誕生祭 6
屋敷には甘い香りが漂っていた。ベッドから起きて意識がはっきりとしてくると、俺はその慣れない香りに思わず顔をしかめる。
また母様たちが菓子でも作っているのだろう。何を作ろうが彼女たちの自由だし、文句を言う気はないが、この香りは好きになれないな。
服を着替えて階段を降り、台所に顔を出す。予想通りアリスと母様が焼き上げた菓子を取り出しているところだった。
「あら、おはよう。レオ」
「おはようございます。…これはまた、すごい量ですね」
今取り出したもの以外にも、台所にあるテーブル一杯に、クッキーを始めとした焼き菓子が並べられている。なるほど、これだけあれば甘い香りが俺の部屋まで漂ってくるはずだ。
「この前ね、一度作ってからお菓子作りにはまってしまったの。とても美味しいし。ついつい沢山作ってしまうのよね。ね?アリス」
「お菓子、作る、楽しい」
「でも、作ったはいいけど、どうしましょう。流石に多すぎるわよね。レオは今回も食べてくれないの?」
「すみません。母様の料理ならば是非食べたいのですが…菓子は遠慮させていただきます」
「そう…。苦手なら仕方がないわ。気にしないで」
そんな話をしながら、朝食の用意を手伝う。どうやら先に料理を作ってから、余った時間で菓子を作っていたらしい。
父様も起きてくると、家族で食卓を囲む。俺がパンを噛んでいる最中、母様は父様に話しかけていた。
「今日は、アンドレのところへ行くのかしら?」
「そのつもりだよ。どうかしたのかい?」
「菓子を作りすぎてしまったのよ。だから、お裾分けしようと思って。…それでも、かなり余るのよね。またアリスと一緒にお茶会ね」
「あぁ、また作ったんだね。あちらにはサルト君もいるし、喜んでくれるんじゃないかな」
パンを食べていると喉が渇くので、俺は茶へと手をつける。
「でも、アメリア。最近作りすぎじゃないかい?近頃気にしていたのに。ふふ、こんなことばかりしていたら、更に太ってしまうんじゃないかい?」
あ、言ったな。俺はカップを傾ける手を止めて思った。
会話やら皿にフォークとナイフがぶつかる音で賑やかだった場が、一気にしん…と静まり返る。暖炉にはパチパチと火が燃えているというのに、室温が急激に冷えた気がした。
アリスは突然空気が変わったことに驚き、目を丸くして固まった。ぽろっ…と彼女の手からちぎっていた一欠片のパンが落ちる。
触らぬ神に祟りなし。俺は暫く、静かに父様と母様の動向を見守ることにした。
母様は無言で、ニコッ…と笑った。いつもとそう変わりはない穏やかな笑み。しかし、確かに薄ら寒いものを感じる。
父様は状況に気付かずにヘラヘラと笑っていた。彼は自殺願望者だったのか。知らなかったな。
「…そう?」
「確実に前より"重量は増えている"んじゃないかな。前にパーティーでエスコートした時も、あれ?前と違うな?って思ったし」
「…」
「あ、でも心配しなくていいからね。どんなアメリアでも僕は大好きだから。君が"僕より重くなっても"、僕の君への想いは変わらないから。沢山食べる君も可愛いと思うよ」
地雷を一つ踏み抜くだけでは飽き足らず、地雷の山の上で軽快にステップを踏んでいる。素晴らしいな。無知は時に勇気となるらしい。俺なら絶対にやらないし、できないことを彼は軽々とやってのけているのだ。その無知と勇猛さに拍手を送りたくなる。
「…………………そう」
これは不味いな。茶化している場合ではなさそうだ。
表面上は笑顔を浮かべたまま、どんどん母様の眼差しは冷たいものへとなってゆく。俺としても母様の機嫌が悪くなることは避けたい。もしへそを曲げられて、料理を作ってもらえなくなれば、父様だけでなく俺たちまで被害を受けることになるのだから。
「母様は、変わらずお綺麗ですよ」と俺はフォローした。
ここまで言って何だが、別に機嫌取りのための嘘ではない。元々母様は小柄で細身なのだ。元々が細いから、少しくらい太った今の状態でも十分に女性の標準体型だろう。
つまりは、父様の言い方が悪いのだ。
「ありがとう。レオは紳士ね。…私の旦那様とは違って」
「えっ…アメリア?」
「うふふ。そうね。ええ、太ったかもしれないわね。どうもありがとう。何回も言ってくださって。感謝いたしますわ。ふふふ。おかげでダイエットをするやる気が出たもの。ふふ」
「あ、アメリア…怒ってる?」
「怒ってなんかいないわ。ええ、怒ってなんか。私、そろそろ失礼するわね」
「え、でもまだ全然食べてな…」
「"太っている"私には、これくらいでいいのよ」
そのまま、母様は席を立って部屋を出ていく。最後まで笑顔を崩していなかったが、あれは完全に怒らせたな。世界の終わりを知ったような、絶望した顔をしている父様へと視線を移し、「…この前のことを忘れられたのですか?」と尋ねる。
「こ、この前…?」
「女性に体型維持の話題は振らない方がいいと、似たようなことを言ったはずですが」
「え、そ、そうだっけ?…あ!そうだった気がする…あの日のことは記憶が曖昧なんだよね…」
「…なるほど」
どうやらここにも忘却魔法の影響が出ているらしい。エヴィのことだけならば、今後は交流はないだろうし放っておいてもいいかと思っていたけれど、まさかこういう形で影響を実感することになるとは。
「アリス」
「何」
「母様の機嫌を取ってこい。あのままでは、料理を作ってもらえなくなるかもしれない」
「機嫌、取る。どうやって?」
「適当に甘えてみたらいいんじゃないか」
「甘える」
「取りあえずまとわりつけ。それから、一緒にいられることに嬉しそうにしていろ。それで何とかなる」
「了解」
隣に座るアリスに耳打ちし、母様の機嫌をマシにしてくるように言う。アリスがいなくなり、残っているのは俺と父様だけになった。
「僕は駄目人間なんだ…神からの使いのように慈愛に満ちた女性、この世界にただ一人の愛する妻を怒らせ、不快な気分にさせた罪深き…」
「父様。人格が崩壊するほど追い詰められているのは分かりましたから、そろそろ次はどうするかを考えましょう」
「次は…?」
「早めに仲を戻した方がいいですよ。長引くと後々、面倒ですから」
「仲直りって何をすればいいのかな…?あ、何かあげる?化粧水とか…?この前、『皺が気になりだした貴方に!十代のようなみずみずしい肌を取り返せます』って紙が張ってる化粧水を見たような気がする…」
「一番忘れてもいいものは覚えているんですね。あと、火に油を注ぐ真似は止めましょうか」
すぐさま父様の案を却下し、このまま一人で悩ませるのは得策じゃないな、と考える。しかしまぁ夫婦喧嘩にずっと付き合ってやれるほど俺も暇ではない。この後、アーラのところにも顔を出しに行こうと思っているのだ。
そこで先程までの父様たちの会話を思い出し、あぁそうか、と思い付いた。
「父様。アンドレ殿に相談されてみては?」
「アンドレに…?」
「怒らせてしまった妻の怒りを収める方法について。アンドレ殿でしたら、きっと何かいい助言を与えてくれるのではないでしょうか」
アンドレ殿に全て押し付けてしまえばよいのだ。彼は父様と母様の古くからの友人だと聞いているし、きっとこういった喧嘩に巻き込まれることにも慣れていることだろう。
彼がいつも巻き込まれて、どれだけ苦労しているかは俺の知ったことではない。
「そうか!アンドレなら、きっといい方法を教えてくれるよね!!今すぐ行ってくるよ!」
「ええ。行ってらっしゃいませ」
慌ただしく去っていく父様を見送り、俺も席を立った。自室へと戻る途中で、廊下でアリスと出会う。母様はどうした?と尋ねたら、「一人で、運動、歩いてくるって。だから、帰ってきた」と彼女は言う。
「あ、あと、お菓子。私たちで、食べてって」
「あの山を?」
「あの山を」
「そうか。頑張れ」
「レオも、だよ?」
「苦手なら仕方がないと母様は言ってただろう。つまり、俺は食べなくていいということだ。お前が全て消費しろ」
「やだ」
「我が儘を言うな」
「食べたくない、言ってる、レオも、我が儘」
「甘いものが好きなら食えるだろう。ほら、何と言ったか。確か…そう、甘いものは別腹とかいう謎の理論。その別の腹にあれを押し込め」
「胃、入らない。破裂する」
「治癒魔法で治せばいいだけの話じゃないか」
「やだ」
長時間言い合い、菓子を押し付け合う。俺は菓子が嫌いで食べたくないと言い、アリスは好きだけど流石のこの量は無理があると言う。
埒があかないと思い始めた俺たちは、結局、餓死寸前だったアーラにこの高カロリーの塊を恵んでやればいい、つまり、アーラに全て押し付けようという結論に至った。




