転機 12
「ありがとう」
パンを差し出せば、弱々しい声でそう言われる。俺はにこりと作り笑顔を浮かべて「困った時はお互い様ですから」と心にもないことを口にした。
「君のような子供もボランティアの手伝いを?」
「…ただの思い付きです。父がこういう活動を好む方なので。父と友人の方の会話が終わるまでちょうど手持ち無沙汰でしたし、手伝いでもして時間を潰そうかと」
「そうか。偉いね」
もちろん、嘘だ。あいにく俺はアリスのようなご立派な奉仕精神は持ち合わせていないし、父様のように健気にも「自分の魔法道具のせいで人が傷ついているのだからなにか償いを」と罪悪感に駆られているわけでもない。
こうしてアンドレ殿の店の人たちと共にパンを配っているのは、そうした方が避難所で子供が一人で歩いていても迷子と間違われなくて都合がいいからで、感謝されるようなことはなにもないのだけれど、こういう時は黙って微笑んでいるのが一番だ。
それだけで、勝手に向こうがいいように勘違いしてくれるからな。
「君も聞いたかい? あの噂」
「なんでしょう?」
「今回の事件はすべてアクイラ家が仕組んだって話だ。まぁこれは噂だけどね、でも、アクイラ家の当主が発明した爆弾が使われていたっていのは確かな話らしい」
「へぇ。興味深いですね。その噂ってどこからでたんですか?」
「さぁ…。もうみんな知っているからね。誰が誰から聞いたのかなんて、誰も分からないし気にしていない」
分かることはさ、と地面に座り込み憔悴しきった様子の男は言った。
「俺の息子は、あの貴族の爆弾で殺されたってことだけだ」
拳を握りしめ、その目に殺意の色を滲ませて「ソイツも同じ目に遭えばいいのに」と呟く。
「…」
少なくとも貴方が憎むその男は同じくらいに酷い顔色をしていると、そう言ったら目の前の彼はどんな反応をするのだろうかと疑問に思った。
せめて家族だけは守らなくてはと走り回る父様の姿を見ても、彼は今と同じように憎らしくて仕方がないというような、怒りに歪んだ表情を浮かべるのだろうか。
…なんて、考えても仕方がないことだな。人を憎む感情はそう簡単に消化できるものではないと、俺だって身をもって知っている。
「悪いね。ちょうど君と同じくらいの子だったからさ。引き留めてごめんよ」
「…では、失礼します」
悲しみは苦しい感情だ。だから、俺たちは悲しみをなにか別の激しいエネルギーを持った感情に変えようとする。怒りだったり、憎しみだったり。そうした感情の方が生きる糧になるからだ。
故人に向けた感情はいつまでも届かず、報われず、虚しいだけものだから、他の誰かに対して向けた方がずっと楽になる。
息子が死んだのならば、それを殺した奴を恨む。
娘がいなくなったのならば、原因を引き起こした相手を責め立てる。
妻が帰らぬ人となったのならば、妻を連れ去った人間を殺してやりたいと思う。
そして…夫が灰となったならば、きっと同様に、仕返しをしてやりたいと人は思うのだろう。
「レオ君」
後ろから声をかけられて、俺はゆっくりと振り向いた。
そこには死人のような顔色をしたマリーさんが立っていた。
包帯だらけで、まだ立っているのもやっとなのだろう、時折身体が揺れては足に力を入れてバランスをとっている。
アリスによる治癒魔法の形跡はないことを見て、あぁ、やはりな、と俺は思う。道理でアリスの様子が変だったはずだ。屋敷に帰った時に事情を説明し、治癒に向かわせてみれば、返って来てからというものずっと挙動が不審だった。
俺に気付かれないように必死にいつも通りを装っているつもりだったのだろうが、元々彼女はあまり演技が上手くない。
「貴方たちのファミリーネームってなんだったかしら?」
痛々しい作り笑いを浮かべて、マリーさんは尋ねてくる。もう既に答えを察しているだろうに、わざわざ聞いてくるのは真実を認めたくないからなのだろう。
「もう一度、自己紹介が必要ですか?」
憎しみは取り扱いの難しい感情だ。赤の他人ではなく、見知った人間に対するものではあれば、更に複雑で面倒な感情になるのだろう。
だからこそ、俺は貴方のことを哀れに思う。
「では改めて、レオ・アクイラと申します。貴方の夫を殺した爆弾、それを作った貴族の子供ですよ」
俺はにこやかに微笑んで、わざと煽るような言葉を言う。
こんな俺にさえ親切にする優しい貴方は、上手く悲しみを憎しみに変えることができなくて、きっと苦しむだろうから。
せめて、今だけはただ純粋に憎ませてやりたかった。
「…ッ!!」
彼女が息を呑み、手を大きく振り上げたのが見えて俺は受け入れるように目をつぶる。俺をぶつことで彼女の気が紛れるのならば、今まで親切にしてもらった礼くらいにはなるだろうかと思ったからだった。
火力石を作ったことに後悔はしていない。爆弾を作った父様のことも恥ずかしいとも思わない。知的好奇心の赴くままに新しいものを見つける、作り出す。それが研究者というもので、その行為自体に善悪の区別などきっとない。
人が大勢死んだことに憐みはしても罪悪感は感じない。俺にとって赤の他人の死など至極どうでもいいものだからだ。こういう後始末は面倒だから、次は対策をしておこうと考えるきっかけくらいにしかならない。
魔族は良心というものがあまりない者ばかりだからということもあるだろうが、元々の性根だ、こればかりはなかなか直すことができないのだ。
どうせ彼女との縁もこれで切れる。最後に自分がしてやれることとして、これくらいしか思いつかなかった。
「…?」
…と、まぁ、多少の痛みは覚悟していたのだが。どれだけ待っても期待していた痛みを感じることはなく、不審に思った俺が目を開けると、ぼろぼろと涙を流す彼女と目があった。
「…」
「…」
「…『貴方のせいじゃないわ』って言えたらよかったのに」
「『貴方のせいだ』と言ってもいいんですよ」
「本当に、器用じゃない人」
マリーさんは風になびく髪を耳にかけて「皆、私のことを勘違いしてるの」と呟くように言った。
「私はそんな綺麗な人間じゃない。ルーカスは最後の最後まで勘違いしてたわ。私が心優しい人間だって」
「…」
「本当は人のことを嫉妬ばかりする、面倒臭い人間なのよ。私って。どうして私ばっかり、どうして皆は健康なのに、どうして、どうしてって。ずっと、ずっと不満ばっかりで、神様なんて心の奥底ではずっと大嫌いだったわ。今だって貴方と、貴方のお父様のこと殺してやりたいってそんな気持ちでいっぱい」
「…」
「馬鹿な人。可哀想な人。こんな性格の悪い女に捕まって、勘違いして、挙句の果てには私なんかを守って死んでしまって!! 本当に馬鹿で…愛おしい人」
「…」
「私、私ね、ルーカスが愛してくれた『優しい人』のままでいたいの。あの人が隣にいてくれたから私は優しくなれた。そんな私を彼は綺麗だって褒めてくれた。だから、ずっと綺麗なままでいて、ずっとあの人のことを愛していたいの」
だからね、とマリーさんは目を真っ赤に腫らして言った。
「もう二度と、私に関わらないでちょうだい。…私を『優しい人』のままでいさせて」
哀れな人だとつくづく思った。他の人間たちと同じように、俺や父様を悪役にしてしまえばずっと息をするのも楽になるというのに。
「…それが貴方の望みですか?」
「そうよ。契約を結ぶなら、私の手でも足でも、目玉でも、ルーク以外ならなんだってあげる。だから、お願いだから私の人生に入ってこないで」
貴方にはあの人と同じような悲惨な運命を歩んで欲しくはなかったのに。
『お願いだから、死んで』『私がなにをしたっていうの』『怖い』『生きたい。死にたくない』『…私の人生をめちゃくちゃしないで』
現実とは上手くいかないものだな。結局、同じような言葉を言わせてしまうのだから。
「さようなら、レオ君。貴方と出会わなければよかった」