28話
か細い糸のような雨が空から降ってくる。コンクリートに落ちた雨垂れはじっとりと広がり、澱んだ水溜まりをいくつも作り出す。
赤い傘を片手にわたしは商店街を歩いていた。グリーンの傘の陰を見失わないように、こちらの存在に気が付かれないように。
「セオ、どこへ行くの」
わたしは人混みに紛れてセオの背中を追っていた。
※ ※ ※
逃げるように背を向けたセオを見た時、とっさに言葉が口をついた。
「ねえセオ、貴方は一体誰を追いかけているの?」
「──突然だね。どうしたの、まどか」
セオの足を止めることには成功したけど、返ってきた言葉はいつもと変わらず、だけど振り向いてくれないため顔は見えない。
「セオ、わたしを見て。わたしは傷ついてなんかいないわ。ただ貴方のことを知りたいだけ」
すると突然セオが振り向き笑った。
「イヤだなまどか。それは僕のセリフだよ。僕だってもっと君のことを知りたい」
「特に話せるようなことはないわよ?」
「僕もないよ?」
お互いの間に居心地の悪い沈黙が流れる。セオの笑顔は崩れない。わたしは肩を落とし溜息をつく。ほら、だから何も起きていないこのタイミングで聞けることなんてないって言ったじゃないですか鷹村さん。
ここにいない鷹村さんを思い浮かべて嘆いていると、セオが微笑んだ。
「まどか少しだけ元気になったみたい。良かった。僕まどかを傷つけちゃったんじゃないかって心配してたんだ」
「平気よ。わたしはそんなにやわじゃないわ。わたしは……貴方の方が心配」
「そう? まどかに心配してもらえるなんて嬉しいな」
ほんの少し前に手の届かなかったセオの背中を思い、つい伸ばしかけた手を反対の手で握る。セオは気付かなかったのか、青い空を振り仰ぎ眩しそうに目を細めた。
「うん。そうだね。僕もまどかもちょっぴし気にしすぎたね。ほら。今日はいい天気。僕もまどかも元気いっぱい。だから今日も一日頑張れる。ね?」
空から降ろした視線をわたしに向け、セオが笑った。
わたしの手は、次こそ彼に届くのだろうか。
※ ※ ※
「ねえセオ。わたしセオと離れたくない」
「どうしたのまどか?」
何度目かの説得。きょとんとするセオの腕を掴んで、わたしは顔を寄せる。セオの香りがする。
「セオは、最近わたしと話してくれない」
「何言ってるの。いつもこうやってまどかと一緒にいてお喋りしているでしょ」
掴んでいない方の手が近付いてきて、わたしの顔を上向ける。セオの優しい笑顔が目前に広がる。
「じゃあセオ、学校だけでなく家でもずっと一緒にいてくれる?」
物理的監視を狙って挙げてみた提案だけど、セオはを虚を衝かれたような表情をした。
「まどかがそんなことを言うのって珍しいね。今日帰りにどこか一緒に行く? 少し遅くなるかもしれないけど」
「そうじゃない。夜まで。夜までずっと一緒にいてほしいの」
行動ターンは夜間まである。夕方まで一緒にいても夜間に動かれてしまってはどうしようもない。
非常に合理的な提案だというのに、目を瞬いたセオは呆れたような溜息を吐いた。
「まどか? 落ち着いて。夜二人で家にいても外にいても問題でしょ? 僕達未成年。家族を心配させるのは良くない」
「でも……っ!」
そんなことを言っているセオこそ、前のターンではお祖父さんの目を盗んで夜な夜な街に繰り出し、そして──殺されてしまったというのに。
今のセオが同じ行動をとっているかもわからないので口に出せずにいると、しばらくわたしを見詰めていたセオがふと笑い、わたしの額を優しくつついた。
「まーどか。僕も気持ちは一緒だよ。だから今日は夕方まで一緒にいて、夜電話しよ? 僕もまどかといっぱい話したい」
夕方まで一緒にいられて、夜遠隔ではあるものの電話で動向を把握できれば、セオが動くことを察知し、殺されることを未然に防げるだろうか。
「……わかった。今日はそれでいいわ」
僅かに不安だが他に策がない。常に一緒にいるのが現実的に難しい以上、次点の策と言えるだろう。
不承不承ながらも頷くと、くすりと可笑しそうにセオが笑った。
「でもまどかがそんなコト言い出すの珍しいね。僕嬉しい」
「あのねぇセオ」
ふふ、と楽しそうに笑うセオに、文句の言葉も消えていく。その日の放課後はセオと一緒に街へ出かけた。セオは終始嬉しそうで、別れ際にも思い切り抱きついてきてわたしを慌てさせた。夜は約束通り電話をかけてきてくれて、夜空に浮かぶ上弦の月を見て綺麗だと無邪気な笑い声を聞かせてくれた。わたしはその台詞の文学的な示唆の方を思い出して苦笑したけど、とても安心したことを覚えてる。
その翌日、セオはまた死体で発見された。
セオは朝とあるさびれた空き家で、冷たくなった姿を発見された。死亡推定時刻は夜中の2時前後。わたしが電話を切った後に家を出て、犯人を追ったのだろうか。夜の行動ターンの時間は確かにまだ残っていた。そんな夜中に外へ出るなんて思わなかった、わたしの落ち度だ。
どちらにしろ、わたしはまた止められなかった。そうして無力感だけがわたしを苛む。
※ ※ ※
「ねえセオ、待ってお願い。わたしセオが心配なの」
「まどか?」
何度目かの説得。もう数えることも億劫になったリトライ。驚いたようなセオの両腕を掴んで、わたしはセオの目を正面から覗き込む。
「セオ行かないで。わたしを置いていかないで。もうセオを失うのは嫌。わたしの前からまたセオが消えてしまうのは耐えられない」
本当は涙でも見せればいいかなと思っていた。自由に泣けるようなテクは持っていないけど、自分で感情を高ぶらせればあるいはイケるかなと。
でもセオと話し始めたら、言葉が勝手に口から溢れてきて止まらなくなった。理詰めで淡々と話しても跳ね返され、情に訴えかけようとしても笑顔で躱され、結局わたしはセオ死亡の報を聞く。時には朱に染まったセオの死体を前に呆然と立ち尽くすあの無力感を思い出すと、自然と想いが溢れて言葉になった。どうして、どうしてと。
「どうしたのまどか」
「セオにはわたしの声が届かない? わたしはセオのことが大好きなのに、何をしても無駄なの? お願いセオ、少しでもわたしのことを想ってくれているのなら、見えない容疑者を追うのをやめて。わたしの傍に──ここにいて」
困ったようにセオがわたしの手に触れる。それは強い力ではなかったけれど、わたしの右手はセオの腕からやんわりと外されてしまう。
「まどか、力を入れ過ぎると筋を痛めるよ」
「セオ、そんなことはどうでもいい。わたしは──っ!」
「まどかの気持ちはわかるよ。とても良く」
セオの瞳がわたしを覗く。深く透明なヘーゼルアイがわたしを飲み込む。
「僕はね、いつも思ってることがあるんだ。どうして、どうしてって」
その言葉にわたしは息をのむ。どうして、それはわたしの今の想いと一緒だ。
「どうしてリューは死んだんだろう、どうして僕は何もできなかったんだろう、どうして電話であんなことを言っちゃったんだろう、どうして死の直前のリューの電話を取れなかったんだろう。どうしてすぐにリューの元に走れなかったんだろう。どうして僕は───」
リュー、大神竜司。殺されたセオの従兄。セオがわたしを見て目を細める。
「どうしてって考えれば考えるほど次から次へと浮かんでくる。でも何も変わらない。すごく嫌な言葉だ」
わたしは何も言えない。同じ所でぐるぐる周って同じ言葉をセオに投げかけるわたしに、言える訳がない。
「それは目の前の事実から逃げる妄想のifだ。意味がない。僕がここにいる僕でしかないのなら、どうしての先にあるのは何も変わらない今だけだ。だから僕は、新しいどうしてを生まないために動く」
取ったわたしの手を握り、セオが不敵に笑う。
「でも! でもセオはそのために沢山のものを捨てていくの!?」
「まどか?」
「セオがサッカー部を辞めたのは何故!? 毎日道場で体を鍛える時間を取るため!? 友達と放課後遊ぶこともせず、毎日繁華街で胡散臭い連中と接触するのは何故!? 体も弱くないのに定期的に学校を休んで遠出して、似たような犯罪が発生した場所を調べてどうするの!?」
「まどか、それ誰に聞いた?」
「知らないと思った? それならセオは周りを見くびっている。貴方を大切だと思う家族や友人や、わたしの心をわかっていない。貴方のお祖父さんがこんな小娘に貴方のことを頼まなきゃならない程心配してるだとか、クラスメイトの新君が貴方が休んだ日を全部覚えてて、外での付き合いだとか出席日数の心配してくれてたり、あの鏡ですら貴方のために裏であれこれ動いているのを貴方はわかってて、わかってて全部捨てるって本当に言うの!?」
「爺ちゃんとアラタがまどかに言ったのか……アラタ、あいつ。──っと、あれ。カガミって言った? カガミが何してるって?」
「鏡のことはまあいいの。あれはよくわからないし」
戸惑いを見せていたセオが、思わずというようにくすりと笑う。
「まどかはカガミには厳しいね。良い先生なのに」
「わたしも、とってもいい先生だと思うわ。──ねえセオ、そうやって貴方が切り捨てようとしている物が過去よりも劣るなんて言わせない。今しか得られない大切な物が一つもないなんてわたしは言わせないわ」
「……」
「セオ、わたしは過去を拾い集める行動より、今大切な物──こうやって今目の前の相手を抱き締める行動の方が素敵なんじゃないかって思うの」
「……」
「セオは、いつもわたしを大事にしてくれる。それはずっと変わらないでしょう?」
「……うん」
聞こえるかどうかのほんの小さな声で、セオが首肯した。
「うん。まどか。そうだね。まどかの言ってることは多分正しい。僕はちゃんと知ってるんだ」
わたしはセオの手から腕を外し、そっと彼の頬に手を伸べる。セオの透き通った綺麗な瞳がわたしを覗く。
「だからこそだよ、まどか」
突然足元を突風が吹き抜けたような衝撃が走った。次いで視界ががくんと下がり、気付いたらわたしは手足を地につけて座り込んでいた。痛みはない。ただ呆然と、セオに何かされたのだ、ということだけは朧気ながら理解した。
座り込んで見上げるだけのわたしに、セオは優しく微笑んだ。
「ごめんねまどか。諦めなきゃいけないものも、手放すべきものも、僕はもうわかっている。──あの日のリューが毎晩僕の枕元に立つ。無言で僕に訴える、責めてくる。だからこそ僕は僕の選んだ道を忘れることはない。僕はたった一つを選んで、他の全てを捨ててもいいんだ。一生あの日に囚われ続けることになろうと、何も知らない以前の僕のように、ただ笑って大好きな人の前に立つことはできない。僕は、僕が後悔しない道を選ぶ」
諦観の瞳にほんの少し淋しさの色を乗せ、でもどこかすっきりした表情でセオは笑う。
「ありがとう。僕は行くよ。だからまどか──君は僕のことを気にせず自分の道を行って」
セオが背を向ける。またわたしはその背中を追えない。
周回で過去に戻ってセオの従兄が殺されるのを防ぐルートはあるのだろうか。
もしないのなら八方塞がりだ。セオが殺される過去を変えたいわたし、従兄が殺された過去を追い続けたいセオ、わたしと同じ想いを抱いて、わたしより更に辛い絶望の道を、ぼろぼろになって進むセオをわたしは止められない。
わたしはプレイヤーだからできないことはないと思っていた。
わたしはやり直しができるから、何度間違えても平気だと思っていた。
でもセオに届かなかった手は、もう一度伸ばさなければならない。
セオに届かなかった言葉は、もう一度紡がなければならない。
何とかしようと足掻けば足掻くほど、わたしの心は澱むような重苦しさに囚われる。
まるで毎日ひとつひとつ鉛の塊を飲み込んでいるかのように。
丁寧に、丁寧に。
沈み、
沈む。




