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37話

 鷹村さんとの会話の余波が重く残る翌朝、わたしは一軒の家を見上げて立ち竦んでいた。

 白い外壁、赤と橙の暖かな瓦屋根、煉瓦を敷き詰めたアプローチと色鮮やかな花壇。地中海のリゾート地を思わせるような南欧風の家、セオの家。セオがこの世を去った今、セオのお祖父様とお祖母様が二人きりで住む場所。

 中の光景をわたしは知っている。白いカーペットが敷かれたひっそりと静かなリビング、額縁に収まったセオの綺麗な笑顔、映る炎の灯、──セオと似たお祖父さんの歪な、悲しい笑顔。


『君のせいだ』


 わたしは頭を振った。あれ以降、この家には足を踏み入れていない。二度と玄関を潜ることはないと思っていたけど。


『Goodnight まどか。良い夢を』


 周回してもセオのメッセージは通信端末に今も残っている。だがまるでセオから永遠の別れを告げられているようで、今のわたしは見ることができない。


「ねえ貴女、木村セオ君の友達?」


 一歩を踏み出す勇気を持てないでいるわたしに、誰かが声をかけてきた。重い頭を持ち上げて顔を向けると、ラフな格好の二十代後半くらいの男が、へらりと胡散臭い笑顔を浮かべてこちらを覗き込んでいた。馴れ馴れしい態度だ。


「もしかして彼女だったりする? 生前の木村君についてちょっと伺わせてほしいんだけど」


 前言撤回。馴れ馴れしいのではなく不躾で無礼だ。ちらりと見ると手首に嵌まるスマートウォッチに赤く小さなランプが点灯している。録音中──記者だ。

 言葉を返すのも面倒で、わたしは黙って門を潜ろうとした。だがそこで腕を取られる。生暖かい体温が気持ち悪い。


「待って。ほんの少し。ほんとちょっとだけでいいから話を聞かせてくれない」


 わたしは溜息を吐き、ゆっくりと息を吸って気を落ち着けてから返事をしようとした、その時。


「嫌がる女の子を強引に捕まえるなんてコンプライアンスがなってませんね。どこの記者さんですか?」


 道の向こう側から秋月遼がやってきた。どくんと心臓が大きな音をたてる。以前もこの日に会ったのだから、可能性としては頭にあったけれど。

 傍まで近付いてきた秋月遼が、怯んだ記者の手をわたしの腕からそっと離した。


「ごめんごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。あ、君も同じ年くらいだよね? お友達? 君でもいいから木村君について何か──」

「僕達は急いでいるので失礼します。これ以上踏み込みますと住居侵入罪で警察を呼ばれませんか」


 言い募る男にあの温度のない独特の笑顔を向けると、相手は流石にそれ以上強引に事を進めようとはせず、薄ら笑いを浮かべて引き下がっていった。と言っても道路脇の塀に下がって引き続きこちらを観察する(てい)だから、しぶといことだ。


「行こう、藤堂さん」


 気にせず促してくる秋月遼に背中を押され門扉をくぐる。扉の前に立つとそのまま自然な流れでわたしがインターフォンを押すことになってしまう。


『はい。どちら様でしょう?』

「セオ君の学園の友人の、藤堂と申します」


 インターフォンから聞こえた声は、記憶にある通りの優し気なお祖父さんの声だった。




「来てくれてありがとう。片付いていなくてすまないね」

「いえ。こちらこそ大変な時に押しかけてしまって申し訳ありません」


 通されたのは、大きな窓があり温かな陽射しが射し込む明るいリビングだった。なのに漂う空気から、整然と並べられたグラスからどこか寒々しさを感じ取ってしまうのはわたしの気持ちのせいか。

 家にいたのはお祖父さん一人だった。そう、二度目のわたしは知っている。セオのお祖母さんはセオの死をきっかけに心労で倒れて入院しているから今ここに彼一人しかいないのだ。

 棚の脇を通る際に、天板に乗ったセオの写真が視界に入り、わたしはそっと目を伏せた。後ろを通る秋月先輩がそれに一度だけ手を合わせる。わたしは、しない。ゆらりと蝋燭の炎が視界の端で揺れた。


「それで、今日はどうしたんだね? 君達は学校があるんじゃなかったのかい?」


 金色の短髪と、彫りの深い北欧風の顔立ちをしたお祖父さんが正面にのソファに腰掛けて冷たい飲み物を勧めてくれた。グラスに伸ばされた皺の刻まれた白く固い指先を何とはなしに見詰める。


「僕は生徒会長の秋月と申します。生徒一同を代表してお悔やみを申し上げます」

「ああ。わざわざありがとう。でも失礼だが君はセオより年上じゃないかい?」

「はい。ですがセオ君とは何かとご縁もあり、度々お話させて頂いていました。交流のあるクラスメイト達も本当は来たがったのですが、何分まだお忙しいだろうと思い、彼らは遠慮する代わりに僕だけでもご挨拶をと」


 二人の会話が続く。セオのお祖父さんの低くゆったりとした声がうわんうわんと脳に響く。まるで生温い水の中で揺蕩いながら聞いているように。


「お嬢さんはどうされた? トードーさんと言ったね」


 茫とする間に気付いたら二人の会話が一段落したらしい。セオのお祖父さんがわたしに向けていたのは、透き通ったきれいなヘーゼルアイ。

 わたし、一体何をしに来たのだったかしら……。


「セオは……普段お家でどんな様子でした?」


 口から零れ出たその問いは、頭に浮かべたものではなかった。自分で自分の言葉に戸惑っていると、お祖父さんは小首を傾げ、僅かに微笑みを浮かべた。ああ、似てる。


「そうだね。私も警察より君達とセオの話をする方がずっと嬉しい。いいよ。話そう。そして私の知らないセオのことを教えてくれ。君達も知っている通り、セオは優しくていい子だ。以前は道場に通っていたんだが、最近はサッカーの方に力を入れていたのを知ってるかい。とても楽しそうだったよ。シロウという子がすごく強くて面白いと言っていた。まだ試合に出させてはもらえないけど、素晴らしいプレイを観るのが楽しいと言って休日はよく部活に行っていた」


 ふと秋月先輩が口を挟む。


「サッカー部の史郎君は僕の友人です。彼は全国レベルのプレイヤーと言われていますから、そのプレイを間近で見ていたのなら、セオ君が興奮するのも頷けます。夏の大会でも史郎君は大活躍でした。あれは八月頭だったかな」

「八月末の大会だね。夏後半に入っても日本は本当に暑いねと話したのを覚えている。セオもかなり疲れていてね、よく皆耐えられるものだとこぼしていた」

「セオは……他には何か話していましたか?」

「そうだね。クラスメイトのアラタのことはよく話していた。彼はサービスマインドに溢れているね。我が家にも時々遊びに来てくれた。他にもサクタ、カエデ、タイコ……」


 名前をあげ連ねる彼をまじまじと見詰めていると、彼は唇を片方だけ上げて少しだけ何かを含んだ笑みを浮かべた。


「私が友達の名前を知っていて驚いたかい? 大人は子供が話す友達の名前を結構覚えているものだよ。そうだ。そういえば君達のファーストネームを聞いていなかった。教えてもらって良いかい?」

「遼です。でもセオ君は僕のことをセンパイと呼ぶことの方が多かったですね」

「センパイ! あれは君のことか! 体育祭のリレーで大活躍したり、応援団をやったり、学園祭で演劇監督とプリンセスをやったんだろ? 大忙しじゃないか!」

「それは流石に僕ではないですよ。先輩というのは年上の人のことを呼ぶ時に使うので、セオ君は複数人のことをそう呼んでいたのでしょう」

「そうか。センパイは体が二つも三つもあるスーパーマンかと思っていたが、そういうトリックだったのか! 謎が解けてすっきりしたよ。それでお嬢さん、君のファーストネームは?」

「わたしは円架です、藤堂円架」

「マドカ! ──おお、おおマドカ!」


 お祖父さんは突然テーブルの向こうから身を乗り出してきてわたしの両手を掴むと、くしゃりと相好を崩した。


「君がマドカ。そうか、そうか! 会えて本当に嬉しいよ! 君のことを話す時、セオは最高に幸せそうだった。うまく隠していたけどすぐにわかったよ。以前ケーキを作ってくれただろう? セオと仲良くしてくれてありがとう」

「そんな。セオは皆……」


 困惑して秋月先輩を見るが、彼はいつもの薄い笑顔を浮かべて黙している。

 間近に迫ったお祖父さんがゆっくり首を左右に振ると、その目元に光る物があるのに気付いた。直視できない。


「いや。セオは君といる時が一番幸せだったさ。確かにあの子は何か悩んでいた。苦しんでいた。君にもキツクあたったこともあるかもしれない。でもあの子は君の傍から離れなかっただろう? 君と一緒にいたがっただろう? 君といる幸せを、あの子は選んだんだ」


 お祖父さんがわたしから手を離し、顔を覆う。陰になった表情は見えない。


「あの子は昔から強くて優しい子だった。産まれた時のことだってつい最近のことのように思い出せる。あの子と一緒に過ごす日々はキラキラ光る宝物のようだ。ずっとずっと見守ってきた小さなあの子、それが何故……あの日行ってきますと言ったあの子が、夕方になれば帰ってくるんじゃないかと期待して、お帰りを言えないことに絶望してしまう。セオ、私の愛しい孫。私の宝物を奪った者を、私は決して許さない。犯人を引きずりだす力のない私をどうか許してくれ。祈るしかない私を許してくれ。いや、許してくれなくてもいい。もう一度、もう一度だけでいいから私の前に現れてその声を聞かせてくれさえすれば……」


 怒りと悲しみと憤りのごちゃまぜになった、どろどろした感情が指の隙間から嗚咽と共に溢れだしてくる。わたしは、何も言えない。何かを言う資格なんかない。


「……セオ君は、いつも色んなことに一生懸命でした」


 静かな秋月先輩の言葉に、お祖父さんは涙で濡れた顔を上げた。この数日で一気に老け込んだのだろう。よくよく見ると頬はこけ、顔には隠しきれない疲労が窺える。


「ああ……ああそうだ。最近は特に何かに没頭していて、警察にも聞かれたよ。……すまない。みっともない所を見せた。まだ気持ちの整理がつかないんだ」


 お祖父さんは大きく息を吐くと、顔を洗ってくるよ失礼、と言って席を立とうとした。その背をつい引き留めてしまう。


「お祖父さん、もし……もし本当にセオが現れたら、何と声をかけますか?」

「え?」

「藤堂さん」


 秋月遼がわたしを咎める。だけどわたしは続ける。


「お祖父さんなら、目の前に現れたセオに、何と言いますか……?」


 怒られるかもしれないと思った。孫を亡くした、それも殺人という衝撃的な事件で失い、まだ数日しかたっていない人にかける言葉ではないだろう。だけどわたしは何もかもわからなくなっていた。わたしの中にはもう、セオを止めるための物が何も見つからなかった。もう限界だった。

 何度も何度も、何度周を巡ってもセオを止められない。わたしの言葉も、想いも、セオには届かずただ使い古された雑巾のように地に落ちる。だから最もセオに近いこの人に、わたしより数倍生きているはずのこの人に聞いてみたかった。縋りたかった。

 お祖父さんは、席を立とうとした中腰の姿勢で止まっていた。表情すらも止めて、ただわたしを見ていた。わたしも目を逸らさない。この人の言葉を、一言も聞き漏らすつもりはなかった。罵倒でも叱責でも。それは全てセオへの愛情から来るものだから。

 でも彼はわたしを責めなかった。笑いもしなかった。ややしてぽつりと口にした。


「……セオが今、私の目の前に再び現れてくれたら……まず私はあの子を抱き締めるだろう」


 彼は少しだけ遠い目をした後、再び腰を下ろした。


「そう。そしてこう言うね。『思いのまま生きなさい。後悔のないように』」


 わたしは目を見開く。予想していた言葉と違うそれに。


「どこへも行くなとか、危ないことはするなとか言わないんですか?」

「ああ。そうだ」

「どうして……!」


 彼は落ち窪んだ目をゆるりと細めた。その表情は決して厳しいものではなかったけれど、何年もの月日を経た巨木のような力を感じさせた。


「人はいつか死ぬものだ。それは今日かもしれない、数年後かもしれない。いつ何が起こるかなんて誰にもわからない。それは運命というんだよ。だから私達はその時その時を大切に、精一杯生きるんだ。あの子がいなくなって私は悲しい。辛い。苦しい。だが私の苦しみのためにあの子の道を閉ざすようなことは決してしない。あの子には後悔しないよう、自分が望む道を精一杯歩んでほしい。後から間違っていたと知っても、自分が選んだ道だからと胸を張っていられるように」


 ああ。確かにそれはわたしの内にはない言葉だ。セオの死という未来を知っていて、何度もリトライできてしまうわたしには。セオが望む道の先にある結末を未だ受け入れられないで抗い続けるわたしには。

 お祖父さんが両手を伸ばし、テーブルの上に乗る私の冷えた拳をそっと包んだ。


「あの子のことを想ってくれているんだね。ありがとう。でも運命は決まってしまった。とても辛いし悲しいし、忘れることなんてできないが、それに囚われて立ち止まってはいけない。前へ進めなくなったあの子の代わりに、君達は今を歩んでいってほしい。そしてできれば大人になった時にでも、あの子のことを時々思い出してほしいんだ。そうすればあの子の魂も、きっと君達と一緒に未来を感じられるに違いないから」


 涙で頬を濡らしたお祖父さんがわたしに向けて微笑む。深い悲しみを孕んだ綺麗なヘーゼルアイがわたしを映す。


 ああ、お祖父さん、お祖父さん。

 わたしは貴方のように運命を受け入れられない。

 そう、受け入れないと自分で決めたのに、わたしは自分の足で進むことすらできていない。

 貴方の言葉で迷うわたしは浅はかですか。

 貴方の言葉を聞いても運命を受け入れられないわたしは愚かですか。

 貴方と違うと言いながら、貴方の言葉に救いを求めるわたしをどう思いますか。


 貴方にとって、わたしは狡い存在かもしれない。許されない存在かもしれない。

 でも一つだけ。叶うなら一つだけ、わたしにお許しを下さい。

 貴方が抱く望みの一つだけ、わたしに預けて下さい。

 貴方の望みを大切に、大切に抱き締める権利をわたしにください。

 そうすれば、わたしはきっと。

 それだけは、きっと。








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