30話
翌日は久々にイベントが発生した。調理実習、過去にも一度発生したイベントだ。複数クラス合同でやるその授業では、専ら女子生徒の熱意が高く、男子生徒は騒ぐだけの者と何とか手伝いする者、そして稀だが異様に手際の良い者といるようだ。
グループで主食、主菜、副菜、デザートの内最低でも3つを作らなければならないので、それぞれ役割分担を行う。わたしは毎度のごとく悠生と紗枝ちゃんを含む五人グループで、悠生と紗枝ちゃんが主食と主菜を、男子生徒二人が副菜を、わたしがデザートを作ることになった。
材料は選択可能なのだが……あるのよねえ、ミンスミートが。わたしはしばらく並べられた材料の前で仁王立ちしていたが、溜息をつくと早々にパイシートに手を伸べた。セオに以前あげると約束したからには、ちゃんと果たしたい。
オーブンスイッチを入れ、パイシートを準備する傍ら、ナッツやドライフルーツをみじん切りにしシナモンパウダーを混ぜ合わせる。ミンスミートにはある程度フルーツが入っているのだが、切り刻んだそれらを更に加えていく。パイ生地を成形して表面に牛乳を塗り、ミンスミートを詰めたらオーブンに入れる。後はこんがり焼けるまで待つだけだ。
「あんた手が空いたよな。手伝ってくれ」
オーブン前で成功判定が出るのをぼんやり待っていたら、悠生に肘を掴まれた。
「ん? 悠生料理できたわよね。困ってるの?」
「こっちは何とかなってたんだけど、泣田が副菜組の方に行くから手が足りねえ。俺が肉とライス作るから付け合わせ作ってくれねえか」
「紗枝ちゃんが副菜作るなら付け合わせいらないんじゃ……」
見ると副菜組の男子生徒二人の隣で、紗枝ちゃんが珍しく半泣きで叫んでいた。その前にこんもりと広がるのは、見事に粉々になった野菜の切り屑の山。あー、あの状態からどうにかするのは大変そう。助けを求めるように見られたが、見なかったことにする。うん。紗枝ちゃん頑張って。
「状況はわかったわ。えーと、ロコモコ作ってるんだよね。白ご飯じゃないの?」
「ガーリックバターライスにする」
「凝り性ね」
「俺が喰いてえ。タネは作ったから肉は後焼くだけだ。ただ火が二つしか使えないからライスも同時に作りたい」
「紗枝ちゃん達ももしかしたら火を使うかもしれないものね。わかったわ」
悠生の手際はかなり良い。兄弟の多い家に育った悠生は、両親不在の場合は子供達に食事係が順番で回ってくる。だが社会人の姉兄は帰宅が遅く、中学に入りたての弟に一人任せるのも危なっかしいため、必然的に悠生が食事係になることが多いとのことだ。
じゅわりと肉の焼ける匂いを嗅ぎながら、わたしは野菜を洗い切る。テーブルの端では紗枝ちゃんが凄まじい勢いで包丁を叩きつけていた。あれ、何ができるんだろう。
完成したロコモコ、グレープフルーツ入りフレンチサラダ、そして溶けてなくなりそうな程小さく細切れになった野菜のスープ、ドライフルーツのミンスパイは先生にA判定をもらえた。
次の休み時間、わたしはパイを持ってセオのクラスへ向かった。色々思う所はあるけれど、折角セオの好物を作ったのだ。普段持ち込み不可のこの学園で唯一といってもいいプレゼントの機会を有効に使いたい。
一年一組のクラスを覗くと、生徒達が思い思いに好きなことをして限られた休み時間を満喫していた。だがセオの姿は見えない。
「お話中ごめんなさい。木村セオは教室にいないようだけど、どこへ行ったかわかるかしら?」
入口から最も近くでお喋りをしていた二人の女生徒がぴたりと口を閉ざしてこちらを向く。彼女らはしばらく無言だったが、しっかりとしてそうな眼鏡の少女の方が口を開いた。
「木村にどんなご用でしょう」
「大した用ではないけど、できれば急いで渡したい物があるの。居場所ご存知かしら?」
彼女はちらりとわたしの左手に提げられた手提げを見た。中身は見えないはずだが、バレただろうか。
「木村は今日お休みですよ」
「……そう。ありがとう」
自然と眉が寄る。どういうことだ。今までセオが殺害された時間帯はすべて夜間だ。だからこそ昨夜は行動可能ターンぎりぎりまでセオの家の前で粘ったのだが、まさか学校を休んで朝からセオが動いたのだろうか。
「セオはあんたに会いたくないって」
急いで去ろうとしたわたしに、もう一人の少女の鋭い声が飛んできた。眼鏡の少女が静止するように名を呼んだことで、声を上げた彼女が楓という名だと知れる。
くるんとカールしたショートボブと、意思の強そうな目をした少女だ。その彼女が挑戦的な瞳で睨め付けている。攻略対象以外のライバル? 不審な思いを顔には出さず、しらじらと返してやる。
「どういうことかしら?」
「あんたがそうやって追い回すから、あんたに会いたくないセオは逃げるんだ」
「憶測で非難されても困るのだけど」
「見てればわかるよ。あんたはわからないかもしれないけど」
「それは貴女からじゃなくてセオから直接聞くわ。他人から言われたことを真に受けて態度を変えるのは彼にとっても失礼だと思うから」
「──ッ! シツレーなのはあんたじゃん! 嘘つき!!」
突然感情がむき出しになったような怒りの声をぶつけられ、切り上げて去ろうと考えていたわたしは一瞬戸惑った。
「嘘つき?」
「嘘つきじゃん! あんたセオだけじゃなく色んな男にいい顔してんでしょ! 別にセオのこと好きでもなんでもないんでしょ! それなのにいつもいつもセオのこと追っかけ回して! まるでセオのことが大好きみたいな態度して! 嘘つき!」
「そんな意図はないわ。多分言っても無駄だとは思うけど」
「だってあんたセオのこと本気じゃないじゃん!」
「……本気かどうかなんて、貴女に判断されたくないわ」
「だってわかる! セオは本気だ。何かよく知らないけど今真剣に頑張ってるのはバカなあたしにだってわかる。それに悔しいけど、憎たらしいけど、セオはあんたのことだって本気なんだってのもわかる。高坂美琴だってそうだ! あたしあいつ好きでもなんでもないけど本気だから邪魔なんてしない。できない。でもあんたは違うじゃん! そんなあんたが本気で頑張ってるあいつらを邪魔するなんてシツレーだっ!」
顔を真っ赤にして涙を滲ませながらわたしを睨みつける少女を、正面からじっと見詰めた。その少女の肩を軽く叩き、眼鏡の少女が少しだけ前に出た。
「失礼。私、桑原泰子と言います。ちょっとこの子興奮して周りが見えなくなっているみたいで、無礼な口の利き方になってしまってすみませんね」
「泰ちゃん!」
「あんたは少し黙ってな。──突然こいつにこんなことを言われてもセンパイとしても困りますよね。センパイにもセンパイの事情があるんでしょう。だから私にはセンパイの行動を止めろという権利なんてありませんよ」
眼鏡の奥の冷え冷えとした視線が、わたしに真っすぐ突き刺さる。そういえば年上だってことをこの子に言ったかな、とどこか頭の隅の方で益体もないことを思う。
「ただ木村も、こいつらもセンパイが来ると天災にあったかのように騒がしくなるんです。それだけセンパイの影響力は甚大だ。それを自覚して、もう少し年上としての節度ある対応を取ってもらえませんかね」
ふと顔を上げると、桑原泰子の後ろから他の少女達もまたわたしのことを見詰めていた。印象に残らないと思っていた、攻略対象でも何でもない少女達。彼女達の物言わぬ視線、視線、視線。それが、痛い。
その彼女達の隙間から、頭一つ高い見覚えのある姿が現れた。
「あ。ちょっとごめん。通して下さーい」
「及川」
桑原泰子の鋭い声を物ともせず、妙に低姿勢でクラスメイト達の合間を縫って現れた及川新はわたしの前に立つと、居心地悪そうに頭を掻いた。
「あー……と、センパイ。あの」
「なに?」
「実はっすね。セオは休み連絡があった訳じゃないんです。今先生が家の方に連絡入れているみたいっすけど」
「……そう。それをわたしに言って、及川君はどうしてほしいのかしら」
意地悪な問いだっただろうか。及川少年は子犬のような目を困ったように下げた。
「皆の気持ちがわからない訳じゃないけど、オレセオの友達なんすよ。だからセンパイがどういう意図であれ、セオのために動いてくれるならいいかなって思ってます。ただ……センパイでもセオをどうこうできないかもしれないっすけどね」
そう言って、及川少年は少しだけ微笑んだ。
セオに会えなかったわたしはその足で屋上へ向かった。階段を上がって重い扉を開く。当然だけど、そこにセオの姿はない。わたしは埃っぽい風の吹く屋上の床に歩を進め、アルミ製の柵に凭れて下を眺めた。
ここからは正門から続く砂利道と複数の生徒が散らばる校庭が見える。その光景は平凡だが自由やエネルギーに満ち溢れ、既に過ぎ去った過去としてしか見られないわたしには、羨望や郷愁の念を起こさせる。
背後で、ガチャリと扉の開く音が鳴った。屋上にやってきたのは悠生だった。
「……珍しいわね、悠生」
彼が白い床を踏みしめ、ゆっくりと歩いてくる。
「……それ、まだ持っていたのか」
「ああパイ? うん。どうしよっかなと思って」
「誰かにあげるつもりじゃなかったのか」
「それも考えてたんだけど、もういいから自分で食べちゃおうかなって」
「何が」
「え?」
「何がもういいんだ」
「あー。うん。何て言うかこういう、小手先の手法って言うのかな。何かそういうことばかりやっている自分が、凄い表面的で浅慮な気がしちゃって」
「ふうん」
悠生はそれ以上追及しなかった。その水面のように凪いだ静けさに、わたしはつい口を開いてしまう。そう、いつも悠生はそうだった。
「ねえ悠生はどうしても実現したいことってある? わたしはない。なかった。だけど今止めたいと思ってる人がいるの。でも本気で走り続ける人は、生半可な気持ちじゃ止められないのね」
わたしは眼下に広がる光景を見るともなしに見る。元気に走り回る生徒達の姿が眩しい。
「どうすれば人を変えられるだけの強さを持てるのかしら。わたし今まであまりそういうことを考えたことないわ。……でもそうね。人ってそれぞれ色んな想いを持っているから、想いを通そうとすればぶつかるわよね。なのに今までわたしが困ったことがないのは……多分、そこまでしてどうにかしたいという思いが、そこまで本気で向き合える相手がいなかった、ということなのかもね」
砂塵を含んだ風が頬を掠め、髪が一筋舞い踊る。
「それが悪いとは思わない。毎回自分の我を通すなんて単なるワガママだもの。でも、いざこういう場面になってみて、どうしたらいいのかわからなくて途方に暮れるだけなんて……ちょっと情けないというか自分の人生経験の浅さに嫌気がさしてるの。──ねえ悠生ならわかる? どうしようもなく止められない想い。傷付いても壊れそうになっても止まらない心。それってどんなもの? どうすれば止まるのかしら?」
背後にいる悠生の足元で、砂と床が擦れる音がした。
「さあ。でも止められないだろ」
「それで周りを傷付けても? 自分が壊れてしまうとしても?」
「あんたは他人に自分の大事な物を捨てろって言われて捨てられるのか?」
「それは──でも、自分がダメになってしまったら大切も何もないでしょう」
「俺もわかんねえ。別にそこまで大層な物なんて持ってねえから」
「そう」
「……。昔なら、空手って答えたかもしれないけどな」
「空手?」
悠生が薄く笑った。
「中学までは結構強かったんだ。試合も勝ちまくってたけど、当然上には上がいる。ある時どうしても勝てない相手ってヤツに出くわして、それっきりだ」
悠生がわたしの隣に並ぶ。わたしが目で続きを促すと彼は短く吐息をついた。
「別に面白くもなんともない話だ。俺はそいつには何度やっても勝てなかった。一勝もだ。それでまあ他にも色々あって……腐ってる時に、ポカで左腕と左足をやらかした。一応動くようにはなったんだけど、しばらく絶対安静を医者に言い渡された。でも俺は聞かなかった。そいつとの、中学最後の試合があったんだ」
悠生の横顔はどこか遠い昔を懐かしむかのように穏やかで涼やかだ。
「試合に出る直前まで顧問や同級生に止められたな。でも最後には諦めて俺の好きにさせてくれた。最後まで食い下がったのはマネージャーだったか。そいつは言った。手足が一生動かなくなるより大切なのかって。俺はそいつの制止を振り切って試合に出た。結果は惨敗。腕も足も壊れて二度と元通りには戻らない。──でもそうだな。さっきあんたが言ってた止まらないヤツ。そいつの立場に俺がなったなら、俺はあの時マネージャーに言ったのと同じことをあんたにも言うかもしれない」
「何て?」
悠生がわたしを見下ろして、躊躇いを微塵も見せずにさらりと言った。
「『邪魔だ。失せろ』」
その時、遥か下方から大気を切り裂くような悲鳴が上がった。