博覧会 19(三人称)
「兄ちゃん! 久しぶり!」
部屋にいたのは数十人の若者たちで、彼らはネイサンを見て、親しげに声をかけてきた。
「覚えてる? あー…成長したから分かんないかな。んーと、兄ちゃんに世話になった子供だよ。スラムの。ここにいるのは、兄ちゃんが作ってくれた孤児院に最初にいれてもらった奴ら」
そう言われて漸く、彼らが自分がかつて守りたいと思った子供たちなのだと分かった。
数年前、孤児院を作るきっかけになってくれた子供たちだ。
「背…伸びたね」
「あぁ、おかげさまでな! 兄ちゃんが孤児院を作ってくれたから、皆、元気にしてる。ほとんどの奴はもう働いてるよ。文字も計算も簡単なやつならできるから、食い扶持に困らないくらいには稼いでるんだ」
「どれもこれも兄ちゃんと、ジェニー姉ちゃんのおかげだ」と笑顔を向けられて、ネイサンは胸が苦しくなった。
顔を伏せ、「悪いけど…」と口を開く。
「ジェニーが亡くなってね。君たちと楽しく話せる気分じゃないんだ。せっかく来てもらったのに申し訳ないんだけど…話はまた今度に…」
ネイサンの言葉に、彼らは顔を見合せた。そして「うわ、マジで姉ちゃんの言った通りじゃん」と言い合う。
「え…?」
「オッケーオッケー。じゃあ姉ちゃんの指示通りに」
「俺、後ろ回るわ。拘束しとく」
「誰がやる?」
「そりゃあ一番力が強い奴だろ。思いっきりやれって言われてるし」
「じゃ、俺がやる」
「お貴族様を殴る日が来るなんて夢にも思わなかったな」
「大丈夫大丈夫。ジェニー姉ちゃんの許可はもらってんだし、マゾの兄ちゃんなら許してくれんだろ」
「歯が折れるくらいまでやっていい?」
「それはやりすぎ」
そんな会話が聞こえてきて、驚いて固まっている内に、後ろから脇に手を入れられて拘束される。
彼らの中で一番体格がよかった子が前に出てきて、ネイサンの前に立ち、拳を握り締めた。
「歯、食いしばってくれよ」
「い"っ…?!」
そして思いっきり殴られた。あまり痛みに、ネイサンは目を白黒させる。
「悪ぃな。ジェニー姉ちゃんの頼みだからさ」
「さっきから…ジェニーってどういうこと…?」
ネイサンが呆然としながら尋ねれば、彼らはニコリと笑って「手紙が来たんだよ」と言った。
「時間があるなら、今日この時間、この場所に来て欲しい。んで、兄ちゃんが腑抜けた顔をしてたら自分の代わりに殴って欲しいってな」
「そんな…」
「兄ちゃん、死のうとしてたんだろ?」
本音を言い当てられて、ネイサンはギクリとした。ついさっきまで自分が考えていたことだったからだ。
彼らは目でアイコンタクトをし、そして意地の悪い笑みを浮かべて囁いた。
「ジェニー姉ちゃんが死んだ理由、教えて欲しいよな?」
その言葉に、ネイサンはバッと顔を上げた。
「知ってるのかい…?」
「…あぁ、俺らの手紙には書いてた。でも兄ちゃんは知らない方がいいぜ。こんなでっかい秘密を姉ちゃんは最後まで隠し通したんだから大したもんだよ」
教えてくれ、とネイサンはかすれた声で言った。ひらひらと見せつけるように目の前で動かされる一通の手紙が今は喉から手が出るほど欲しくて仕方がない。
思わず手を伸ばせば、あと少しで触れるといったところで「おっと」と取り上げられる。
「返してくれ…僕にはそれが必要なんだ…」
その紙きれこそが今のネイサンにとっては唯一、彼女が遺したもの。彼女を感じられる形見のようなものだったのだ。
自分が受け取った手紙に書かれている彼女の思いは、綺麗なものばかりだった。…あまりにも綺麗過ぎた。自ら命を絶った人間の本音があんなに静かなものであるはずがない。
知りたいのだ。彼女が本当はどう思っていたのか、なにを悩んでいたのか。
先ほどまではすべてを投げ出して死んでしまいたいと思っていたというのに、今は目の前のものを手に入れるまでは死ねないと思ってしまう。
ずっと彼女のことが分からなかった。なに一つとして教えてもらえなかった。だから、最後に彼女のすべてを理解して死にたい。
「いいぜ。この手紙を渡しても。ただし、条件がある」
「なに」
「渡すのは、兄ちゃんしかできないことをやり遂げてからだ」
僕にしかできないこと…とネイサンは彼らの言葉を繰り返した。そんなものあるとは思えない。
「あるよ。兄ちゃんにとっては特別なことじゃなかったかもしれないけどさ。…あの時の俺たちに手を差し伸べてくれたのは兄ちゃんだけだったんだ」
同情する人間は山ほどいる。可哀想だね、と言うだけでなにもしない奴らがほとんどで、実際に助けようとしてくれる人間はほんの一握り。そしてそのほとんどが途中で疲れてしまって謝罪の言葉とともに去って行く。
最後まで諦めずに彼らの手を繋ぎ続けてくれた人は、ネイサンだけだったのだ。
「兄ちゃん、あともう少しだけ生きてくれ。昔の俺らみたいに助けを必要としている人間は山ほどいる。俺らにはまだ兄ちゃんが必要なんだ」
「違う。だって、あれは…ジェニーがいてくれたからで…」
「あぁ、だから今度は俺たちが兄ちゃんを助けるよ。姉ちゃんの代わりに」
ねぇネイサン、ともう聞こえるはずがない彼女の声が聞こえた気がした。
『貴方には、貴方にしか成せないことがある。それを成し遂げるまでは後ろを振り返らないで。シワシワのお爺ちゃんになって、「いい人生だった」と自分のことを嫌いな貴方がそう言えるようになってから、また会いましょう』
これが彼女の最後の置き土産なのだと理解した。彼女はきっと、自分がいなればネイサンにはなにも残らないことを分かっていたのだろう。
家族を喪い、本音を打ち明けられる友人もおらず。
自分を慕ってくれる小さな子供たちはいるけれど、彼女のように対等な立場で隣を歩き続けてくれる人はいなかった。
彼女はいつもネイサンのそんな交友関係の狭さを指摘して、もっとたくさんの居場所を作っておいた方がいいと彼女なりの言葉で伝えてくれていたはずなのに、自分はその言葉を無視し続けていたのだ。
ジェニーさえいればそれでいい、と彼女の優しさに甘えていた。
だから、彼女はひとりぼっちになってしまった自分のために、共に歩いてくれる人たちを用意してくれたのだろう。わざわざ手紙を書いて、自分たちを引き合わせてくれた。
最後に、彼女はまた自分に生きる意味を与えてくれたのだ。
「できると思うかい? 僕に」
「赤の他人を見捨てられない、そんなお人好し過ぎる兄ちゃんにしかできねぇって」
「…ジェニーも望んでくれているかな?」
「あぁ、きっと。姉ちゃんは素直じゃないけど、本当は兄ちゃんと同じくらい優しいからさ」
「そうか…」
ネイサンは深く息を吸い吐いた。目を閉じて、最愛の人のことを想う。
そして次に目を開けた時には既に覚悟は決まっていた。
そんな場面を窓から覗いている二人の人物がいた。木の幹に腰かけて嬉しそうに微笑む女性は、隣の子供に笑いかける。
「ご苦労だった。…これで、彼女も満足だろう」
レオが杖を振ると、女性はまるで幻のように跡形もなく消える。レオは杖をしまって、もう一度前を向こうと歩き始めたネイサン・ヒドルスを見つめた。
モナはバッドエンドを望んでいなかった。だからこれが彼女にとって理想の終わり方なのだろう。
バッドエンドともハッピーエンドとも言い切れない中途半端な結末だ。これがモナ・アーネットという女性が紡いだ人生のストーリー。
復讐を望み、復讐のために生き、しかし最後に甘さを捨てきれず自ら命を絶った女性。
もしこれが小説や物語ならば、レオは意味が分からない話だと思っただろう。ころころと心変わりばかりしていて、筋が通っていないように見えるからだ。
だけど、モナ・アーネットという人間を知った今は、彼女らしいラストだなと不思議とそう思えた。