13話
「理人兄、だーいすき」
小さな音を立て、温かく柔らかい唇が右頬から離れる。
胸にすっぽりと収まった小さな体から、花のような香りが広がる。
「わたし、早く大人になりたかったんだ。理人兄に意識してほしかった。理人兄は一条先輩や他の大人っぽい人を見てばかりだったから、不安で焦ってたんだと思う」
美琴が俺の胸に、動物のように頬を擦り寄せる。
「だからあんなコトもしたけれど……理人兄がちゃんと止めてくれたから、わたしは留まれた。あのままだったら……ううん、理人兄のお陰だよ。ありがと」
エンディングでNPCが自分語りを始める所は、推理物のラストで犯人が動機やトリックを解説するのと似ているなと、ふと思う。目の前の情景に集中しきれないのは、これが自分の望んだ物ではないせいか。
「理人兄……」
美琴が俺を見上げ目を閉じた。白い頬がうっすら色付き愛らしい。俺は乞われるまま彼女の後頭部に手をやり、そのまましばし手触りの良い髪を弄んだ。
「……理人兄?」
いつまでも唇に触れないことに不審に思ったのだろう。美琴が目を開ける、と同時に教室の扉が軽く鳴らされた。
「鷹村さん、良いですか」
「……ああ。ナイスタイミングだ藤堂さん、入ってくれ」
扉が開いて藤堂さんが入ってくると、大きく体を震わせた美琴が、益々強い力で俺にしがみついてきた。
藤堂さんは感情の読めない無表情でそれを見てから、周囲を見渡す。
「まだしばらくこの高坂美琴との時間がありそうですけど、わたし出てなくて大丈夫ですか」
「問題ない」
「理人兄……? なに……」
俺は戸惑う美琴を体から引き剥がし、低い位置にある顔を覗きこんだ。
不安に染まった白い頬、癖のある柔らかい前髪から覗く大きく見開かれた瞳。それらを見て、ああやっぱりと俺は思う。
「美琴、悪いが俺はお前を女として好きになれない。俺にとってお前は一番身近な攻略対象であり、ただそれだけなんだ」
美琴の瞳が零れそうな程大きく見開かれ、唇がわななく。
「え……うそ。だって……」
「そうだな。お前には初耳かもしれない。だが俺は今までも、そして今回も何度も態度に出し、口にもしてきた。それを悉く無視して追い掛けてきたのはお前の方だ。まさかわからなかった訳ではないだろう? 俺が絆されたとでも思ったのか? それとも俺の気持ちなんてどうでも良かったのか。もしそうならそれは恋に恋するお子様と同じだ」
酷いことを言っている自覚はあった。だが俺の口は止まらない。傷付けて、傷付けた末に自らに返ってくるものをひたすら求める。彼女の想いが、反応が、傷付けた分だけ確かになるとでも言うように。
掴んだ腕は力を込めたらぽきんと折れてしまいそうに、儚い。
「理人兄……だって理人兄はわたしのこと好きって……!」
「そうだな。嘘じゃない。だから今この状況がある。ただ恋だ愛だの感情じゃない。俺は一度でもお前に対する気持ちがそういうものだと言った覚えはない」
なのに未琴は俺を追い求める。毎回変わらず。俺がどんなことをしようとも。
「うそ……嘘だ……」
涙目になった美琴が首を振って後退り、顔を伏せてしまう。彼女の顔が見えなくなったことで俺は少し冷静になり、顔を上げて辺りを見渡した。
周囲の色が、薄く透け始めていた。
「藤堂さん、もういい。戻ろう」
壁に背を預けて無表情で見物していた藤堂さんが、軽く首を傾げる。
「別れの挨拶はお済みですか?」
「もういい。何をしたって、どうせまた出会って同じことの繰り返しだ。さっさと終わらせて本当の世界に戻りたい」
吐き捨てた言葉を顧みもせず、美琴の脇を抜けて藤堂さんを促す。頷き教室を出ようとした彼女の背に追い縋るように伸びる白い手。反射的にそれを掴む。
「アンタなに!? 理人兄を勝手に連れてくなッ!!」
俺に腕を取られ暴れる美琴が、酷くしゃがれた罵声をあげた。
藤堂さんはちらりと視線だけで振り返ったが、その姿はすぐに薄くなり消えた。
「えっ!? 消え ──ッヤダ待って理人兄! イヤ! イヤだ! ねえどこ行っちゃうの!?」
藤堂さんの後に続こうとしていた俺は、混乱で真っ青になった美琴を見下ろす。
必死な表情で見上げてくるその姿は既に向こう側が見えるくらいに色が失われ、ただ頬を流れる雫が透明な彼女を彩っている。
「悪いな美琴、俺はお前の元に留まっていられない。俺はさっさとこの茶番じみた虚構を終わらせて、真実と向き合わないとならないんだ」
「真実!? ナニそれ何で!? 嫌だ嫌だイヤイヤイヤ! どこへも行かないでここにいてわたしを置いていかないで──!」
光を纏う小さな少女が泣き叫ぶ。
胸が張り裂けるような悲鳴が俺の背を打つ。
「理人兄ッ!! イヤ────────!!」
俺はちりりとした胸の痛みを無視し、教室を後にした。
甲高い悲鳴はやがて細く消える。
やがて自らの足元すら薄く消えて見えなくなる。
全てがゼロになるまであと少し。
※ ※ ※
「理人兄、おっはよー♪ ぼーっとしてると遅刻しちゃうよ!」
朝玄関を開けると、見慣れた満面の笑顔に出迎えられた。
波打つ栗色の髪、猫のように煌めく瞳、白い肌に紅潮した頬、チャコールグレイのブレザー、いつも通りの高坂美琴だ。変わった所は何一つない。
「理人兄、どうしたの? 寝不足?」
「……いや。行くか」
彼女の中にあるべき何かを探す自分に気付き苦笑する。一体何を期待したのやら。
家の鍵をがちゃりと閉める。そして何度目かの『初日』が始まる。
「藤堂さん、おはよう」
学校に近付くと、いつも通りの場所で藤堂さんの姿を捉えた。ゆっくりと振り向いた彼女が、俺の左側に寄り添う少女をちらりと見て笑った。
「おはようございます鷹村さん。……お変わりないようですね」
藤堂さんらしくない陰のある笑い方だ。細く長い睫毛が伏せられるのを、透明なレンズ越しに見る。俺の視線に気付いた藤堂さんが眼鏡を白い指先で押し上げた。
「鷹村さんも眼鏡を装備しますか? ここでは視力関係ないですが、気分転換になるかもしれませんよ」
「そういえば自宅にあった気がするが、俺はしようとも思わなかったな。アイテムというのはどんなゲームでも重要な役割を持つことが多いから慎重を期したんだが、杞憂だったか」
俺の言葉を聞いた藤堂さんが、虚を衝かれたかのように目を瞬いた。
「どうした?」
「いえ。わたしにとって眼鏡をかけるという行為があまりにも自然で、アイテムだという視点がありませんでした。そうですね。既定回数使うと壊れるとか、何らかの呪いがかかっているという可能性を考慮するべきでした」
「相変わらずのRPG脳で感心するが、流石にこの世界観で呪いという非科学的な効果はないんじゃないか」
「でもいくら初期装備とは言え、外せる以上事前にアイテムの鑑定をするのは基本中の基本でした。わたしとしたことが……初歩的ミスしちゃいましたね」
「……ここはRPG世界じゃないんだから、鑑定する必要なんてないだろう」
「どちらかと言うと、考えうるあらゆるパターンを想定するのってそちらの得意分野ですよね?」
「ありもしないことを空想するのはミステリーじゃなくてファンタジーだ」
「可能性は限定しない方が──」
「りっ君~、早く行こうよ。遅刻するよ」
突如会話に割り込んできた高い声に、藤堂さんが目を丸くして立ち止まり──そしてくすりと笑った。
「そうですね。そろそろ急ぎましょうか、りっくん」
※ ※ ※
「鷹村さん、三日目お疲れ様です」
「ああ。お疲れ様」
「ダイブ慣れしてきて、長時間を中で過ごせるようになってきましたね」
「同時に周回頻度も減って、エンディング網羅がしづらくなってきたがな」
「仕方ないですよ。そういえばこの間の周回の時、鷹村さん高坂美琴と何か話してました? 振り向いたら教室に鷹村さんが残っているのが見えたんですが、何話しているのか聞こえないまま消えちゃったんで」
「大したことじゃない。ああ、周回時の会話はタイミングに注意しろよ。言った言ってないが起きやすくなるからな。周回順もそうだが、感覚の遮断と切替はかなりセンシティブな規定に……もちろん覚えているよな?」
「当っ然じゃないですか。人は受容体から受ける外部刺激の大部分を視覚に頼っている。よって視覚の切替は少しずつ、他感覚の切替が完了してから実施すべきである。また複数人の……」
「ああいい。少し不安になっただけだすまない」
「鷹村さんの記憶とわたしのそれと、どちらに対してですか?」
「すまない」
「──まあいいですけどね。とにかくさっさとエンディングクリアして終わらせましょう」
「そうだな」
突然だが、学生生活と言ったら何を思い浮かべるだろうか? 部活動? 無難だな。試験? 確かに学生の本分だ。恋愛? まあこのゲームのメインだからな。
この【私立KK学園ラブライフ】では、プレイヤーを飽きさせないためか様々なイベントがランダムに発生する。部活の全国大会だったり、試験勉強、調理実習やサマーキャンプまで各種存在するらしい。
規模の大小は様々だが、どうやら今回は比較的大きなイベントが発生したようだ。
『第37回KK秋桜祭』
ピンクや黄色の紙花で飾られた紅白の門を見上げ、俺は腰に手をやった。ここ数日間クラスで準備に追われていた学園祭の本番が来たのだ。
校内からは軽快な音楽が流れてきており、制服姿の生徒達だけでなく、一般客もまた次々と門をくぐっていく。
メインの攻略の方は、今周も順調だ。最初の頃より好感度が随分上げやすくなったと思う。慣れたのか、それともまだ見えていない別の要因があるのか気になる所だ。
俺は薄く笑った。とにもかくにも、リアルでは味わえないこのイベントを今は楽しむのもいいだろう。
私立KK学園秋桜祭、初日スタートだ。