33話
「根津」と書かれた表札の前で、俺は改めて目の前にある家を見上げた。ダークグレーのインターフォンを押すと、ややして男の声が返ってくる。応えるとしばらくして玄関が開き、中からラウンド眼鏡をかけた二十代前半くらいの若い男が顔を出した。
「いらっしゃい。久しぶりだね理人君」
それが根津基樹、根津未唯の年の離れた兄だった。
「大きくなったね理人君。まあ座ってよ。何か飲む? アイスコーヒーでも大丈夫?」
「あ。はい。大丈夫です。ありがとうございます」
妙にフレンドリーな基樹の言葉に若干戸惑いながら、示されたソファに腰かける。室内は楡木素材の家具と白色で統一されており、自然で温かみのある心地よい空間となっている。基樹が俺の前にコーヒーの入ったトールグラスを置き、向かいに座った。
「それで? 用事ってのは何だい?」
俺は基樹の顔を正面から見詰めた。全体的に軟派な雰囲気の男だ。自宅にも関わらず着る物に気を遣っていて、細縁の眼鏡も似合っている。さらさらした栗色の髪と猫のようなつり目で人の目をまっすぐに見詰める所なんかは美琴、いや未唯に似ているだろうか。
「妹さん──未唯さんに会わせて頂けませんか」
単刀直入に言うと、基樹がへらりと緩い笑みを浮かべた。
「なんだ。昔みたいに『みーちゃん』って呼ばないのかい?」
「そんな年ではありません! ──昔ってことは、やっぱり俺と未唯さんは幼い頃よく一緒に遊んでいたんですね」
「あれ? 思い出したんじゃないの」
「いえ。母に聞きました」
「そっかあ。俺は覚えてるよ。君が近所の同い年の男の子と遊んでいると、未唯は必ずくっついていってね。ぶっちゃけ邪魔だったと思うよ。幼い頃の三歳差って大きいから。それでも未唯は必死について回ってたし、君も帰れと追い返したりはしなかった。ちなみに俺と一緒に遊んだこともあるけど、それも覚えてない?」
「すみません」
「まー君も六歳くらいだったもんね。残念。普通だったら小学校に入ると生活リズムも変わって遊び相手って変わるもんだけどさ。結局未唯が小学校一年くらいまでは何だかんだ言ってけっこー遊んでくれてたなあ」
「そう、なんですか」
懐かしげに話されると、いくらゲーム内の設定とは言え、覚えていない自身に居心地悪くなる。
「うん。そうなの。未唯もねー、小学校くらいまではクラスの中心人物やったりとけっこー楽しくやってたみたいだったんだけど……あ、こういう話興味ない?」
「いえ、聞かせて下さい」
「そ。じゃあ話すけど未唯、中学に入ってからけっこーモテたらしくてね。君やオレからみたら中学生の未唯なんて子供だけど、同級生から見たらけっこー大人っぽく感じるんだって。笑えるよねー。まあ、あんな性格だからちょっかいかけやすいのはわかるけどさ。ただちょっと要領良くないっつーかフり方間違えて女子から嫌われたっぽいんだわ。詳しいこと知らないけど、いつからか学校へ行けなくなって、ついに部屋から一歩も出なくなったって訳」
「引きこもり、ですか」
「それそれー。まー幸い我が家は両親共に比較的おおらかだし、母親専業で四六時中見てはいられるし、なんとかなるさでいたんだけどねー。ある日から未唯がこそこそと急に出かけるようになりだして」
「いつからでしょう」
「そうねー。六月くらいかな。俺達も気付いてはいたんだけどさ。自主的に外へ出る気になったのはいいことだし、しばらく様子見しようってことになったんだ」
「どこで何しているか気にならなかったんですか?」
「んー? 俺知ってたし」
あっけらかんとした基樹の言葉に目を剥くと、彼は飄々と笑った。
「そりゃ娘が荷物抱えて毎朝こそこそ出ていったら親は心配っしょ。だけどうちの母だとどーしてもバレるからオレが尾行の役を仰せつかりました」
「ではあいつが」
「うん知ってるよー。理人君には迷惑かけたね。でも意外とバレないもんだね。あいつも楽しそうだしまあいっかって」
「……」
「とは言ってもいつまでも続ける訳にはいかないってのは、あいつもわかってたと思うよ。それでも少しでもまた学校行こうって思えるならいいんじゃないって、高坂さん家には悪いけど利用させてもらっちゃった」
「貴方は高坂家のことをご存知だったのですか?」
「うん。親戚。美琴ちゃんは母方の祖母さんの妹の孫だから、オレや未唯にとってはとこにあたるね」
道理で写真に写った高坂美琴があいつに似ている筈だ。未唯と彼女は血の繋がりがあったのか。
「基樹さんは、高坂家がどうなっているのかご存知ですか?」
「親父さんは家にいつかず、おばさんは心神喪失で入院中ってヤツ? うん知ってる」
「では高坂美琴の居場所は」
「あ。ごめん。それは知らない。もっと言うとオレ、美琴ちゃんに会ったことすらないの。高坂家と我が家は親戚と言えども遠すぎて、こっちに引っ越してきていることすら知らなかったくらいだもん」
基樹が軽く顔を顰める。
「昔一度だけ、親戚の伯母ちゃん達が話をしているのを聞いたことがあったっけかな。何かの誤飲で死にかけた子供がいるとか。確かその時一緒に遊んでいたのが美琴ちゃんだったよーな」
それは下手すると死ぬ所だったのではないか。
「その子と高坂美琴はどうなったんですか?」
俺の言葉にふっと顔を上げた時には、基樹の顔は最初の通り掴み所のないものに戻っていた。
「ああ。特に何も。だって子供が遊んでいて死にかけるのなんてよくあることだろ。そりゃ説教はされただろうけど、子供のすることだからさ」
「その時高坂美琴は何歳だったんですか?」
「うーん。俺が中学の時だったから、小学校三年かそこらかな」
それは危険なことをある程度自分で判断できる年頃ではないのか。誤飲なんていうものはもっと幼い、五歳くらいまでの幼児に多いものだ。ふざけてとは言え、小学生同士で遊んでいて誰も止めなかったと言うのか。
「まあ昔話は置いておいて。一応親戚で知らない相手でもないし、両親は苦衷を抱えてたみたいだけど、オレは未唯が美琴ちゃんとして高校通うことを良しとしてたのよ。久々に楽しそうだったしね。だから突然怪我して帰ってきた時は驚いたんだよね」
「怪我?」
それは初耳だ。
「そうそう。九月の二週目の金曜だったっけかな。突然頭包帯巻いた状態で友達に連れられて帰ってきてね。問題なくやっていると思ってただけに俺も驚いたよ。特に母親がショックだったみたいで見た瞬間から泣きまくっちゃって。んでいい機会だし、もう潮時かなと。美琴ちゃんを演じるのをやめるよう未唯を説得したのよ」
九月の二週目金曜、オズの合同演習の翌日だ。この日は確か、と記憶を探りながら基樹に尋ねる。
「ちなみにこの件は、学園側や警察に連絡しましたか?」
「いや。本人が事故だと言っていたしね。未唯とは本来無関係の学園や、ましてや警察になんて連絡しないさ」
「そうですか」
いくら身分詐称という後ろめたいことがあったからと言え、普通何が起こったか学園に問い合わせるものじゃないのか。それに警察としても、高坂美琴の親戚でしばらく美琴として通っていた少女が怪我を負ったとなれば、黙ってはいられないだろう。
「だからね、理人君。未唯が学園に行かなくなるのは、最初から決まっていたことなんだ。君が気にすることじゃない」
「だったら未唯さんに会わせて頂けますね?」
「会いたいの?」
「はい。会って、話したいことがあります。俺は『未唯さん』とはまだまともに話していない」
基樹が微笑んだ。
「そっか。おいで」
基樹の先導で二階へ上がる。階段の途中には可愛らしい犬のぬいぐるみやら造花やらが置かれ、会ったことのない家族の雰囲気を予想させる。
二階には扉が四つあり、全て閉じられていた。当然ながら高坂家のようなカメラや二重扉といったようなものはなく、ごく普通の間取りだ。その中央付近にある扉のノブを基樹が回したことで、室内の様相が見えるようになる。
「どうぞ。ここが未唯の部屋だよ」
少女趣味な部屋だというのが第一印象だった。赤と白のチェックのベッドカバー、毛足の長いピンクのカーペット、壁際に置かれた白色のラックにはこれまた白や淡いピンクの小物が所狭しと並んでいる。
方向性は違うが、どこか階段やリビングの雰囲気に通じるファンシーさを感じる。
だがどこをどう見ても人影一つない。後ろから入ってきた基樹に問う視線を投げると、彼はへらりと笑った。
「未唯はね。学園を休んでしばらく家で大人しくしてたんだけど、怪我が治った頃またふらっと外へ出て行ったの。どうやら学祭が気になったらしい。このまま引きこもりに戻るよりいいだろうと容認したんだけど、帰ってきた時のあいつは今までと様子が変わってて、正直行かせるんじゃなかったって思ったよ。目は血走ってるわ、表情は死んでるわで」
「それで、未唯さんは今どこに」
「性急だね。ヒトコトで言うと今ここにはいない。見ればわかるって? うんそうだね。あいつはあれから──ん? 具体的にはえっと……あ、そうそう十月三日。その日から未唯はここには帰ってきていないんだ。そしてその後どこへ行ったのか、そして今どこにいるのか、オレも家族も誰も知らない」
「それは──行方不明ってことではないのですか。警察には」
「知らせてないよ。一応俺の元には定期的に連絡が入るからね。居場所はわからなくても無事でいることだけは把握している。オレ達はしばらくあいつの好きにさせるつもり。あ、そうだこれ」
通信端末を示してくるので、色々追及したいのを後回しにして魅せられたものを確認する。
「映像つきのリアルタイム通信ですか」
「いんや。テキストだけ」
それでは誰にでも偽装できる。
「本人の様子がわからなくて、心配じゃないんですか」
「一応家族だからね。テキストだけでも大体様子はわかるのよ」
俺は眉を顰めた。家族が何処かへ行って行方が知れないというのに、随分呑気な対応ではないか。
「ちなみにこの件も学園側や警察に連絡していないんですか」
「家出の件? うん。未唯が美琴ちゃんでなくなった以上、学園は全く関係ないからね」
そうだろうか。未唯の怪我や家出の背景を考えると、家族であれば学園側に何らかの相談をしている方が自然だ。だがそれは俺の感想であり、ここはラブワでありシナリオだ。戻ってからテストプレイレビューとしてライターに陳述するべきだろう。
「わかりました。未唯の居場所の手がかりになりそうなことはありますか」
「ないなー。未唯からの連絡でその辺書いてあったことないから」
「未唯さんからのメッセージを拝見させてもらうことはできますか?」
「いいよー」
ダメ元で言ったことにあっさり頷いた基樹は、無造作に端末をデスクに置いた。意外と骨張った指が画面を滑ると複数の封された便箋マークが宙に展開される。それらが一つ二つと順に展開され、未唯かららしいメッセージを表示していく。
『元気にやってます。パパとママにも元気だよって伝えてね』
『色んなこと整理ついたら、帰るから』
『ママ泣いてない?』
次々開封される便箋の後ろから、一つだけ色の違うものが出てきて止まった。
「これで終わりですか?」
「そうそう。オレ宛のものは終わり。その黄色のヤツは君が来たら渡してくれって頼まれたもの」
「俺に?」
ポケットから通信端末を出すと、筐体が震え受信許諾画面が表示される。
「送ったよ。オレは中見てないから」
封を開き表示される文を見る。
未唯の好みを表すかのように丸い文字がころんと並ぶ。
『ごめんね。もう好きになってなんてワガママ言わない。だからずっと一緒にいて理人兄』
立ち竦む俺に、基樹がにこりと笑う。
「未唯はねー。ホント昔から君のことが大好きなんだよね」




