12話
「あれ悠生」
セオ攻略前の腹ごしらえをしに食堂へ行くと、窓際の四人掛けのテーブルに悠生が無造作に座っていた。ちょうど良いので同じテーブルに泣田紗枝と二人で陣取ると、鋭い瞳がちらりとこちらを見た、が特に何も言われなかったので良いのだろう。
「円架ちゃん、私ご飯取ってくるね。先に食べてて!」
「うん。わかった。慌てて転ばないようにね」
「大丈夫!」
小走りにカウンターへ向かう紗枝の背に手を振ると、わたしはいそいそとお弁当を広げた。紗枝のために食堂へ来たけど、わたしはいつもお弁当持参なのだ。自宅の冷蔵庫にあった物を適当に使っただけの簡単なものだが、毎日食堂で食べるより経済的だ。お金は節約するに限る。いつどこでレアアイテム入手のチャンスがあるかわからないのだから。
「あれ。悠生食べ終わったんじゃないの?」
いつの間にか机にへばりついた彼を見て言うと、空いた皿に齧りつきそうな表情で彼は唸った。
「足りない。でも今月カネねえ」
悠生の前に置かれたトレイを見る。定食をきれいに食べきっている。というかもしかしたら大盛にした可能性すらある。まあ育ち盛りでこの体格ならさもありなん。
ふむふむと頷きながら唐揚げに齧りつくと、横からめちゃくちゃ視線を感じた。食べにくい。
「えーと。結局何か買うの?」
「無理だ」
「じゃあそろそろ戻ればどう?」
「腹減った」
「それだけ食べてまだ減ってるの!?」
悠生の表情が鬼気迫るようで怖い。何か肉食動物に狙われている気分になってきた。ってかさっきから「にく……誰か……メシ……」って呟いてるけど、カツアゲ相手を物色してるんじゃないわよね!?
溜め息をついたわたしは、食べかけの唐揚げを口に放り込むと、片手で弁当を指し示した。
「わたしの手作りで良かったら、食べる?」
その言葉が終わるか終わらない内に、悠生が機敏に体を起こした。あ。可愛い。
頭に不可視の獣耳がピンと立ったかのようなわかりやすい反応に気を取られていると、わたしの右手がふわりと温かいものに覆われた。次いで頬のすぐそばに日に焼けた悠生の横顔が近付き、わたしの右手ごと掴まれた箸が唐揚げをさらう。
握られた手はそのままで、小さな茶色が視界を移動すると、待ち構えた口が大きく赤を広げ、てらりと光る肉に齧り付いた。
長い睫毛、耳から頬、そして顎までくっきりとシャープに描かれた輪郭、全てが間近に感じられる距離からゆっくりと彼の顔が離れると、後には残り香だけがその場に残る。
……うわあ。不覚。
「うまい。さんきゅ」
「ッ悠生……って、両利き……だったんだね」
動揺して思い付いたことをそのまま口にしてしまう。心臓がうるさい。わたしとしたことが。ホント不覚。
もごもごと咀嚼した彼がこくりと頷いて答えた。
「右の方がうまく使えんだ。左は……昔怪我してからあまり。力技専門」
言いながらも視線はお弁当箱から離れていない。うん。わかった。言いたいことはよーくわかったから、まずこの手を離しなさい!
「他の物も食べていいわよ。箸もそのまま使っていいから」
諦めて箸を持つ手を緩めると、かさついた大きな手からするりとわたしの手が抜ける。
「いいのか? あんたは」
「お腹すいてないから大丈夫。ご飯半分もあれば充分よ」
彼の視線が一度お弁当とわたしの間を往復した。ひらひらと手を振って促してやると、頷いた彼は物凄い勢いで食べ始めた。あーらら。ピンと立った尻尾まで見えそうだわ。
わたしは再び溜め息をついた。
実はプレイヤーは空腹を感じない。ただ以前試しに昼を食べずにいたら、体が動かしにくくなったりテストの難易度が上がった気がしたため、いざという時のためにも必ず昼食は食べるようにしている。
つらつらと考えていると、ふいに目と鼻の先に赤い粒が現れた。
「えっ? ミニトマト嫌いなら──ぁわっ! もごっ!?」
話している途中で口の中にトマトが押し込まれる。冷たい感触が舌に触れるとすぐに、わたしの口内から太い二本の指がずるりと抜けた。それらが唇を抜ける一瞬、ぞわりと背筋が震える。
ゆっくりと横に逸れるそれらを追うように目を隣に向けると、少しだけ驚いたような表情の悠生がまじまじとわたしを見詰めていた。
視線が、その濡れた指に吸い寄せられてしまう。
「あんたのなんだから、あんたも食えよと思った、んだけど……」
戸惑ったように言い淀んだ彼は、鋭い目許を弛めて珍しく笑むと二本の指をぺろりと舐めた。
「悪ぃ。あんたでも、動揺することあんだな」
『プレイヤー藤堂円架、陥落しました』
失敗した。プレイヤーにしか聞こえないアナウンスを耳にした瞬間、わたしは臍を噛んだ。
セオとのラブエンドを狙っていたのに、悠生に落とされてしまった。何度も言うけどホント不覚としか言いようがない。
悠生の好感度は普通に絡んでいると上がっていくのでそれなりにあった気がするが、勿論百には到達していない、はずだ。その場合悠生とノーマルか友達エンドになるのか……全くわからない。
わたしの困惑をよそに、日常は目の前を過ぎ去っていく。紗枝ちゃんが戻り、悠生が去り、昼休みが終わって午後の授業がスタートする。鷹村さんはまだ今周終わっていないようだから、今はエクストラモードということだろうか。
「よーし。授業は終わりだ」
「円架ちゃん、さっきね」
「ごめん紗枝ちゃん、わたしちょっと用事があるの」
授業が終わると同時にやってきた紗枝ちゃんを押し留め、鞄で揺れるうりちゃんと通信機器をポケットに突っ込み席を立つ。状況がわからない時は、サポーターに聞くしかないだろう。ちらりと悠生の席を見ると、思いっきり目が合った。何となくお互いに目が離せなくて見詰めあう。
ふっと悠生が空気を揺るがせ笑った。
「きゃあ! ねえ円架ちゃん今──」
「じゃあね紗枝ちゃん! 行ってくるから!」
紗枝ちゃんの黄色い声を遮り、悠生の視線を振り切ってわたしは教室を飛び出した。
わたしは大人! 彼らは子供! しかも相手はNPC! この子達相手に青々しいことなんてできるかッ!
「まどか」
「……セオ」
空き教室に入ろうとしたタイミングで背後から声を掛けられ、反射的に体が震えてしまった。タイミング悪い時はとことんまで悪いのはどうしてだろう。
溜息を飲み込んで振り向くと、白い肌のセオが柱の陰で静かに立っていた。プレイヤー以外の人がいてはサポーターと会話ができないので、今このタイミングでの会遇は正直あまり嬉しくない。しかも今どういう関係性になっているのかわからない相手だと尚更。
「どうしたのまどか。そこは空き教室だよ」
「知ってる。ちょっと一人でやりたいことがあるの。じゃあねセオ」
追及しづらい適当な言い訳をさらりと投げて教室に滑り込み、扉を閉めようとしたが、背後のセオが一緒に室内に滑り込んだのに気付いた。え。躱しきれてない?
「セオ? どうしたの?」
「ごめんねまどか。僕もまどかに大切な用事があるんだ。いい?」
扉に手をかけたセオが正面から尋ねてくる。セオらしくない強引さではあるものの、きちんとここで確認を取ってくる所は紳士的な彼らしい。断ることもできず曖昧に頷くと、肯定と捉えたセオが微笑んで扉を閉めた。
がしゃん。廊下のざわめきが遮断され、しんとした空気が教室に流れる。
「それで、話って?」
「うん……」
セオがふらりと机の合間を縫って歩き出した。その表情はどこか茫洋としていて、やはりらしくない。どこからともなくじわりと不安が湧き上がってくる。
「セオ?」
「まどか、これ君のだよね」
前触れなく差し出されたライトコーラルのそれは、確かにわたしの通信端末だった。セオの掌から零れたストラップのうりちゃんがぷらんと揺れる。
「そう、わたしのよ。どこで落としたのかしら。セオが拾ってくれたの?」
「うん。カガミに拾われなくて良かったね。気を付けて」
「確かに。どんな言い訳しても『校内で落とすような事態になった時点でダメですねー』って有無を言わさずペナルティ食らいそう。ありがとう」
彼は薄く笑った。増した違和感にわたしは眉を顰める。
「ねえセオ、大丈夫? 何かあったの?」
「ううん。変わったことなんてない。いつもと同じだよまどか」
「でもセオ何か変よ」
「そう?」
「うん。何か……どこか無理しているように見える」
セオはいつも笑顔だ。秋月遼とは違う、人を安心させる笑顔。なのに今はそれがない。できなくなるような何かが彼にあったんだろう。
彼が立ち止まってわたしを見た。澄んだヘーゼルアイがわたしの姿を映す。
彼の瞳をずっと見詰めていると吸い込まれそうになる。そのままくらりと眩暈を感じる直前くらいに彼は目を細めて微笑んだ。
「まどかは凄いね。僕のことがわかるんだ?」
そりゃあ、攻略のために何度も貴方とコミュニケーションを取りましたから、とは言えない。好感度を最大まで上げるために今周一番セオと会話したが、それ以外のセオとも他愛もない会話を沢山してきている。
「あのね。見てれば誰だってわかるわよ? 貴方の友達だって貴方がいつも他人のことを考える優しい人だってわかってる。貴方は人を見て、人のことを本当に考えて行動している。決して考えなしだったり自分本位で行動しない。だからこそ──」
「今の僕の行動が、自分本意でらしくないって?」
やっぱりおかしい。普段のセオならこんな風に人の言葉を悪い方向に先取りしようとしない。歪めた笑顔は、どこか泣きそうな表情で。
「自分本意が悪い訳じゃない。ただセオらしくない」
「……まどかは厳しいな」
「そう? かもね。でもセオが心配なのよ?」
「うん。わかってる。まどかはちゃんと僕のコト考えてくれてる。裏表がなくて、いつもストレートだ」
「誉め言葉じゃないわよね」
「僕は誉めてるよ? いつも言ってるでしょ。まどかは素直でまっすぐ。でも少し頑固でとっても照れ屋。だから可愛い所は自分で隠そうとするし、時には今みたいにはぐらかしちゃう。僕はそんなまどかの魅力にいつもドキドキする」
うん。安定のセオ節で少し安心した。でもやめてくださいお願いします。
「ふふ。照れると反射的に混ぜ返そうとする所、可愛いなっていつも思ってた。……でもそう思うのは僕だけじゃない。まどかの虜になるのは僕だけじゃないんだ」
「あのね。それは買いかぶりすぎと言うかちょっと視野偏狭よセオ」
もちろん恋愛ゲームである以上、プレイヤーがある程度好かれるのは仕様だ。そしてわたしもテストプレイヤーであるからには、その役目を全うする。それ以上でも以下でもない。
「まどかこそわかってない。だから僕は……」
「セオ?」
「ねえまどか、君に変われなんて言わない。君はそのままでいいから、ただ僕だけを見ていて? 僕といる時だけでいい。僕といる時だけは、他の誰にも目をくれず、僕にだけ笑顔を見せると約束してくれれば、僕もきっと……」
セオの声音に何かが混ざる。突然飛躍した言葉にわたしは軽く混乱する。
リアリストの彼らしくない唐突で非現実的な願い。わたしは何故こんな台詞が彼から出てきたのか考える。
何故? 何が起こっているの? 隠れた何かがきっとあるはず。
だっていつもの彼なら自分の言っていることの空虚さに気付くはず。そもそもこんなことを言わない。
「セオ、それは無理だって貴方もわかってるはず。わたしと貴方は二人きりの世界にいる訳じゃない。わかってて貴方は無理な願いを口にしている。何故? 貴方の本当の願いは何?」
「そうだね。わかってる。わかってるよまどか。僕の言っていることは非現実的だ」
ああ。こんな言い方じゃダメ。これじゃセオの心に響かない。攻略に繋がる選択肢じゃない。
「セオ──」
「これだけは信じて。僕はまどかがとても大切。まどかを守りたい。まどかの傍で君と笑いあえることが僕の幸せ。けれど──けれど僕はまどかを傷つける。そんなのは嫌だ。僕の願いは本当なのに、膨れ上がった僕の気持ちが邪魔をする。ねえまどか、どうしよう? 僕の気持ちが勝手に育つ。大きくなって自分でも止められない。ねえまどか、このままだと僕はなりたくない僕になる。まどか助けて。どうしたらいいか僕に教えて」
「セオ、何があったの? わたしが傷つくってどういうこと?」
「だってまどか。僕の願いは───……いや。そうじゃない。そうでなくて君は……ねえ君は、僕のことを置いて、どこかへ行ってしまうでしょう?」
周りの空気が固まった、気がした。呼吸をするのが突然難しくなる。
わたしはあくまでここでの話をしていたはずだ。ここ、ゲームの世界で攻略対象相手として。
それが突然無理やり横から自分の見知った場所に引きずり出された気がした。
何故傷付かない場所に立っているの? 君の本当に立つべき所はここでしょう? と。
いえ、そんなはずがない。彼がわたしと同じ物を見れるはずがない。
ごくりと喉を鳴らしてからわたしは努めて目元と口元を緩める。
「──何を言ってるの?」
セオが薄く笑う。
「ダメだよまどか。僕がどれだけまどかのことを見ていると思ってるの? まどかの一瞬の戸惑い、動揺を隠すために作ったきれいな表情、平静を装う声、全部わかっちゃう。わかっちゃうんだ……だから、そうだね。僕は今聞いちゃいけない問いかけをした。ゴメンまどか」
「セオ、待って」
間違えた。わたしは今確実に間違えた。
「でもね。僕と一緒にいる間だけでも、僕だけを見てくれるなら騙されてもいいかなと思ったんだ。ねえまどかは悠生が好き? 僕には見せないキュートな顔をする。それとも理人? 彼といる時のまどかはとてもナチュラルだ」
「ねえセオ、話を聞いて。わたしの目を見て」
「ふふふ。まどか何を焦ってるの? 可愛い」
目の前にいるはずなのに、セオの瞳にわたしが映らない。作り物だとわかっているのにそれが酷く怖い。寒気がする。
無邪気な笑顔を浮かべたセオがわたしの首筋に手を這わせ、そして頬に顔を寄せる。わたしがあげた矢羽模様のミサンガが視界の端で揺れる。ラブエンドに必要なミサンガ。生暖かい吐息が耳をくすぐる。
「いいんだ、大丈夫。僕は何も望まない。まどかが誰に心を開いても、僕はずっと傍にいる。いさせて。まどかの笑顔、怒った顔、焦った顔、照れた顔、そう作り笑顔だって僕は愛しい。それをただ見ているだけでいいんだ」
よくわからない焦りに押され、わたしは口先だけで言葉を紡ぐ。
「セオ、待って。わたしを無視しないで。わたしの話を聞いて。今目の前にいるわたしを拒絶しないで」
「──じゃあどうしたらいいのッ!?」
わたしの築いた薄っぺらい防壁を壊すように、顔を上げたセオが悲鳴をあげる。
「まどかの傍にいたい。まどかの気持ちが他へ行っちゃう所は見たくない。まどかの姿が見えなくなるのはもっと耐えられない! でも見てたらわかっちゃう。まどかの心が、気持ちの動きが、ここではないどこかへ帰ることすらッ! 全部ぜんぶぜんぶわかっちゃうんだ! わかってしまったら僕は何するかわかんない……違う違う嘘だ! 何をするかわかる! だって僕は! 僕は自分が何をするか知っている! だから──きっと、まどかにも」
胸にすがり付いたセオが、泣き濡れた瞳でわたしを見上げる。
「僕はまどかを傷つけたくない。だから僕は手の届く所にいちゃいけない。壁の向こうで、決して手を出せない遠い場所で、ただ見てるのが一番いいんだ……」
何も言えないわたしを抱き締め、セオが嗚咽を漏らす。
彼の吐息で胸が熱い。彼の慟哭で体が震える。それとも震えているのはわたし? 違う。ありえない。そんなはずがない。
「でも、ツラいよ。心がキシキシ痛むよ。まどか助けて。お願いだ……まどか」
震える栗色の髪を視界に収め痛い程の包容を受けながら、わたしは唇からこぼれそうな何かを必死に飲み込む。
ごめんなさいなんて言葉は意味がない。きらきら飾り付けた温かい虚構こそが必要なのに。
何を言うのが正解?
わたしの唇が思うように動かないのは何故?
これはNPC。これはゲーム。これは今この時だけ展開される、プログラムされたワンシーン。
リセットされてまたゼロに戻る、形だけの虚構。
わたしは、プレイヤー。
わたしは、綺麗な言葉を紡いで虚構の世界を楽しむ存在。
わたしが、本当の意味で心を揺らすことはない。
だからほら。目の前の彼を抱き締めてあげればいい。そして望む言葉を奏でてあげればいい。
それができないのは、ただわたしがこの状況に戸惑っているからで。
何となく痛くて苦しい気がするのは、そう、精巧なプログラムに引きずられた錯覚で。
そう。この苦いのは、きっと。