転機 8
人が燃える光景は何百、何千回と見てきた。俺は火の魔法を使うから敵を火で燃やし尽くした方が早いし、死体の処理も簡単に済む。
生きたまま焼かれるというのは随分と痛いらしい。
死にかけたことは両手の指で数えられぬ程にあるが、幸運なことに俺は今まで、四肢の一部分だけならばあっても、全身を火で焼かれたことはないから実際の痛みは分からない。
けれど、自分が燃やしたことがある者たちが長い間ずっと痛みを訴えていたから、それが酷く痛いらしいということは知っていた。
「生きていますか?」
マリーさんは気を失っていた。顔から腕まで身体の右側に酷い火傷があるが既に消火されており、部屋の隅の、まだ火の影響がない場所で寝かされている。
その彼女を守るように、上から覆いかぶさるように立っていた男がいた。背中で天井からの崩壊物を受け止めて、全身を火で焼かれている。
「…ァ、…ッ…」
痛みに呻きながらもルーカスさんが反応を示す。
その状態でよく意識を保っていられるものだと思いながら、俺は彼に触れて身体の表面に薄く結界を張った。そして三秒ほど経ってすぐさま解除する。
全身を直に覆うこの方法は並の人間では数秒が限界だ。しかし確実に消火ができる。
最悪、後遺症で一生動かすことはできなくなるだろうが命があるだけマシだろう。
ルーカスさんはビクリと身体を震わせて、そして膝から崩れ落ちる。彼の身体に残った、全身に及ぶ大火傷に俺は眉根を寄せた。
二人を外に連れ出しても、ここにはアリスがいない。マリーさんの怪我ならば応急処置で時間を稼げるだろうが、彼の怪我は今すぐにアリスに診せたとしても助かるかどうか…。
「失礼します」
意識がないマリーさんを腕に抱え、ルーカスさんの身体を自分の肩にもたれかけるようにする。
火の中で二人を背負って運ぶのはリスクが高すぎる。
懐から杖を取り出し、小さく息を吐いた。
転移魔法を使うのはこれで二度目。これまでにも詠唱なしに防御魔法を張ったりとにかなり魔力を消費してしまったから、下手したら魔力切れを起こす可能性がある。
魔力なしに無傷であの町中を歩くのは不可能に近い。せめて魔力操作で身体強化ができる程度には残しておく必要があった。
…と、なると、魔力の無駄遣いはできない。時間はないが、普段は省略している正式な詠唱をしなければならないだろう。
自分の身体を覆っていた結界を解除し、ゆっくりと詠唱を始める。
「羅針盤を回し、地図を広げ」
転移魔法は難易度の高い魔法の中でも特に事故が多い。緻密な魔法操作と高い集中力が必要で、それを少しでも怠れば転移の際に身体の一部を取り残すといったことが起こる。
気を急くほどに、感情が乱されるほどにこの魔法は失敗する。だから緊急時の移動ではあまり好まれない。
「星の瞬く川に逆らい、流れを狂わせる」
だが、俺は魔力操作の腕だけは生まれてからずっと磨き続けてきた。
どんな状況であろうと、どんな精神状態であろうと。
『お願いだから、死んで』
もう二度と母を殺した時のような失態は犯さぬように。
…それがまさかこんなところで役に立つなんてな。
この家族は苦手だ。ルークが親に抱かれているのを見ると、不思議と母のことを思い出してしまう。懐かしい気持ちになる。
どれだけ彼らに自分を重ねても、自分の母が生き返るわけでもないのに。
そう頭で理解していても、両親に愛されるルークを見て安堵のような感情を覚えるのが、自分自身のことであるはずなのに実に理解しがたく、受け入れがたい。あぁ、本当に俺らしくない。
「願うは方舟。地を裏切り、空に逆らい、星の川をたゆたい流れる舟」
袖に火が燃え移り、左手に熱を感じたが、構わず詠唱を続ける。
この家族に関わるのはこれが最後にしよう。詠唱を唱え、絹布を織るように、丁寧に魔力を紡ぎながらそう心に決める。
他人に過去の自分を重ねて、忌々しい過去から救われたような気持ちになるなんて気色が悪いにも程がある。
そんな無意味な慰めを俺は必要としていないはずだ。
『兄さんはおかしくなっているんだ』
そうだな、リア。きっと俺はおかしくなっていた。
要らないものは切り捨てる。ずっと俺たちはそうしてきた。
だから今回も同じことをすればいい。そうすればちゃんと元通りになるだろう?
「時計を止め、空を混ぜ、渦を呼び、時空を歪ます」
肩に頭を預けていたルーカスさんが身動きをする。ようやく意識がはっきりとしてきたのだろうか。
小さくなにかを呟いている気がするけれど、上手く聞こえない。喉が焼かれているから満足に話すこともできないだろうに、何度も口を動かしなにかを訴えようとしている。
「我の魔力を切符とし、望む場所へ案内せよ」
詠唱を終えて魔法陣が一層輝き、浮遊感を覚えたその時だった。
耳元でかすれた声が聞こえた。
「二人を、頼む。…約束だよ」
小さいけれど、はっきりと有無を言わさぬ声色でそう言われた。
転移魔法が発動し、そしてやがて冷たい風が頬を撫でるのを感じる。俺たちは外に座り込んでいた。
ポツリ、と水滴が空から落ちてきて、そのままポツポツと雨が降り始める。
空を見上げれば上半身に感じていた重さが消えて、肩が軽くなった。支えていた一人の身体が地面に倒れたからだ。
「ルーカスさん?」
肩を揺する。なんの反応もない。
不審に思って焼け溶けた顔に耳を近づければ呼吸をしていなかった。心臓も止まっている。
死んだのか、とぼんやりと思った。
「…言い逃げは卑怯ですよ、ルーカスさん」
本当に卑怯な人だ。
最後の言葉まで妻と子を想う彼らしいものだった。
せめて「死にたくない」だとか、それらしいものを呟いてくれれば、彼のような人間も他とそう変わらない存在だったのだと安心することができたのに。
「約束…か」
その言葉を使われるのは流石に予想していなかったな。
曇り空を眺めながらそう呟くと、ふと視界が暗くなって、傘が自分に傾けられているのが見えた。
魔力操作の疲労でまったく気が付かなかった。自分が思うよりも、体力と気力を削られていたらしい。これだから軟弱な人間の身体は扱いに困る。
アリスだろうかと顔を見上げて、そして俺は目を見開く。
「レオ」
「父様…?」
そこには険しい顔をした父様が立っていた。