19話
鷹村さん陥落のアナウンスが流れた時、わたしは数理準備室という理数科目で使用される様々な物が収容された部屋で、鏡先生の手伝いをしていた。
「藤堂さん、どうしましたか?」
「いえ」
アナウンスに気をとられている所を見咎められ、すぐに作業を再開する。これは反映済み、これも。あ。一問未反映あるわ。
「先生、これで前回の注意をなかったことにしてくれるんですよね?」
手元の流麗な文字で書かれたメモ書きを見ながら、画面に表示された問題文をチェックする。両者似ているが、手書きの注釈が画面の問題に反映されていない場合がある。それを目視チェックしているのだ。
「はい。わかってますよー。マナーモードにしていなかったことは注意するべきポイントですが、まあ使用していた訳でもありませんし、この協力活動でチャラとしましょう」
「ありがとうございます。今度から気を付けますね」
安心して笑顔を向けると、鏡先生は画面の向こうでゆったり頷いた。
「それで藤堂さん、先程の電話はどちらからだったんですか? 緊急の案件であればこの場でのみ掛け直すことを許可しますよ」
「いいえ。大丈夫です」
わたしは昼休み始めにかかってきた電話を思い出す。モニタに表示された名前は泣田紗枝。クラスメイトのサポートキャラだ。恐らく依頼していた調査の結果が出たのだろう。
「少し失礼しますね」
突如降ってきた声と同時にぎしりと椅子が軋み、背後に感じた温度にぶわりと毛が逆立つ。追うように漂ってきた香水の──高校生が纏わない、人工のオリエンタルな香りに全身を震えが走る。
いつの間にかわたしの真後ろに立った鏡先生は、覆い被さるような体勢で画面を覗き込んできた。近い。少しでも動いたらどこかしら触れてしまいそうな距離だ。
油断した。わたしは内心臍を噛んだが、しかし平静を装ってそのまま前方を見続ける。
「結構進んでますねえ。ありがとうございます。うーん、ここは少し手を加えたいですね。僕の方に送ってもらって良いですか?」
「わかりました」
吐息が髪を揺らし、耳を擽る。そういえば以前にもこんなことがあった、気が。
「どうかしましたか? 藤堂さん。動きが急にぎこちなくなりましたよ」
ったく。目敏くてデリカシーのない男なんて嫌いよっ!
「そんなそんなー。先生の気のせいですよ」
「そうですか。ところで藤堂さん、貴女は泣田さんと仲が良いですよね」
嬉しくない話題から移り変わったのに、結局不穏しか感じない。
「クラスメイトとしてそれなりに、という所ですが。先生、これどこに送ればいいでしょう?」
「ああ。僕が入れますよ」
体をどける間もなく後ろから両手が伸びてきて、画面に触れる。両腕に囲われてしまったわたしは、彼に囚われたような気分になる。というかこれ、完っ全にわざとよねえ!
ぽんぽん、と軽いタッチ音が静かな空間に響く。わたしはこの状態が早く終わることを念じるしかない。さっさとし~ろ~。
「そう。その泣田さんですが、最近よく姿を見かけるんですよー。ついこの間まで僕の周囲をうろちょろしていたんですが、今日は何やら一年の教室にいって、捕まえた生徒に話を聞いていたようです」
「へえ。彼女が一年生と仲が良いなんて知りませんでした」
鏡先生の指先の動きが、吐き出す息が、ひどくゆっくりと感じる。彼もわたしも画面を見ていてお互いを見ることはなく、どこか空虚さを纏った会話が続く。
「仲良くお喋りに興じている風ではなかったので、お友達に会いに行ったというより、誰かを探しているのか何かを聞いている、という感じでしたねえ。藤堂さん、彼女が何をしているのかご存知ないですか?」
先生の指先が画面から離れる。だが両手はそのまま机に置かれ、机と彼の腕と、そして大きな体で四方を完全に包囲されてしまう。
「藤堂さん?」
右耳に唇が近づき、吐息に乗った囁き声が鼓膜を震わせる。右のうなじ辺りがぞわりと震え、妙な熱さが半身を襲う。
「……せ、んせ、え」
「はい?」
きゅっと唇を噛んだわたしは次の瞬間、周囲を囲う腕を力任せに押し上げた。急いでその下を掻い潜ると、獣に見つかった小動物のような動きで温かな檻から逃げ出す。我ながら早い動きだと自画自賛する間もなく、鏡先生に反応させる間を与えないよう、扉の前でくるりと振り返る。
「先生! ここまでやれば大丈夫ですよね!? わたしご飯も食べてないのでそろそろ失礼しますっ! 申し訳ありませんが後はご自分でお願いしますね。ではでは」
有無を言わせぬようにっこり笑顔をつけて告げると、軽くお辞儀をしてすぐさま扉に手をかけた。だが、
「藤堂さん」
落ち着いた声が、背中にかかる。静かな声音なのに、わたしは無視できず立ち止まる。
鏡先生が、うっすら笑う。
「雉は鳴かずにはいられない生き物です。ですが──貴女は花を好む知者であって下さいね」
よし陥落は回避! とりあえず急場を凌いだことでわたしは一息つく。どのキャラの攻撃にも慣れてきたお陰で即陥落することはなくなってきたように思う。でも。
どう考えてもあれって忠告よね。午後の休み時間、鷹村さんに会うために廊下を歩きながらわたしは考えた。『雉も鳴かずば撃たれまい』『言わぬが花』この二つに掛けて余計なことを言うな、もしくは首を突っ込むなと言っているとしか思えない。でも何に対して言っているのだろう。
廊下の窓から澄み切った青空を見上げる。今その青いキャンパスに軌跡を残す強者は鳥の中にもいないようだ。
わたしが泣田紗枝にお願いして高坂美琴のことと、ついでに以前は鏡先生の弱点を調べていることは、察せられている感がある。もし鏡先生がそれをやめろと言っているのであれば、逆に言うとそこには、彼がわざわざ口を出して止めなければいけない何かがある、ということだ。あれ。これ恋愛ゲームよね?
つらつら考えながら鷹村さんのクラスに着いたわたしを出迎えたのは、攻略対象の清水律だった。
「鷹村ならいませんよー」
生徒のお喋りや椅子を動かす音、沢山の独特の騒音が合わさり形作られる教室の中で、その少女は自然と溶け込んでいた。ミディアムボブの黒髪をさらりと揺らし、人好きする笑顔を浮かべる彼女は、特別可愛い容姿を持っている訳ではない。だがモテそうな独特の雰囲気がある。
「ありがとう。どこへ行ったかわかるかしら?」
「うーん。最近よく行く一年生ちゃんの所か、三年生のセンパイの所か。あ、校庭に行ってることもあるかな」
高坂美琴のことを気にしていたし、一年生の教室かしらね。そう思いながらも内心首を傾げる。陥落後のエクストラモードでは基本的に攻略のための行動ができない。その状態で何か収穫があるのだろうか。
気付くと清水律が笑顔でこちらを見ていた。ん?
「えーと、藤堂さんであってますか? 改めて! 鷹村のクラスメイトの清水律です。藤堂さんは鷹村とどういう関係ですか?」
ど直球が来た。どういう関係と言われると正直困る。とりあえず当たり障りのない笑顔を浮かべて見せる。
「四組の藤堂円架です。鷹村さんとはちょっとした課外のオトモダチよ。鷹村さん何か言っていた?」
「外でのお知り合いとしか聞いてません。鷹村、意外と自分のことについて口が固いんですよ」
ふむ。既に知っている情報を伏せて聞いてきたのね。
「少なくともわたしとのことであれぱ、話すことがないからだと思うわ。わたしも鷹村さんにあれこれ聞いたことがないから彼のことを詳しく知らないけど」
「いいえ。藤堂さんとこうして話せただけでも嬉しいです。ゼヒまたお喋りしましょう」
にこにこと愛想のいい彼女に軽く頷き、踵を返す。これから一年生の教室へ行くのは時間的に厳しい。合流は次の機会ね。
「ところで藤堂さん」
またか。予想していた訳ではなかったが、最近よくこのパターンで引き留められることが多いため、漏れそうになる溜め息を飲み込み振り返る。
「……何かしら?」
清水律の笑みが深まり、目の前にいた平凡な少女の姿が匂いたつような妖艶さを纏う姿に変貌する。
「鷹村をしっかり捕まえておいて下さいね。でないと誰かに盗られちゃいますよ?」
熟れた柘榴の実のように、少女は赤い唇を開き鮮やかに、艶やかに笑う。
授業中は特段イベントもないからすっ飛ばして放課後。一応授業は筒がなく行われたとだけ言っておくわ。ったく、今日は妙に難易度高い問題が出たわね。
鷹村さんと合流することは一旦後回しにして、泣田紗枝の元に向かう。途中でお喋りする三人の女子生徒達の脇を抜け、その際聞こえた会話に少しだけ興味を惹かれる。七不思議ね、何で学校って必ずこういう怪談話もどきがついてまわるのかしら。
「女子の嗜みだよ円架ちゃん。気になるなら詳しく調べてあげるよ。えーと確か血だらけの女生徒、無人の音楽室から聞こえるピアノ、人体実験の行われる地下室、深夜徘徊する幽霊、笑う人体模型──」
「いい。それはいいから。それより結果を教えてもらえる?」
紗枝ちゃんは小動物のように丸い瞳をくるくる動かすと、制服の胸ポケットからメモ帳を取り出した。珍しい、アナログだ。
と思ったらどうやら違う。固いペン先はインクを出す構造になっていない。
「メモ機能のある学習用端末だよ。円架ちゃんも申請すれば使えるようになると思うよ」
「考えておく。それで?」
「うん。えっとね。一年一組高坂美琴、天文部。仲が良いのはクラスメイトの手塚君歌、天文部の宇野小由里。天文部は幽霊部員のようだけど、生徒会役員でもある宇野小由里と仲が良いから生徒会室に出入りしていることの方が多いみたい。一時期クラスメイトの木村セオと噂になったこともあるけど、実際そういう仲じゃないとのこと。まだ充分イケるよ円架ちゃん」
「セオは誰にでもああいう態度だから、誤解されやすいのでしょうね」
「ううん。そういうんじゃないよ」
言って紗枝ちゃんが少しだけ不可解という感情を乗せて首を傾ける。
「確かにセオ君は誰にも分け隔てなく優しいけど、そうじゃないから美琴ちゃんは特別なんじゃないかって噂されたの」
「そうじゃないって?」
セオが優しくない態度をとることは想像できない。ましてや女の子相手に。
「円架ちゃんがセオ君と会うちょっと前かな。六月にセオ君が教室で美琴ちゃんに食って掛かる事件があったの。その後も美琴ちゃんにだけ距離をとって接しているみたい。その辺は調べきれなかったから、もし必要なら次に調べてくるよ」
「……わかった。とりあえず続きを聞かせて」
「美琴ちゃんは入学後、すぐに体調を崩してお休みしちゃったの。だから数日だけ登校して、次に来れたのが六月。そこでセオ君と初めてまともに対面したのね。体の弱い子ってことで保健の先生も気を付けているみたい」
保健の先生って、確か攻略対象だったわよね。しかも仲が良い子が生徒会ってことは秋月遼とも接点がありそう。セオとも何やら曰くありげだし、この子意外と背景持っていたりするのかしら。あら。鷹村さんが喜びそうね。
「美琴ちゃんは九月十三日からまた長期でお休みしているよ。病欠となってるね。学祭も含め今日までずっと欠席しているけど、先生達は承知しているのか特に気にされていない様子だったよ」
「もうすぐ一ヶ月じゃない。そんなに休んでいて問題にならないの?」
「それは──」
「藤堂さん!」
紗枝ちゃんの声を掻き消すような声が聞こえたと思ったら、廊下から何やら焦った様子の鷹村さんが教室へ入ってきた。
「ちょっと鷹村ぁ、たまには部活見に来てよー」
「うるさい。お前は一人でさっさと部活へ行け」
続けて清水律だ。まるで高坂美琴に成り代わるかのように彼女が背後から鷹村さんに引っ付いてきた。振りきろうとする鷹村さんと追い縋る清水律がズカズカと教室に入ってきて、一気に騒がしくなる。一体何事よ。
「そうよ清水さん、他クラスへ勝手に入って騒ぐのは良くないと思うの。鷹村君も。二年生の皆様お騒がせして申し訳ありません」
更に三年の一条雅まで入ってきたことで、教室にいた生徒が一気にざわめく。皆一様に突然訪れた異邦人を、特に一条雅の方をちらちら見ながら近くにいる者と囁き始める。「雅先輩だ」「マジか。こんな近くで見たの俺初めてだ」「可愛い」あ。そういうこと。人気者ってヤツなのね。
「藤堂さん!」
「何でしょう?」
面倒事にわたしを巻き込むなという圧を込めて笑顔を返してやる。だが鷹村さんはめげない。ちっ。
「悪いがさっさとクリアしてくれないか。今のままだと俺は何もできん」
「それは鷹村さんが可愛い彼女達の魅力にやられてしまったんですから、仕方ないんじゃないでしょうか」
鷹村さんの腰に抱きついた清水律をちらりと見て言ってやる。攻略……陥落相手は一条雅の方かもしれないけど。
鷹村さんが腰に回り込んだ腕を無理矢理剥がした。
「あん。もう鷹村ってば」
「藤堂さん、俺が不甲斐ないのはわかってる。頼むからどうにかしてくれ。このままじゃサポーターを交えて相談することも、サポートキャラへの調査依頼もできない」
そうなのよね。鷹村さんとわたしを交互に見ながら所在なさげに佇む紗枝ちゃんを見ると、その視線に鷹村さんが気付いた。
「ああ。藤堂さんのサポートキャラか。何を調べていたんだ?」
わたしは溜め息を吐く。これ以上ここで騒いで注目を集めるのは嬉しくないし、仕方ない。
「鷹村さんご執心の一年生について調べてもらってたんですよ。後で話しますから、仕切り直しませんか」
「ああ。ありがとう。俺も美琴の足取りを調査しているが、中々掴めないでいるから助かるよ」
仕切り直しと言っているのに、構わず鷹村さんは近付いてきてわたしの両腕を取った。ん?
「藤堂さんがいてくれて良かった。やっぱり俺には藤堂さんが必要だ」
鷹村さんが熱っぽい瞳と声でわたしを覗き込んでくる。清水律が不満気な表情になり、一条雅は顔を強張らせた。一体どういう意図だと問い掛ける視線に気付いているだろうに、それを無視し、鷹村さんは今度は両手をするりとわたしの腰に回した。
「ちょっと──」
「藤堂」
様子見のわたしに代わり声を上げたのは清水律と──そして今まで身動ぎを一切せず着席していたはずの、クラスメイトの立木悠生。彼がわたしの左腕を後方に引いたため、わたしと鷹村さんの間に空間ができる。
鷹村さんと清水律、そして一条雅を含めた全ての視線が集中する中、それらを全く意にもかけないいつもの表情で、悠生はわたしを見た。
「一年の木村が、正門であんたを待っている」
「えっ!? セオが?」
何でそんなことを知っているのだろうという疑問が頭をよぎったが、高坂美琴のことを調べるにしても攻略を進めるにしても、ここでセオに接触しておくのは悪いことではない。それにこれ以上ここにいるのも正直面倒臭い。
わたしは鷹村さんに向き直った。
「ということで鷹村さん、わたし行くんで何かあればまたの機会に。では。──悠生もありがと」
「……ああ」
「また、な。藤堂さん」
悠生の横顔と笑みを浮かべた鷹村さんの顔を順繰りに見ると、わたしはクラス中の視線から逃げるように小走りで教室を出た。
あまり顔色の良くない少女の様子が少しだけ気になったが、すぐに視界から外れて見えなくなった。
「セオ!」
「まどか!?」
正門の少し先の道で左右に目を向けていたセオを見かけた時、わたしは大きな声をあげた。彼の反応ですぐにわかった。セオはわたしを待っていた訳ではない。
彼の元に駆け寄ると、少し驚いた表情のセオが立ち止まって迎えてくれた。
「今帰りなんだね、まどか。遅くなると危ないから早く帰った方がいい」
「セオはまだ部活の時間よね。何をしているの?」
セオが目元を緩める。でもその前に一瞬、彼の視線が左右に揺れたのにわたしは気付く。
「知り合いを見かけたんだ。久しぶりだから声をかけようとしたけど、見失っちゃった」
「知り合い?」
過去にセオの口から出てきた人達のことを思い出す。セオの知り合いで、セオがここまで感情を揺らす相手がいただろうか。少なくともわたしが聞いた中にはいない。
そう。彼の顔はかつて見たことがないくらい青白く、陰鬱だった。
「セオ、ねえ貴方──」
「まどか」
珍しく、強い口調で彼がわたしの言葉を遮った。正面にある彼の顔の中で、ただ眼の色だけが闇に潜む狼の眼差しのようにぎらついている。
「お願いだから今日はまっすぐ家に帰って。できればユウセーか、リヒトと一緒に。必ず家まで送ってもらって。無理ならカガミに声をかけて」
「どういうこと? セオ、貴方一体何を気にしてるの?」
ほぼ同じ高さにあるセオの瞳を覗き込むと、彼は強張った青白い顔をくしゃりと歪め、どこか困ったような、拒絶を感じさせる奇妙な笑顔を見せた。
「セオ!」
「お願いだ、まどか。僕はまどかだけは──」
「セオ!!」
「ばいばいまどか」
彼が身を引く。わたしの手が宙を掻く。
駆け出すセオの背中をわたしの声が追う。
わたしの声は届かない。彼は止まらない。
わたしは彼を止められない。
それがわたしがセオの姿を見た、最後となった。