魔王と聖女の転生日記 8
「それにしても随分と嬉しげだな?そんなに水の上を歩いてみたかったのか?」
魔族である俺にはその嬉しさはよく分からないが。人間にとってはそういうものなのかもしれない。そう思って尋ねれば、「歩いてみたかった。けど、それだけじゃない」とアリスは言った。軽やかに跳ねていた足が止まる。
「それだけじゃない?」
「魔法、習ったの。久しぶり。嬉しかった」
(久しぶり…?それは今世では習う機会がなかったということか?それは人間の子供ならばこの歳に魔法の修行は一般的ではないとは思うが…)
俺はアリスの言葉に引っ掛かりを覚え、「どういう意味だ?」と返した。
「私、治癒と自爆だけだっただから。できること」
治癒魔法と自爆魔法の二つだけだと?そんな馬鹿な。
「お前は聖女だろう?それにそれほどの才を持っているんだ。教会が放って置くはずがない」
俺からみてもアリスは才能のある聖女だ。魔王である俺を自爆に巻き込み殺すことができるほどの秘められた力と、それに加えて今見せた新しい魔法へと飲み込みの早さ。
一を聞いて十を知るような娘だ。覚えていることが二つなど少なすぎる。
「本当。嘘じゃない」
「理由は?努力不足や才能がなかったことが理由ではないはずだ」
「…教えてもらえなかったから」
教えてもらえなかった?
「私には必要なかったから。それだけ」
レオ。もう食事の時間。母様たちも待ってる。
そう言ってアリスは先程まではしゃいでいたのが嘘のように池から上がり、逃げるように去っていく。言いたくないということらしい。俺は彼女の背中を見つめながら「必要がない…な」とアリスの言葉を繰り返した。
昨日食事をとった時の同じ部屋に行き、扉を開けると美味そうな匂いが漂ってきた。
「おはようございます、母様、父様。それにアリスも」
「おはよう、レオ。よく眠れたかい?」
「おはよう、レオ。食事はもうできているわよ。皆貴方を待っていたの」
母様と父様はにこやかに挨拶を返す。今日の朝に既に会っていたことは両親には言わない方がお互いにいいかと思い、さも今会ったばかりのようにアリスにも挨拶をすれば、彼女も「おはよう、レオ」と無表情で返した。
どうやら先程のやり取りはなかったことにすればいいらしい。
言いたくないと分かっているようなことをしつこく尋ねるほど、俺は無神経ではない。
「母様、今日の食事も美味しそうですね」
アリスから視線を外して、机に並べれた食事に移す。誕生日であった昨日のようなご馳走ではないが、一つ一つが丁寧に作られたのだと分かる美味そうな料理だった。
席について、まずはとクロワッサンを手に取る。艶のある表面は宝石か何かのようで、ちぎればサクッ…と軽やかな音がした。それを口に入れて咀嚼する。サクサクとした食感に、濃厚なバターの風味。クロワッサンの良さが最大限に高められているパンだ。
「流石ですね。とても美味い」
「まぁ、レオは昨日からたくさん褒めてくれるわね!」
「母様の料理は美味しいと常々思っていましたよ。俺ももう五歳になったので、その感謝を言葉にしようと思いまして」
実際は俺に四歳までの記憶はないが、感謝を言葉にしたいのだという思いは本心だ。というか、これは絶賛せずにはいられない味だ。
(これがきっと胃袋を掴まれるというやつだろうな)
ここの料理を食べてしまったら、もう他の所のものなど食いたいとも思わない。
「そうだ。レオ」
食事を思う存分に楽しんでいると父様が思い出したように声をかけてきた。
「はい。父様」
「お前も料理に興味があるようだし、今日は畑に行ってみないかい?この料理たちもその野菜を使ったものだよ。今まではレオはあまり興味がなさそうだったから誘わなかったが、料理がしたいのならばきっと良い勉強になるはすだ」
父様の言葉に俺は朝に魔法を試す場を探していた時、偶然見かけた畑を思い出した。その時は貴族の庭に畑などあるのかと驚愕したが、まさか本当に野菜を栽培していたとは。
もしやこの料理の美味さの秘訣はその野菜なのだろうか。どんなに腕の良い料理人でも不味い材料で美味いものは作れない。
母様の腕が良いことは疑いようもないことだが、この規格外の美味さは野菜も特別なことが理由の一つであるかもしれない。
これを学ばない手はないと俺は即座に「はい。是非」と頷いた。
食事を終えて、父様がその畑へと案内してくれた。母様は昼食の準備でいないが、アリスは一緒に来ることになった。話を聞けば記憶がなかった俺とは違い、元々最初から精神年齢が高かったアリスは畑仕事を手伝っていたらしい。
ちなみに、畑は父様が趣味でやっているものだそうだ。料理に畑仕事。貴族の両親二人とも趣味が一風変わってるなと俺は思った。