だ。理不尽だがこういう時の女の言動に反論する程、未熟でも阿保でもない。
「……先生は、俺に何をさせたいんですか」
「鷹村君、悪いことをしたと思ったら、早めに本人に会って誠心誠意謝ることが大切だってわかるわよね」
「別に俺は」
「誰にも悪いことはしていない? それを先生の目を見て言えますか?」
赤く汚れた一条の血の気のない横顔と、清水の淋し気な後ろ姿、未唯の潤んだ瞳が脳裡をよぎる。
『わたし達は根津未唯の恐れ、セオの衝動、追い詰められた一条雅の心情、そういった彼らの心を全然知らない。彼らの気持ちが何もわかってないんです』
言葉に詰まった俺を見て、栗城先生は少しだけ微笑む。
「ほら。自分でもわかるでしょう。心当たりがあるなら早めに動くことが大切よ」
「でも先生、例え未……高坂さんに俺が会いたいと思っても、居場所に関する手掛かりを俺は持ってませんし、一条先輩についてはご家族から面会を拒絶されています。今俺は彼女達に直接何かをできる立場にない」
「鷹村君。それはダメ。言い訳の時間はもう終わり。そんな余裕は貴方達にはもうないはずよ。しっかりなさい。貴方の目的は何? その期限は? 貴方の持っているカードは? 自分のことをもう一度見つめ直すの。そのために必要なものとそうでないものを見極めて、本気で動き出しなさい」
「──先生、それはどういうことですか」
「貴方が思うよりずっと、皆貴方のことを待ってるわ。可哀想な子達。得られないものを求めることに絶望して、持っている物を自ら捨ててしまうなんて。あの子達だって幸せになることができるのに」
「先生、貴女は何を知っている」
「さあ覚悟を決めてお行きなさい。貴方が会いたいと思っている人の所へ。会わなければいけないと思っている人の所へ。貴方ならきっとできるわ」
「先生──!」
宣言通り、こちらの言葉を聞かずに淡々と続ける彼女の肩を捕まえて、正面から覗き込む。
「先生、俺は未唯──高坂さんがどこにいるのか知らない。何をすればいいかわからないんです。先生は何か知っているんですね!? 教えて下さい!」
「彼女は、ここにいるわ」
「こことは?」
濡れた黒目を瞬かせた彼女は、不思議そうに首を傾げてから右手を横に広げた。
「ここ。この閉じられた世界」
「──先生、貴女は何者ですか」
学校や社会といった社会的な集団という意味で言っているのであればまだいい。そうでなければ一NPCが言う台詞じゃない。
彼女が目を細めて優しげな笑みを浮かべる。目の下にある黒子が歪んで形を変える。俺の背筋から脳に細かな震えが伝わる。
「言ったでしょう。私は先生。だから生徒の鷹村君を、少しだけ手助けしてあげます」
栗城先生の細く長い指が俺の左胸──心臓あたりを指す。驚いて彼女の肩から手を離すと、追うように彼女の身体が俺の元に寄ってきた。ふっくらとした白い頬が、赤い唇が俺の眼前に迫る。細く甘い吐息が鼻孔を擽り、俺の吐く息と絡む。
「栗城先生……?」
のけぞるように身を引くと、黒い眼鏡の奥に潜む瞳がきらりと光り、離れることは許さないとでも言うかのように更に身を近づけてくる。柔らかそうな頬が、唇が眼前から首筋へ、肩へ、そして指差された胸元へと下がり埋もれる。黒髪がさらりと落ちて細いうなじが顕わになり、バニラのような濃厚な香がむわっと立ち上がる。眩暈がする。胸が熱く、痛い。心臓が悲鳴を上げる。
「──ッ先生、何を!」
「鷹村君、彼女を助けてあげて。貴方にしかできない。貴方を待っているあの子を見つけてあげて。そして皆を助けるの」
胸元から発せられる声はくぐもっているのに、やけに明瞭に脳に届く。まるで心臓を喰われているかのように熱い。痛い。俺の身体はここにあるのか。強烈な眠気に引きずり込まれるかのように、意識が朦朧としていく。
「──ん、せ……あな、たは……」
『プレイヤー鷹村理人、陥落しました』