転機 15
それから少しして、父様はようやく引っ越しの決意をしたようだった。嫌がらせはやめられる気配はないし、このまま耐えていてもなにも状況は好転しないと考えたのだろう。
数年を遠くにある小さな別荘で過ごし、三ヶ月に一度、父様だけこの屋敷に戻って当主としてやらなければならない最低限のことを行う。そういう話でまとまった。
使用人に関しては、この屋敷の管理のために古くから使えてくれていた者たち二、三人は残すらしいが、別荘には誰も連れて行く予定はないらしい。まぁ元々、なんでも自分たちでやる人たちだったから、それほど不便はないだろうが。
最低限の荷物をまとめ、不必要だと判断したものは処分または売却する。父様の数々の魔法道具を運び出すのには骨が折れたけれど、一週間もすれば、アクイラ家はほとんど物のない、がらんとした印象の屋敷になった。
「なんだか寂しいね」
俺とアリスはまだこの屋敷で過ごすようになってそれほど年月は経っていないけれど、父様にとっては幼少期から生まれ育ってきた場所だ。それなりに思い入れはあるのだろう。
「いい思い出ばかりとは言わないけれど、それでもこの家にはたくさんの記憶が詰まってたんだって実感するよ。昔はこんな家はさっさと出ていきたいと毎日思っていたのにね」
「へぇ…」
「そう思えるようになったのは、君たちのおかげだよ」
父様はそう言ってよしよしと俺の頭を撫でる。
近くに母様とアリスがいないことを確認して、馴れ馴れしいと俺はその手をはたき落としたが、「こういう冷たい対応も可愛い反抗期みたいでいいね」と父様は相変わらず嬉しそうにしていた。
愛妻家で、普段から母様に対して喜んで尻に敷かれているところも見るに、この人は身内限定で被虐趣味でもあるんだろうか。あるとしたらドン引きだけども。
二人きりなので親子の演技をする必要もなくなり、父様は「レオは不満はないかい? 今は素直に答えてくれていいからね」と尋ねてくる。
「雰囲気が常に暗いことに気が滅入りそうになること以外は、今のところありませんね。あとは今後の貴方の行動次第ですけど」
「レオはサッパリしてるね」
「貴方たちが引きずりすぎだ」
「そう簡単に割り切れるものではないんだよ」
俺の正直な本音に父様は思わず苦笑する。
「そうだね。レオが僕ならどうしていた?」
「一応町の支援は最低限しますが、あとは放っておきます。そしてまず間違いなく、門の前にゴミを置いていく奴らは捕まえて痛めつけるでしょうね。ああいう奴らは痛みを伴って学習しないと物事を覚えない」
「過激だねぇ」
「貴方が甘すぎるだけでは?」
「放っておく…か。皆から嫌われたとしても?」
「起きてしまったことをどうしろと? あの人たちは弁解も謝罪も聞き入れないでしょう。石を投げられて暴言を吐かれるのがオチだ」
「うーん…それもそうなんだろうけど…」
「これで縁が切れるのならば、遅かれ早かれそうなるものだったんだろう。そう割り切って、前を見た方がずっと楽だと思いますけど」
まぁ別に俺の考えを貴方に押し付ける気はありませんが、と付け足せば、父様はきょとん…と目を丸くした後、柔らかく微笑んだ。
「そういうところがレオの魅力なんだろうね」
「…?」
「こっちの話。でも、そうだなぁ。もし君が“縁を切りたくない”という人に嫌われてしまったらどうするんだい?」
縁を切りたくない人?
俺がピンとこなくて不思議な顔をすれば、父様は「レオにはまだ早かったかな?」と困ったように眉を下げた。
「嫌われたのなら、もう仕方がないと諦めればいいのでは?」
「それでも諦めたくないって人がいるかもしれないだろう?」
「あぁ、何度フラれてもアプローチし続けたいというような感じですか?」
「分かりやすく言えば似たようなものかな? 恋愛関係だとそうなるかもしれないね」
「しつこい男は女性に好かれないと聞いたことがありますが。既にその時点で絶望的では?」
「うーん、恋愛だけじゃなくて友人同士でも起こると思うよ」
できればずっと一緒にいたいと思える人のことだと言われて、最初に思いついたのは前世の母だったが、あの人からはそれこそ生まれる前から嫌われていたので、“嫌われたくない”という今回の条件に当てはまらない。
次に思い浮かんだのはリアだが…。
『うぇ…気持ち悪…。兄さんがそんなこと言うなんて、明日は世界が滅亡するじゃないの?』
アイツがそう言う場面が簡単に想像できたので、コイツも当てはまりそうにないなと結論付けた。
そもそもリアとは好かれているか嫌われているかは正直どうでもよくて、互いに信頼が置けるかどうかを互いに重要視していたように思う。
『おい、ゴミ屋敷製造機。使ったものはすぐに直せと何度言ったら分かるんだ』
『うるさいなぁ、潔癖症。カリカリ怒って馬鹿じゃないの。少し散らかったくらいで死ぬわけじゃないんだし』
『お前のエリアは好き勝手にすればいいが、こっちまで異臭が漂ってくるんだ。せめて腐敗物は捨てろ』
『そんなに気になるなら、兄さんが捨てればいいんじゃない? 兄さんは部屋が綺麗になってスッキリ、僕はなにもしなくてのんびり。ほら、Win-Winだろう?』
『表に出ろ。その根性叩き直してやる』
『はっ、本ばかり読んでるガリガリが僕に勝てるとでも? やだねぇ、殺菌部屋で育った奴は知能が低くて困る』
まぁお互いに性格が悪くて、喧嘩のたびに罵り合いをしていた関係性だったこともあるだろうけれど。
アイツもアイツで一人で生きていける奴だったから、縁が切れたとしても「どこかで好き勝手に生きているんだろうな」くらいに思っていたはずだ。
生きてさえいれば、一緒にいてもいなくてもそれほど気にしなかったと思う。現実は、縁が切れるよりも前に死んでしまったが。
色々と考えて見たけれど、どの相手でも「まぁ、そういうこともあるのだろう」と割り切れるものばかりだったので、父様が言うような人物は思い当たらない。
「パッとは思い浮かびませんね」
俺がそう言えば、そうか、と父様は笑う。そしてまた俺の頭を撫でて、「いつかそんな友人がレオにもできるといいね」と彼は静かに言った。
「…父様」
「なんだい?」
「同じことを二度は言いません」
父として振る舞うことは許可したが、馴れ馴れしく触れてくることを許可した覚えはない。そう思って、俺は再びその手をはたき落とす。
その様子を見て、父様はまた笑った。