転機 1
気づいたら見知らぬ場所に立っていた。周囲に建物の影はなく、ただただ湖と青空だけがはるか遠くまで広がっている。
俺は足元を見下ろして違和感を覚える。身体は今まで通りの人間のものだ。しかし魔力を込めていないというのに俺の身体は沈むこともなく、水面の上で静かに立っている。
そして一見、透き通っていて美しいものに思える湖の底には、おびただしい数の死体が沈んでいた。既に骨となったものから、腐り始めているもの、まだ真新しいものまで。
その中にいくつか見知った顔を見つけて片眉を上げる。前世、魔王だった時に殺した者たちだ。まだ人の形を保っている死体が、目を見開いて水上にいる俺のことを憎々し気に睨みつけている。
「夢か」
この不思議な光景を見て俺はそう結論づけた。
死体を山ほど集めて湖に沈め、人の気配に敏感な自分をここまで気づかれずにつれてくるなんて、現実でできるとは思えない。嫌がらせにしては手間がかかりすぎている。
辺りを見回し、そしてあてもなく歩き始める。訳の分からない夢を見るのは初めてではない。
どうせ時間が経てば自然と目が覚めるだろうし、それまではこの夢の中を探索してやろうと思ったのだ。
この世界に時間という概念があるのかは分からないが、体感で一時間ほど歩き続けて、ふと気づけば、目の前に突然小さな墓が二つ現れた。
「湖の上に墓か。面白い演出だな」
白い墓石の表面には名前が彫られている。
片方はかつての母の名。そして、もう一つは―――。
「久しぶりだね、兄さん」
突然声をかけられて俺は目を伏せた。息を整え溜め息をついて、後ろを振り返れば、一人の少年がこちらに笑いかけている。
風に揺れる短い銀髪と黄金の瞳。年齢は人間ならば五、六歳の姿。今の妹であるアリスによく似た人物がそこには立っていた。
そして俺はコイツのことをよく知っている。
「リア。お前が俺の夢に出てくるなんて珍しいな」
「兄さんはお母さんの夢ばかりだもんね。やけてしまうな」
リアはクスクスと笑って、自分の墓の上にどかりと腰を下ろす。
死者に対する礼を欠いた行動に「おい」と咎める声を上げれば、「相変わらずこういうのには厳しいなぁ。別にいいじゃないか。自分の墓なんだから」とリアは肩をすくめた。
「そんなにカリカリしていたら早くに老けるよ。人生には心のゆとりというものが大切なんだ」と窘めるように言われ、思わず舌打ちをする。
「で? なんの用だ」
「そう警戒しないでおくれよ。君のお母さんみたいに兄さんを殺すことに執着しているわけじゃない」
「…」
「信じられない? まぁ、兄さんが望むなら殺してあげることも考えるけどさ」
懐からナイフを取り出して、リアはそれを弄びながら俺に微笑みかける。
「殺して欲しい?」
「今の生活はそれなりに気に入っている。遠慮しておこう」
「そう」
俺がそう答えればリアは「残念」と笑ってナイフをしまった。その姿を見て、やはり似ているなと改めて思う。
アリスよりも表情が豊かだが、同一人物かと思うほどリアとアリスは瓜二つだった。初めて見た時は驚いたものだ。
アリスが人間だったからどうにか区別はついたが、もし彼女がリアと同じ魔物だったならば初対面で別人物だとは思えなかっただろう。
「なんだい、そんなに熱心に見つめて。あ、もしかして久しぶりに見た僕の顔に見惚れた? まぁ僕のような絶世の美少年、見惚れない方が難しいというものだよね」
「本当に顔以外は正反対だな…」
卑屈なところがあるアリスもコイツのことを見習うべき…いや、コイツはコイツで自己肯定感が高すぎてウザいから、あのままの方が楽か…。
「あぁ、あのアリスとかいう子と比べていたのか」
リアは納得したように頷いた後、不本意そうに眉を寄せた。
「他人の空似にしては似すぎだろう。血が繋がっているんじゃないのか」
「まさか。人間と魔物に血の繋がりなんてあるわけがないだろう? 人間と魔物が交わるなんて“三大禁忌”のひとつに触れる」
「…」
「それに僕はあの子嫌いだな。親戚かもしれないなんて考えるだけでもゾッとする。なんか見ていてイライラするんだよね。あれが駄目、これが駄目で文句をつけるばかりでさ。かといって、自分で選べと選択を迫られたらのろのろと迷い続けるんだ。どちらかを見捨てる覚悟ってものがない」
「お前がそこまで言うなんて珍しいな」
「まぁね。あれに付き合ってやってる兄さんは優しいと思うよ」
「ま、僕の代わりとしてだろうけど。僕って愛されてるぅ」とニコニコ笑いながら、リアは立ち上がった。そして俺の方に近付いてきて笑うのをやめる。
「雑談はこれくらいにして。兄想いの弟からアドバイス。兄さんは最近、腑抜けすぎだよ」
「なんだと?」
「可哀想に。あの子の考え方に毒されてきているんだね。…兄さん、あの子は僕じゃないよ。僕はあんな頭がお花畑の子供じゃない。この世界は理不尽で残酷だ。そうだろう? 同じ地獄を生き抜いた僕たちはそれをよく知っているはずだ」
「…重ねることはあってもアイツをお前の代わりとして扱ったことはないし、腑抜けたつもりもない」
「じゃあ無自覚だ。元々素直な人ではあったけど、今の兄さんは危なっかしすぎる」
兄さんはおかしくなっているんだ、とリアは続ける。その瞳の中に侮辱の色は見えない。ただ憐みと同情の色だけが浮かべられている。
「『これが幸せというものなのかもしれない』。そう思った次の日に、その幸せが壊される。そういう世界だ。…そんな世界で、腑抜けたばかりに僕は死んだ」
「…」
「僕の死を兄さんのせいにするつもりはないよ。あれは油断した僕の責だ。…ただ約束が守られることがなかったことだけが残念だけど」
「…嫌味か」
「まさか。ただの感想だよ。約束通り、兄さんに殺されたかった。知らない他人に好き放題扱われる前に、死者にそれなりの敬意を払ってくれる兄さんに殺されて…自由なまま死にたかった。本当にただそれだけだ」
リアは風になびく髪を耳にかけて空を見上げた。眩しそうに目を細め、リアは悲し気に呟く。
「兄さんは僕みたいにならないでね。君には自由がよく似合う」
その瞬間、強い風が吹く。目を閉じて次にまた開けた時には、既にリアの姿はなかった。
真っ白な墓石だけが残されている。母と弟の墓だ。俺が心を許した、たった二人の人たち。
俺はその石を撫でて、そう言えばまともな墓を用意してやることもできなかったな、と思い出す。当時はそんな金も暇もなかったから仕方がなかった。遺体を埋めて、時折その埋めた場所に花を手向けてやることしかできなかった。
「リア。母さん」
感傷に浸っても、死者は生き返らない。時間は巻き戻らない。
だから俺は前を向かなければならない。彼らの死を無駄にすることだけは避けたかった。なんらかの意味を与えてやりたかった。…こんなことをしても意味がないと理解はしているけれど、そう思わずにはいられなかった。
また風が吹く。そして、そこで夢から覚めた。