みらい坂
盛夏の候、未来のあなたは何をしていますか―――
雑木林にて蝉が大合唱をしている林道を、汗を額に滲ませながら二人の少年少女が歩いて行く。
「暑いね、ちょっと休もうよ」
「まだまだ。あと少しで目的地だ」
少女が駄々をこねるのを少年が諫める。
林道を進んでいくと、林道沿いの雑木林の一か所が開けているところを見つけた。
その間を縫うかのように伸びている細い坂道の下には、
少年の兄が見つけたという廃屋を確認することができた。
「あれだ、未来!あれが兄貴の言っていた秘密基地だよ」
少年は興奮しながら、林道から坂道を駆け下りていき、少女はその後姿を追った。
「太一、大丈夫なの?誰かいるんじゃない?」
「大丈夫大丈夫。兄貴が誰もいないって言ってたもん」
少年少女が坂道を下りて廃屋の周りをぐるっと回った。
外壁のトタンはボロボロに錆びているものの、中を確認できるほどの穴は開いておらず、
凡そ建物としての基本形は保っているように見えた。
「入口の鍵は掛かっていないようだね、兄貴が言うとおりだ」
「ねぇ、やっぱりやめない?なんか怖いよ」
「ビビってんのか未来?ここで帰ってもいいんだぜ」
「そんな、ひどいよ太一」
半泣きである少女を他所に、少年は廃屋の扉のドアノブに手を掛ける。
外気と切り離されているのか、ドアノブは恐ろしく冷たく、
背筋に虫が這うような得も言えぬ悪寒が走った。
少女へ恐怖を悟られないよう、少年は一気に廃屋の扉を開いた。
廃屋の中から少年少女へ向けて、包み込むような乾いた冷気が押し寄せる。
少女は少年へ身をより寄せ、少年は思わず目を瞑ってしまう。
「なに…これ」
少女の絶句に少年は恐る恐る目を開くと、廃屋の中には大量の大人向け雑誌が散乱していた。
「太一、こんなのを見に来たかったの?呆れちゃう」
「ち、違うよ!俺はこんなのだと知らずに」
「もういい、着いてきた私が馬鹿だった!」
少女は一人、少年を残して坂道を登っていこうとする。
少年も少女を宥めながら後を追っていると、いつの間にか坂道の先に一人の男が立っていた。
『おい!寄り道せずにしっかりとその子を送り届けるんだぞ!絶対に途中で不貞腐れて帰るなよ!』
男は20代程であろうか、どこにでもいるような一般的な若者に見えた。
「だ、誰だよお前…」
『え、おい、なんで言うことを―――あれ、なんでこんな姿で…』
若者はしばらく一人で狼狽しているようであった。
「変な奴だな。…行こうぜ未来」
『む、無駄だ、今は時間が止まっている。俺たちが喋れる時間は1分ほどだ』
少年は若者が言っている言葉をすぐには理解できなかった。
しかし、未来の腕を掴もうとした自身の手が動かなかったことで、
嫌でもその言葉を理解することができた。
『いいか―――俺は未来の俺だ。10年後にまた必ずここに来い。また指示を出す』
「…どういうことだよ」
『お前は今日、未来ちゃんを家に送り届けるんだ。途中で帰るんじゃないぞ。10年後、忘れずにまたここに来い』
「…意味わかんないって」
『今日が1998年8月4日だろ…だから、2008年の8月4日か。時間の計算は苦手だ、とにかく―――』
刹那、坂道の先の若者は消えた。
「私、帰るからね!」
「え、未来。ちょ、ちょっと待ってよ!」
先ほどの若者は何だったのだろうか、少年は疑問を持ちながらも少女の後を追っていく。
「ついてこないで!変態!」
「ち、違うんだって!誤解だってば」
廃屋の中に何があるかは知らなかったし、誤解と言えば誤解である。
しかし、何より気になるのは先ほどの若者である。
『お前は今日、未来ちゃんを家に送り届けるんだ。途中で帰るんじゃないぞ。』
若者の言葉を反芻する。身の毛がよだつような感覚であった。
若者の言葉がなければ少年は少女を見限り、途中で自分の家に帰っていただろう。
結果、少年は少女の家まで少女を見送った。
最後まで少女からの罵倒は止まず、今すぐ帰りたいと少年は何度も思った。
少年はこれが正解なのか否か理解できなかった。
ひどく憔悴した気持ちで自身の家に帰宅した少年は、
ドッとリビングのソファに倒れこんだ。
「なんだ、彼女と喧嘩したのか?」
リビングのテレビでゲームをしていた少年の兄貴が少年に問いかける。
「そんなんじゃないよ。そんなんじゃないけど、疲れた」
「あっそ、冷凍庫にアイスあるよ」
「うん」
それから少年は泥のように眠りに落ちた。
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――――――――――――――サイレンの音が鳴り響く
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少年はゆっくりと、目を覚ました。
周りが騒がしい。
サイレンの主は、すぐ近くの道路に止まっているようであった。
「なんだよ…」
少年は目をこすりながら、ヨロヨロとリビングの窓へ近づいていく。
「殺人事件があったらしいぜ」
「え」
「詳しくは分からないけど、母さんが危ないから外に出るなってよ」
「すぐ近くなの?」
「あぁ、道路を挟んだ向こうの、あのアパートだよ。この辺の女子生徒が拉致されて犠牲になったとか何とか」
ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃に少年は襲われた。
もしもあの時、若者の言葉を聞いていなければ、どうなっていたのであろうか。
廃屋の中から吹いてきた冷気を、再度少年は感じた。
「あら、太一。起きてたのね、危ないから外に出ちゃダメよ」
「うん、知ってるよ母さん」
「…ところで、山川さんと遊んでいたんでしょう?ちゃんとご自宅まで送ってあげた?」
「うん、送ってあげたよ」
「それならいいんだけど、事件に巻き込まれた子も可愛そうよね。太一と同じぐらいの御歳だったらしいもの」
少年は坂道の上の若者に感謝しつつ、廃屋であったことを母親には告げなかった。
きっと信じてもらえないし、また変なことを言うと泣いてしまうからだ。
「アイス、食べるね」
「あら、よく知ってるわね。どうぞお食べなさい」
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それからは平穏な日々が続いた。
少年少女も青年となり、この事件のことも世間からは忘れ去られつつあった。
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太一は大学生となっていた。
自宅から県内の大学へ通うごくごく一般的な若者。
そんな太一のひと夏の思い出の中に、どうしても忘れられないことがあった。
『いいか、俺は未来の俺だ。10年後にまた必ずここに来い。また指示を出す』
また指示を出すとは、どういうことなのだろうか。
あの若者が俺だったとすれば、今の俺が過去の俺へ指示を出すというのか。
ふと思い出し、事件の日付を調べる。
―――1998年8月4日
ちょうど10年前の今日である。
なぜこの日に事件のことを思い出したかは分からないが、
運命と言えばよいのか、何かが太一を突き動かしたのである。
「夏休みだし、行ってみるか」
未来も呼ぼうかと一瞬迷ったが、彼女は免許合宿へ行っていることを思い出し、思い止まった。
何より、毎日電話もしているし、彼女はあの若者の言葉を聞いていない、はず。
呼び寄せたところで何のことか分からないだろう。
「ちょっと出掛けるね」
「あら、行ってらっしゃい。夏休みなのに大学?」
「いや、違うけど、ちょっとね。すぐ帰ってくるよ」
「行ってらっしゃい。車に気を付けるのよ」
家の扉を開け放ち外に出ると、容赦のない太陽の照りが太一を襲った。
帽子を目深に被り、自転車に乗って廃屋へ続く林道へ向かった。
林道へ着くと、蝉の大合唱が太一を迎えてくれた。
あの頃と変わらぬ林道のままであった。
林道への入り口に自転車を置き、太一は一人林道を進んでいった。
少し行くと、廃屋へ続く細い坂道を見つけた。
子供の頃は坂道へたどり着くまでに汗だくになっていたが、
大人になった今では大した距離ではなかったと痛感させられた。
太一は坂道を慎重に降りて行った。
坂道の先には、太一の記憶を再現するかのように廃屋が建っていた。
「懐かしいな、この中に入って未来にすごく怒られたっけ」
太一は廃屋の扉のドアノブに手を掛ける。
何とも言えぬ、ほんのり温かい感触が手から全身へと伝わった。
最初に触った時は、悪寒を感じるほどであったのに。
太一は廃屋の扉を開けた。
どこか懐かしく、温かく包まれるような空気が廃屋の中から流れてきた。
あの時の雑誌は誰かが持ち出したのであろうか、廃屋の中は空っぽであった。
太一は廃屋の中へ足を入れる。
以前に来たときは未来が怒っていたため、廃屋の中までは確認できなかった。
廃屋の中は、外気と遮断されたかのように涼しく、居心地がよかった。
内壁も綺麗に保たれており、外壁のトタンの錆が嘘のようである。
「ん、なんだこれ」
廃屋の外からは分からなかったが、廃屋の入り口側の壁に、一つの黒いショルダーバックが掛かっていた。
ひどく劣化しており、所々には生地よりもどす黒い染みができていた。
太一が調べようか調べまいか戸惑っていた最中、外で物音が聞こえた。
咄嗟に太一は身を屈める。廃屋であろうと不法侵入には変わりないと考えたからだ。
「この辺で森林整備の区画は終わりですかね」
「そうですね、林道の入り口までは整備できたので、最後はこの辺りです」
「前に事故や地滑りが起きてますからね。形だけでも整備をせんとまた叩かれちゃうんですよ」
「お役所は大変ですね」
「全くもって。ちなみに計画の進み具合はどのようでしょう」
「林野庁と調整中でして、おおよそ10年後には完成するかと思いますが、詳しくは事務所で」
廃屋の中から覗き見た男たちは、スーツに作業着を身に纏っていた。
林道の入り口も整備され始めていたのか、太一はそう悟った。
そうこうしているうちに、スーツに作業着を身に纏う男たちは再び雑木林の中に消えていった。
「ここも、なくなるのか」
太一はなぜか寂しい気持ちに襲われた。
それがひと夏の思い出が無くなるからであるかは分からなかった。
気が付くと、あの黒いショルダーバックは消えていた。
太一は周囲に人がいないことを確認して、廃屋を出た。
一呼吸置き、以前、若者と出会った坂道を向いた。
坂道の先には、若干白髪が混じった壮年の男性が立っていた。
『よう、約束を破らず、ちゃんと来てくれたな』
「お前が呼んだんだろ?なんで今日に限ってあの事件のことを思い出したのか」
『そう言うなよ、寂しいだろ。あと、今回の指示なんだけど、未来ちゃん、気になる男を見つけるぜ』
「え、未来に限ってそんなことないだろ」
『いいや、免許合宿で笹井って男に猛アタックされるんだよ。当然、最初は断るんだけどな。
でも、合宿後も未来ちゃんが笹井に猛アタックされてることを、お前は適当にあしらっちまって、
結局未来ちゃんは笹井と付き合うことになるんだ』
「どうすれば阻止できるんだ」
『お前が一番分かってるだろ、気持ちを伝えろ』
「分かったよ。あと、本当にお前は未来の俺なのか?」
『どうだかな、当ててみろよ』
「未来の俺なら、10年後値上がりする銘柄とか有益な情報を教えてくれよ」
『そんなの教えられるわけないだろ、ほら、タイムパトロールとかがうるさいし』
「なんだそりゃ、信ぴょう性に欠けるな」
『ははっ――そろそろ1分だな、来てくれて、本当にありがとうな』
「なんだよ、改まって」
『感謝の気持ちだよ。まぁ、しかし、次が最後かもしれない』
「それはどういう――」
『俺を覚えていてほしい。あと、未来ちゃんと幸せにな』
壮年の男性は消えた。
以前と違い、穏やかな表情で、太一のことを見守るかのような眼差しであった。
その場で太一は未来へ電話をし、プロポーズをした。
免許合宿中の電話越しという何とも奇妙奇天烈なプロポーズに、
最初は未来も困惑したものの、涙しながらプロポーズを承諾した。
喜々と帰宅した太一は、プロポーズした旨を両親へ伝えた。
両親は大いに喜んでくれたとともに、今後の太一の生活について一緒に考えてくれた。
夜通し家族会議を行ったからか、両親は疲れたように寝室へ向かい、太一も一人リビングで項垂れていた。
「疲れたな、兄貴」
太一の独り言がリビングで残響する。
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太一は大学を卒業後、都内のとある企業に就職した。
未来も太一と同じく都内での就職だったことから、二人一緒に上京することとなった。
仕事と家庭に忙殺される中で、実家に帰るペースは減っていった。
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「お帰り、太一に未来さん。それに俊一君!」
数年ぶりに実家に帰ってきた。嫁の未来と息子の俊一、それに未来のお腹の中には二人目もいる。
なぜ今まで帰省しなかったのか、それはとある疑問を確かめるためでもあった。
「お袋、ただいま」
帰省の挨拶も早々に、太一は兄貴の部屋だった部屋へ向かう。
扉を開けると、部屋の中央には、笑顔を浮かべた兄貴の写真を飾っている仏壇が置かれていた。
―――兄貴は、俺がお腹にいる時に交通事故で死んでいる。
子供の頃、確かに、兄貴は俺の傍にいた。
しかし、そのことを母親に話すと、ひどく悲しい顔をし、時には泣き狂ってしまった。
いつしか、俺は、兄貴はいないものだと思い込んでいた。
あの事故の日の前後であろうか、二人っきりの時しか、兄貴とは話さなくなった。
大学生になる頃には、兄貴の姿はほぼ見なくなった。
上京してからは一回も見ていない。
仏壇の前に正座し、線香をあげ、兄貴の写真に向けて拝んだ。
未来をありがとう、子供をありがとう、俺の未来を拓いてくれてありがとう―――
仏壇の横には、当時交通事故にあった際の所持品であった、黒いショルダーバックが置かれている。
兄貴は事故の時、ガールフレンドを庇うように身を挺して守った。
その際に、車にショルダーバックが引っ掛かり、数十メートル引きずられたらしい。
折しも、あの廃屋への坂道がある林道でだ。
「お袋、あの林道、もう整備が終わっているのか」
「ええ、そろそろ終わるはずよ。俊太が轢かれて、人家には土砂崩れが起きて、あの道は呪われているわ」
事故の多かった林道は区画整理が行われている。
今は林道もしっかりコンクリートで舗装されているであろう。
周りの雑木林も必要なところを残して、コンクリートで補強されているはずだ。
廃屋へ行かなければ。
「未来、済まない。少しだけ一人にさせてもらえるか」
只ならぬ雰囲気を察した未来は、まるで理解したかのように首を縦に振った。
ありがとう、一言残し、太一は自転車に乗り林道であった道へ向かった。
林道であった道沿いの雑木林からは、ショベルカーの轟音が太一を迎えた。
あの頃の雑木林は、目の保養程度の景観を残すのみとなっていた。
作業をしている風景をぼんやりと見つめながら、坂道と思われる場所へ到着した。
坂道の周辺はまだ雑木林が生い茂っており、ショベルカーの手も未だついてはいなかった。
自転車を止め、太一は坂道をゆっくり降りて行った。
坂道を降りた先には、あの頃と同じ廃屋が太一を待っていた。
太一は廃屋の扉のドアノブに手を掛ける。
最初の悪寒でもなければ、二回目の温かさでもない、何故か悲しくなる気持ちが太一を襲った。
廃屋の扉を開けると、初めて感じる懐かしさを覚える空気が流れてきた。
何もない部屋には、一枚の手紙が置かれていた。
"みらいのおとうとへ"
拙い文字で書かれていた手紙は、所々薄汚れているものの、
しっかりと一言一句解読できる手紙であった。
太一は手紙を胸ポケットへ大切にしまい、廃屋を後にした。
深呼吸をし、坂道の方を振り向く。
『覚えていてくれて、ありがとう』
白髪の多い初老の男が、坂道の先に立っていた。
「お前は、未来の俺なんかじゃない。兄貴なんだろ」
『そうだ、その通りだよ』
「最初からそう言ってくれよ。まどろっこしいじゃないか」
『最初からお前の兄貴だよ、って言っても信じないだろ?未来ちゃんを助けるためにはあれしかなかった』
「子供の兄貴として出てきてくれよ、家では子供で出てきてくれただろ」
『家だとな。あれは、母さんの想いが俺を子供の姿に留めていたんだろう。だけど、世間は違う。この林道や廃屋、坂道のように変わっちまうんだ』
「…これが、最後なのか」
『たぶんな。母さんもやっと俺への未練という過去ではなく、お前ら家族との未来を考え始めたんだろう。
これが終われば、俺は、こっちへは戻れない』
「10年後、俺たちはどうなっているんだ」
『―――4人で幸せな家庭を築いているよ。幸せな未来が見える』
「兄貴。今まで守ってくれて本当にありがとう」
『いいんだよ、俺の代わりに、俺の分まで、幸せに長く生きるんだぞ』
気が付くと、太一は坂道の前で涙を流しながら佇んでいた。
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工事が完了した一般県道221号線ですが、221号線から伸びる土地区画への一般道名称の公募が本日終了いたしました。
一般公募の結果、厳正なる審査の末、"みらい坂"と名付けられました。
これは、子供も読めるような名称にしたいとの想いと、未来を意識した名称であり―――
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盛夏の候、未来のあなたは何をしていますか―――
"みらいのおとうとへ"