29話
そして再び、わたしはセオを追う。
言葉だけで彼を止めるのは容易ではない。学園外でわたしは、セオの後をつけることが多くなった。
今わたしの目の前には、等間隔に街灯が並んだ商店街が広がっている。ここを抜けて更に進むと、いわゆる歓楽街に行き着くことになる。明滅を繰り返す色とりどりの電飾、濃厚で複雑に絡み合ったアルコールと香水の香り、刹那的で自堕落な気配漂う人の群れ。
昼には辿り着けないそこに、セオはするりと入り込む。黒のキャップにダークグレーのライトジャケット、黒デニムを着た彼の姿は、まるで熱帯魚の中に揺蕩う黒い小魚のようだ。溶け込んでいるのにどこか目立つ。
セオの行き先は大抵決まっている。若者が屯する店前の駐車場、ゲームセンター、時には友人らしき者達とカラオケやクラブに入ることもある。
だが彼が一所に長居することはあまりない。その場にいる者達と少し会話しただけでふらっといなくなってしまうこともある。そんな彼の様子は、さながら気紛れな猫が縄張りを徘徊している風にも見える。
今夜のセオもまた、そうだった。若干ネオンが落ち着いた裏通りの一画にある、グレーの重い扉、それをくぐってすぐの階段を降り、いくつかの扉を経て辿り着いたフロアに彼は足を踏み入れていた。そこは音の洪水が押し寄せるクラブのサブフロアで、彼は最初顔見知りらしい友人と慣れた様子で会話していたが、今度はドリンクカウンターでスタッフと何やら楽し気に話し込んでいる。
「あれ? お姉さん一人?」
離れた壁際でセオの様子を伺っていたわたしに、日に焼けた浅黒い肌を持つ背の高い二十前後の男の子が声をかけてきた。わたしはまともに顔も上げずひらりと片手を振る。
「ごめん、先約ありなの」
何度目かわからないその返答に、しかしその若者はめげなかった。
「じゃあその先約が来るまでていいからさ、俺と話でもしようよ。俺イッペー。お姉さんは? ってかもしかしてもしかしてだけどー俺より年下だったりする?」
隣に並ばれたわたしは、初めて横に視線を向けた。かなりの身長差があり、首が若干痛い。鍛えられた体に貴金属のアクセサリーを下げ、顔立ちは声から予想したより繊細さが見てとれる。
「あ。勘違いしないで。別に年なんて俺気にしないから。ただ遠くから見て年上かと思って声かけたからさー」
「童顔で悪かったわね。忙しいからまた今度にして」
「あれ。ちょっとイラっとした?」
「……貴方常連? あそこでカウンターにいる子のこと知ってる?」
顎で示す先を見た彼は、片手に持ったグラスを口に運んだ。琥珀色の液体がたぷんと揺れる。
「あいつかー。あいつは本命いるからやめた方がいいよ」
「本命?」
「ん。女の子探してるみたいでさー。しょっちゅう人に聞いてる。熱意半端ないもん」
「どんな相手だって?」
「さあ。女の子なんて皆似たよーなモンじゃん。わかんないよー。あっ。でも君は別。何か雰囲気他の子と違うし」
「名前とか聞いた?」
「野郎の名前なんてどーでも。え? 探してる相手の名前? 確かみ……? 何かそんなんじゃなかったかなー」
「そう」
やっぱりセオが夜出歩いているのは高坂美琴を探すためか。実際にセオの死体がこの店の周辺で発見された周もある。つまり殺人犯である高坂美琴がこの辺りに立ち寄っている可能性はあるのだろう。
「ねね、それより名前教えてよ。あいつのことなんかより、俺のこともっと知ってほしいな。俺けっこー本気よ?」
「ん?」
黙考していたら男の子──確かイッペー?──の手が腰に回された。冷たく見上げてやると、彼はへらりと笑う。さてどうしようか。
少し考えた後、徐に彼に向き直り、とびきりの笑顔を向けてやった。相手が一瞬気を抜いたその瞬間、素早く体を反転させて腰に周る手から身を逃す。
「わたし手が早い男の本気は信じないの。じゃあね。ありがと。助かったわ」
そのままさっさとその場を立ち去るつもりだったが、場所が悪かった。人が多すぎて距離が稼げず、すぐに後ろから手首を掴まれてしまう。もう! ウザい!!
「ちょちょちょい待って。嘘じゃないって。俺本気ほんき。ね。もっと話そ? 話せばわかるって!」
「わたしにはその気はまーったくないの。離して!」
「いや待って。離したら二度と会えない気がする。もう少しだけ! 後数分でいいから俺に時間ちょーだい!」
「しつこい!」
それなりに遊び慣れてそうだったから適当にあしらえば次へ行くだろうと思って失敗した。妙に食い下がる彼に取り繕うことなく声を荒げるが、手を離されることはない。
スタッフに介入してもらうかと周囲に目を向けたら──目があってしまった。そう、セオと。
彼にいつものような笑顔はない。焦るわたしからすぐに目を逸らした後、カウンターにいるスタッフに何やら話しかけている。イヤー! 失敗したー!!
「ねえ、聞いてる? 名前だけでも教えて」
「あぁっ! うるさい! あんたのせいよ!」
半ば八つ当り気味に怒鳴り付けると、くるりと体が再反転しイッペーの方に向き直された。剥き出しの二の腕を両手で掴み、目を覗き込まれる。
「お願い信じて。俺君に運命感じちゃったの」
「知るか。ってかそれ勘違いだから。離しなさい」
「イヤだ。もう離したくない。今日はずっと君といたい」
「わたしはいたくないの! いいからさっさと離しなさいっ!!」
その時、階下から凄まじい重低音が響き渡り、フロア中に歓声が沸き上がった。それと同時に後ろから伸びてきた腕に腰を浚われ、わたしはイッペーの腕から抜け出すことに成功する。
助け出してくれたのは、セオだった。彼の顔を見た瞬間、自分の中に期待があったことに気付かされる。
「イッペーごめん。彼女返してもらう」
「何だよ。お前ら知り合いかよ。下がるわー」
「ごめん。今度奢るから」
「ついでに可愛い子でも紹介しろよ。運命だと思ったんだけどなー。──じゃあね君、今度会った時には名前教えて」
セオの登場であっさりと引いたイッペーは、わたしの顔を笑顔で覗き込むと、ひらりと手を振って人混みの中に去っていった。その引き際の良さに若干呆れながらも、背後にいるセオの雰囲気がいつもと違うようで振り向けずにいると、腰からセオの腕がするりと離れて、今度は右手を掴まれた。
「行くよ」
「え?」
「荷物は? ロッカー?」
「あ、ええ」
手を引かれ、立ち踊る人の間を縫ってフロアを横切る。途中何度か知り合いらしき人に声をかけられ適当にあしらっていたが、セオがわたしに声をかけることはない。
わたしの手を引き最後の扉を潜り抜けたセオは、すっかり暗くなった通りを無言で歩き出す。周囲の空気はひんやりと冷たいものの、体にはまだ熱気が残り、耳の奥には大音量の音楽が鳴っているようだ。異世界から帰ってきたような不思議な感覚に揺れながら、セオの意外と固い手だけが妙に現実を感じさせる。
「セ……」
「まどか。君はもうあそこへ行ってはダメだ」
「……何故?」
「君は女の子なんだ。ああいう所に一人で行くのは良くない。夜出歩くのだって危険だ」
「じゃあセオと一緒に行くわ。それならいいでしょ」
「ダメ」
「どうして?」
「僕は友達と遊びたいんだよ。君は邪魔」
「だったらわたしだって一人で好きに行くわ。それを止める権利はセオにはないわよね?」
「……わかった。じゃあ僕が行く時に声をかけるよ。それ以外は行かないで」
「セオが家にいなかったら、わたしは勝手に行くわよ」
「まどか」
溜息を吐くセオの背中を見詰める。
「君がガンコなのは知っていたけど、ここまでワガママだとは思わなかったよ」
「お生憎様。わたしはわたしのしたいことをするだけ。それをどう言ってくれても構わないわ」
「ホント、君を閉じ込めておけたらいいのに」
「セオにできる?」
首を傾げて見せると、目線だけこちらに向けたセオがどこか歪んだ微笑みを浮かべた。
「どうだろう。君を本気で閉じ込めておきたい気持ちはあるのに、いざとなるとできるかわからない。僕は案外臆病なんだ」
「臆病? そう。貴方がそう言うならそうなのかもしれないわね」
ぽつぽつと街灯が夜道を照らす道を、わたしとセオは手を繋いで歩く。以前より体の距離は近いはずなのに、何故か心は前より遠く感じる。でも恐らく今感じている距離が、わたしとセオの本当の距離だったんだと思う。今まではセオがうまいこと気付かせなかっただけで。
「ねえセオ、貴方がどうしようと、わたしはわたしの事情で高坂美琴を追わないとならないの」
「僕のクラスメイトが何かしたの?」
「そうね。本当の意味では高坂美琴が何したのかわたしは知らない。会ったこともない。でもわたしは彼女のこれからが気になる。セオと一緒にいれないのなら、わたしは一人で思う通りにやるだけ」
「気になるなら学園で聞いてみたら」
「貴方も知っているように、彼女は学園にいないの」
「戻ってくるまで待てない?」
「彼女が学園に来るとは思えない。そして待っていては手遅れになりかねない。わたしは未来を変えたいの」
「……着いたよまどか」
家の前でセオがわたしの手を離す。暗い夜の闇に浮かぶ白い顔を、わたしは少しだけ微笑んで見詰める。
「送ってくれてありがとセオ。家に着いたら連絡ちょうだいね。でないとわたし、心配で家を飛び出しちゃうかも」
「まどかは怖いな」
わかったよ、じゃあねと笑ってセオが去る。玄関のドアを閉めたわたしは、扉を背に心の中できっちり二十数えた。数え終わると扉を細く開け、外にセオの姿が見えないことを確認すると隙間から素早く外に飛び出す。
家からしばらくは一本道だからセオの姿はすぐに見つかった。行先を問う半透明のウィンドウに適当に返事をし、そのままセオに見つからないように後をついていく。
懸念したようなことは何もなく、セオはまっすぐ自宅へ向かい、そのまま家に入っていった。塀の陰でその姿を確認したわたしは、しばしの間暗いセオの家をじっと見上げる。すると二階の窓に明かりがついた。わたしは知っている。あそこはセオの部屋だ。
数分後、わたしの端末にメッセージが届く。
『Goodnight まどか。良い夢を』
『おやすみ。セオ』
セオに返信した後もわたしはそこを動かなかった。一度消えた明かりが再度点いてまた消えても、わたしは動こうとしなかった。
うりちゃんに行動ターン終了の提示がされるまで、強制的に一日が終了させられるまで、わたしはじっとセオの部屋を見詰め続けていた。
そしてそれはもしかしたらセオも一緒だったのかもしれない。消えた明かりの向こうから、透明な窓の向こうから、ずっとセオの視線を感じていたから。