31話
俄かに学園内が騒がしくなった。階下で窓の開く音と生徒達の訝しむ声がする。校庭を見下ろせば、とある一画に人が集まり始めていた。
それは校庭脇にある体育用具倉庫だった。開いた扉のすぐ外に女子生徒が一人腰をついており、その傍に友人らしいもう一人が駆け寄っていく。だがその友人もすぐに女子生徒の傍に力なくへたり込み、後ろから来た顧問らしき教師に支えられることとなる。
次から次へと倉庫の周囲に集まる生徒達は、しかし一定の距離を置いてそこに近付こうとしないため、入口を中心に奇妙な人壁の半円が作られている。
流石に不審に思い始めたのか、窓を開ける音が相次ぎ、騒ぎが大きくなる。
すると昇降口から鏡が走っていく姿が見えた。彼は一目散に騒ぎの元に駆け寄っていき、倉庫前の顧問に何やら言伝された男子生徒と擦れ違う。
昇降口から物見に出ようとしていた生徒達は、今やっと出てきたらしい別の教師に止められていた。その人波から出てきた一際白い姿は、養護教諭の栗城爽子だろう。意外と速い走りで一直線に体育用具倉庫に向かっていく。
ざわざわと広がる声。屋上からは聞こえるはずのないそれらの中に「血」「死体」という言葉を認め、全身から血が音を立てて引いていくのを感じた。体中から力が抜け、手からパイを包んだ袋が滑り落ち、中身が白い床に零れる。砂でざらつく白い床を砕けた茶色の破片が転々と汚す。
制服のポケットに入れていた通信端末が震えて、着信を訴えた。わたしは音声モードにしたそれを震える手で耳に当てる。何でだろう。手が、うまく動かない。
『藤堂さん、俺だ! 今どこにいる?』
「鷹村さん……何で、学校で通話できてるんですか」
『藤堂さんが前に言っただろう。見つかりさえしなければいい。そんなことよりまた事件発生だ。しかも園内だ。混乱に乗じて現場捜査するぞ!』
「また、ですか」
『そうだ。はっきり聞いた訳ではないが、体育用具倉庫で木村が刺殺体で見つかったらしい。今ならまだ捜査線は張られていない。調べ放題だ行くぞ!』
「嫌です」
『は?』
「わたし行きません。行きたければお一人で行って下さい」
『何を言っている藤堂さん』
思いがけない反応に虚をつかれたような鷹村さんの声が耳を打つ。
「現場を調べて何がわかるんですか。ほんの少し前まで目の前にいた相手が血まみれになっているのを見に行くんですか。あの虚ろな目を、力のない体を見に行くんですか。それに何の意味があるんですか。わたし達はまた止められなかった。その結果を見て何が得られるんですか」
『だが藤堂さん』
「わかってます。次への足掛かりと言うんですよね。わかってますよ。でもですよ? 少し考えてみて下さい。わたしは何度も何度もセオを止めようとしています。そのために沢山、ホントに沢山やってきているんです。彼に拒絶されながら。色んな人に疎まれながら。そんな相手が、翌日には真っ赤な姿で目の前にいる。それと向き合うと、わたしから色んな物が失われるんです。得られるのは無力感だけ。それでホントに足掛かりなんて得られるんですか。失われるだけじゃないんですか。鷹村さんは違うんですか。それとも同じように感じてなお、もう一度やり直そうとする強さが鷹村さんにはあるんですか」
どこかで冷静な自分がこれは八つ当たりだ大人げないと指摘するが、わたしの口は止まらない。
「結局鷹村さんは、事件しか見てないから平気なんじゃないですか。だから人の──わたしや、セオや、一条雅や高坂美琴の気持ちがわからない。知ろうとすらしない。わたし達のことは見向きもせず、どんどん先へ進もうとする。一人の人としてわたし達のことを信用しているのかもしれない、尊重しているのかもしれない。でもそれって、自分以外の人間はどうなろうと構わないということとどう違うんですか」
そして大きく息を吸う。
「そしてそうした関わり方しかできない鷹村さんだからこそ、わたしだからこそ、今彼らを止めることも解決することもできないんじゃないでしょうか」
言い捨てると鷹村さんの言葉も聞かずに通信を切った。
長い息を吐いて空を見上げると、どこまでも続く作られた青に、白い雲がゆっくり流れるのが目に入る。体中を襲う虚無感と虚脱感が、まるで全身を光の届かない暗闇に引きずり込もうとしているようだった。
ずっと無言でいた悠生が隣で膝を折り、床に散らばったパイの欠片をつまむと、そっと口に入れた。
赤く点滅するサイレン。ばたばたと慌ただしく行き来する教師達。わたしはセオが倒れていた現場の脇を通り、足早に離れていく。
『まどかって本当に俺のこと好き?』
ふと脳裡に蘇る男の子の声。そう。これはリアルの記憶だ。
空気や距離感を読むのが絶妙な年下のボーイフレンド。そんな彼の意外な言葉だったから、よく覚えている。恋人という名を持たないわたし達の間で、こういう台詞は別れのきっかけになりかねないことを彼はよくわかっていたはずだ。
多分それでも、彼がこんなことを口にしてしまうだけの何かがあったのだろう。それはわたしのせいかもしれない、彼の個人的な何かかもしれない。
『好きよ、当たり前じゃない。わたしのどーこーにそんな疑問を持ったのかしら。ほら構ってあげるから言ってみなさい』
わたしが笑ってからかうと、すぐに彼はいつも通りの笑顔になってそれ以上言わなかった。
そう。わたしは踏み込もうとしなかった。変わらない距離感に安堵した。
彼のさりげないSOSだったのかもしれないのに。
『お前ほんっと俺のこと好きすぎるな』
ああ別の記憶まで掘り返されてしまった。あれはわたしが高校一年の時。涼しげな切れ長の目、一八〇センチを超える高身長、口の片端を上げる皮肉気な笑みの似合う五歳年上の彼。少しだけ鏡に似ていた彼は、時々思い出したようにそう言った。
確かにわたしは暇さえあればよく彼の所へ足を運んだ。休みの日彼は初めて会ったカフェでよく端末に向き合っていたから、休日は必ずそこへ行った。時折気分転換だと行って車で海へ連れて行ってくれた時は、特に泳ぐでもなく並んでひたすら水面を眺めていた。曰く頭を空っぽにしたかったらしい。
『俺は……どうしてもやり遂げたいことがあるんだ』
時折そう呟く彼が、どういう想いで言っていたのかわからなかったけど、水平線を見詰める横顔がとても綺麗で好きだったのを覚えている。
彼とわたしの関係を何て呼ぶのかわからない。初めて会って、話して、一緒にいるようになって、触れ合うようになって、それでも彼とわたしの距離は最初からずっと変わらなかったように思う。彼もわたしも、お互いにそれ以上踏み込まなかった。
だけどわたしより冷静に慎重にその距離を測っていたのは、大人な彼の方だったんだろう。その彼がふと振り返ってしまった、そんな気がする。
いつもの店で姿を見なくなり暫くたったある日、わたしは彼に自分から通話を試みた。特に約束もせずいつもの場所にいれば何となく会えていたので、初めて連絡を取ることに少しだけどきどきしながら。
『──ああ。俺だけど、どうした?』
『うん。最近店来ないから、どうしたのかなって』
『悪い。忙しくてな』
『そう。いつまで?』
その時、彼の向こうから声がした。『●●●、これ冷蔵庫入れちゃっていいー?』わたしより年上の女の人の声だった。
『……』
『……とても忙しそうね』
『……ああ』
『会えない理由はそれ?』
『……』
『──わかった。充分わかったしわかってもいたわ。でもね。もっとやりようがあったんじゃない? 貴方は曲がりなりにも大人なんだから』
『……円架』
『オンナの前で別のオンナの名前呼んでんじゃないわよ! バカ!』
叩きつけるように切った後、わたしは自分の部屋のベッドに頭からダイブした。彼からの折り返しはなかった。それきりだった。
彼は自信家のように振る舞っていても、どこか繊細で優しい──どこか踏み切れないような弱さのある人だった。だからもしかしたら、面と向かってわたしを切ることができなかったのかもしれない。
『お前な、世の中は俺みたいな素敵な大人ばかりじゃないんだぞ? ほいほい男についてくんじゃねえよ』
『どの口がそれを言うの』
『俺は真っ当な大人だからな。お前みたいなガキんちょをだまくらかすよーな真似しないの』
『じゃあいいじゃない』
『だぁかぁらぁ。お前のよーな年頃の娘が、俺のようなデキる大人の魅力に参っちゃうのはわかるよ? でもさ。お前らの年でしか味わえないアレコレってのがあるだろ。それを無頓着に捨てるのを見るのは忍びないし、人のイイ俺としては飄々とスルーできないのよ。わかる?』
『会いに来るなってこと?』
『~~そんなことは言ってない! 言ってないけどさぁっ!』
『良かった。ダメって言われたらどこまで押し掛ければいいかなって考えたわ。貴方の会社に行くのもありだけど、やっぱり他の人の迷惑になるのは良くないものね』
『おい待てお前。おい待て』
『だってわたし、自分のしたいことしてるだけよ? 今この時何を選ぶかなんてわたしが決めることだわ』
それの何が悪い余計なお世話だと顎を上向けてやると、彼は深々と溜め息をついてわたしの頭に手を乗せた。
『まあ、お前はそれでいいよ。でもお前の手に乗り切れずに溢れたもんのことは、きっちり覚えておけよ』
苦笑した彼の雰囲気はとても温かくて、柔らかくて。
そう、今思うとわたしはもう少し彼の言葉を、その裏にある想いを考えるべきだったんだろう。彼はわたしのことをとても大事にしてくれた。わたしが事あるごとに彼の元にいくことにあまり良い顔をしなかったけど、それでも大切に扱ってくれたから、わたしは何も気付こうとしなかった。
そして彼もまた、自分のやりたいことを諦めることはなかった。わたしといることよりも、大切なものがあった。そして色々な物を捨ててやってくるわたしを、受けとめるだけの余裕もなく──もしかしたら憧憬と、ほんの少しの煩わしさを持っていたのかもしれない。
お互いにお互いの大切なものを抱え込んで交わることのなかったわたし達は、だからこそ未来のあるものではなかったのだろう。
わたしは彼を変えられなかった。彼によって自分を変えることもなかった。
『僕も君が何を言おうと止まらない。君と一緒。わかってても僕は諦められない。僕は忘れられない。僕はきっといつまでも、大好きな皆と同じ想いを共有できない』
『俺もお前に同じことを言う。──邪魔だ。失せろ』
土台無理な話だったのだ。自分のことだけを考えて我儘に行動してきたわたしが、あらゆる物を捨てる覚悟で進むセオを止めるなんて。
わたしはセオが倒れていた現場の脇を通り、離れていく。今日は全校的に早退が命じられている。にも関わらず野次馬と化した生徒達の群れが行き交い、人混みの向こうから聞こえる刑事らしき男の制止する声、教師の声が辺りを駆け巡っていて騒がしい。それらを横目にわたしは足早にその場を通り過ぎた。
家に帰っても誰もいない。当然だ。母親は平日働きに出ている。
わたしは妙に重く感じる足を踏板に乗せ、ゆっくりと階段を上がる。二階にあるわたしの部屋は、暖色系カラーに可愛らしくまとめられており、枕元には大きな犬のぬいぐるみが置かれている。わたしは鞄を机に放り投げると、ベッドに倒れこんだ。柔らかな感触に包み込まれて気持ち良いが、布団を干した後のお陽さまの匂いがしないことに少しだけがっかりする。
鞄が揺れたかと思うと、下から猪のうりちゃんがごそごそと這い出てきた。
『一日目を終了するうり?』
うつ伏せのまま顔だけうりちゃんの方に向けていると、宙にウィンドウが表示された。動くのも億劫で唇をほとんど動かさずにそれに答える。
「……いいえ」
『どこかへ出かけるうり?』
「いいえ」
『では──』
決めた。わたしは布団から身を起こす。
「ログアウトするわ。今までの履歴をラブワのホームブックに転記して」
そしてふと鷹村さんのことを思い出す。八つ当たりのような酷い暴言をしておいた手前、直接話すのはまだ流石に気まずいけど、連絡は入れておいた方がいいだろう。
「わたしがログアウトしたら、鷹村さん──もう一人のプレイヤーに先にリアルに戻ったことを伝えて」
『わかりましたうり』
小さな猪が宙を跳びくるりと回る。
『我は世界の歩みを遂行する者也。記録帳にプレイヤー藤堂円架の行動記録を転記、界の番人の代行者として0 worldの門扉をここに繋げる』
今のわたしは状態が良くない。所謂ラブワに嵌り込んでしまっているのだ。これでは打開策を練ることも前向きな行動に移ることもままならないだろう。
『扉よ開け』
一度帰還して、クリアなステータスで再度挑むべきだ。
いつもより低いうりちゃんの声が厳かに響き渡ると共に辺りが光り、周回時と同じように辺りを白く白く染めていく────筈だった。
だが光はすぐに収まり、周囲の光景が変わる様子はない。KK学園の生徒である、藤堂円架の部屋のままだ。
「どうしたの? ログアウトよ」
猪のマスコットが鼻面をひくひくと動かし、再度同じ言葉を紡ぐ。だが彼の体が発光するものの、帰還を促されることはない。室内を沈黙が流れる。
「──ねえ」
『帰還の扉が開かないうり』
「え」
猪の小さな体がテーブルに降り立ち、内心の困惑を示すかのように前足で二度天板を掻いた。
宙に浮くウィンドウが、新たな文字を表示する。
『プレイヤー、貴女は帰還できないうり』