転機 2
朝起きると、焼きたてのパンの香りがした。母様は最近、パン作りにハマっているようで、暇さえあればパン生地をこねているのだ。
流石に毎日作るのは難しいようだが、三日に一回は朝に手作りのパンを焼いている。パン作りはなかなかの重労働だろうと手伝いを申し出たりもしたのだが、どうやら人手として父様も叩き起こしているらしい。
父様も筋力があるわけではないので(どちらかといえば成人男性の中では非力な部類に入るだろう。研究者という職業柄、運動量が少ないのは仕方がないかもしれないが)、二人でというのもなにかと苦労があるらしいけれど、それはそれで夫婦仲を深める機会にもなっているようだ。
ならばせっかくの夫婦の時間に水をさすのも悪いだろうと、「レオはゆっくりしていてね」という言葉に甘えることにしたのだ。
「…ここまでしても、新しい使用人を雇わないとは随分と子供想いの親たちだ」
前のレオ・アクイラは前世の記憶を取り戻す過程で、ひどく暴れていたらしい。その姿を気味悪がった使用人たちがレオを邪険に扱うこともあったそうだ。
そうした行いをしていた使用人のほとんどが自ら辞めて行ったが、残った者たちは父様が解雇したのだと聞いている。
よって屋敷にいるのは口が堅く信頼ができるほんの一握りの者たちで、あまりにも人数が少ないために、アクイラ家では、なにかしたいことがあれば人を使うのではなく自分の手で行うということになっている。
アリスはともかく、生まれた時から貴族として生きてきた父様や母様にとっては不便なことも多いだろうに、二人から今の生活についての不満を聞いたことがない。
それどころか、自分たちがしたいからそうしているのだという風に振舞っているので、この家は元々こういう家風だったのだろうかと俺も最初は思ったくらいだ。
「…恵まれた環境だな」
服を着替え、鏡を見れば健康そうな顔色の子供がこちらを見つめている。食べるものにも、住む場所にも困ることがなく、周囲の人間から愛されて育った子供。
アリスから聞く昔の俺の話は、別人だろうかと思うほど違和感のあるものばかりだが、これほどまでに育った環境が違えば性格に影響も出てくるだろう。かつての俺自身にはそれほど興味はないが、環境でこうも性格が変わるといいうのは面白いな。
素直で聞き分けのいい子供を演じるのは少々面倒だと思うけれども。
「おはよう、レオ」
「おはようございます」
父様と母様、アリスに挨拶を返し、朝食を食べながら今日の予定を考えていく。
そろそろアーラの家にも顔を出しておいた方がいいだろうし、他にも研究のためにいくつか欲しいものがある。どうせアリスもついてくるだろうから、ルークの家にも寄ることになるだろう。帰りは…夕方くらいか。
「レオ、町に、行くの?」
「あぁ、アーラの生存確認と買い出しのためにな」
「アーラ、また、連絡、つかない?」
「アイツが手紙を無視するのはよくあることだ。返事を送り忘れることもな」
「町、私も行く」
「言うと思った」
俺が諦めたように溜め息をつけば、アリスは少し目を丸くした後、嬉しそうに頬を緩める。
「マリーと、ルーカスへの、お土産。なにがいいかな」
「適当に菓子でも包んでおけ。どうせエヴィもいるんだ。万が一、二人の口に合わなくても食い意地が張っているアイツがすべて食うはずだ」
「レオ、ひどい」
「アイツがよく腹を空かせているのは事実だろう」
マリーさんたちから給金をもらっているとはいっても、その金だけで祖父との二人の生活を続けるのは少しばかり厳しいようで、餓死はしないもののできる限り質素な生活を心掛けているらしい。
時折、アリスが菓子を恵んでやれば「これで一食代が浮く!」と飛び上がらんばかりに喜んでいる。
目を離した隙に、へそくりを祖父が見つけ出してギャンブルに溶かしているので、一向に金が貯まらないとエヴィが嘆いていたけれど、まぁどうにか生活できているようだから問題はないだろう。
「レオ」
そんなことを考えていると、アリスに声を掛けられ、顔を上げる。
「レオ、なんだか、雰囲気が、変わったね」
「…お前の気のせいじゃないか?」
「ううん。本当に、ちょっとだけ、だけど。だって、前は私が一緒に行くの、毎回、すごく嫌がってた。今でも、嫌がるけど」
「それは変わったのではなく、諦めたというんだ。お前は俺がなにを言ってもどうせついて来ようとするだろう」
「他にも、変わったところ、ある。表情が一年前より、柔らかくなった、気がする」
「…あぁ、あれから一年が経ったのか」
「うん」
確か、レオ・アクイラが俺になったのは五歳の誕生日だったはずだ。六歳を既に迎えた今では、一年以上もの間この屋敷に滞在していることになる。
長寿の魔物であった頃は一年なんて身近過ぎる時間だと思っていたが、こうして寿命が限られている人間になってここに来てからの日々を振り返ってみると、もう一年か、と思いもするし、まだ一年か、と思いもする。魔族と人間で時間の感覚が少し違うのかもしれない。
まぁ、単純にこの一年が変化に富んだ、刺激的で、退屈しないものだったというのもあるだろうが。
「ねぇ、レオ。ここでの生活は、楽しい?」
アリスの問いに、またか、と俺は片眉を上げる。アリスは時々、思い出したようにこの質問をする。
前世の生活と比べた評価を聞いてなにが楽しいのかさっぱり分からないけれど、俺が肯定するような言葉を返せば、いつも安堵したような表情を浮かべるのだ。
「それなりに気に入っている。…お前、何度も同じ問いばかりを繰り返して飽きないのか?」
「飽きない、よ。レオが、ここの暮らしを、楽しいと思ってくれるのは、嬉しい」
「俺を殺した罪悪感があるからか?」
「かも、しれないね」
「それでも俺が許されないことをしたと判断すれば殺すんだろう?」
「うん。その時は、ちゃんとする。から、一緒に死んでね」
「お前の考えは相変わらず理解が難しい。俺としては心中はごめんだけどな」
そっか、とアリスは頷く。「レオがちゃんと、死んでくれるように、頑張らないと」と言われて、お前は俺を殺したいのか生かしたいのかどちらなんだと突っ込みたくなった。
ありふれた日常のひと時。綺麗な青空の、穏やかな朝だった。