博覧会 15 (三人称)
「じゃあ今、覚えている怒りのままに僕を殺せますか?」
うっと動きが止まる。殺す? この子を?
レオは薄く微笑んで「衝動的にでも駄目なら、毒殺は無理です。毒はよくも悪くも時間がかかりすぎる」と言った。
「毒を入れる食べ物や飲み物を探す時、実際に毒を入れる時、夫が毒を飲む時、そして毒の症状に彼が苦しんでいるのを見ている時。その度に貴方は迷い、『今からでも引き返せるのではないか』と思うでしょう」
「…」
「刃物で殺すのとは違った覚悟が必要なんですよ。最後まで残忍なままでいられる覚悟が。少なくとも『殺したいか』と尋ねられて『分からない』と答える相手に使う方法じゃない」
「違う…」
「こうなるのなら、最初に解毒剤のことを話さないでいるべきでしたね。熱にうなされる夫を見て、僕に『解毒剤はないか』と尋ねない自信はありますか?」
「違う! 私は…あの人をっ…」
「では、殺せますね?」
「…っ」
モナは歯を強く噛みしめた。悔しくてたまらなかった。
言い返せない。何も反論できない。彼の言う通りだと思ってしまった。
拳を強く握り、そして――もういいか、と不意に思った。
もう疲れた。
人を憎むにはエネルギーがいる。ネイサンを憎みたくて、でも許したくもあって、そんな矛盾する想いに振り回されるのが嫌になってしまった。
「…どうしていつもこうなるのかしらね」
モナは溜め息をついて自嘲するように笑った。
「やっと上手くいきそうだと思ったらまた地獄に引き戻される。その繰り返しよ。本当に嫌になっちゃうわ」
目を閉じて、深く息を吐く。
自分はネイサンを殺せない。でも、生きている限り、自分は彼のことを許せない。
そんな苦しみを抱えながら生きるくらいなら――。
「ねぇ、レオ・アクイラ」
「はい」
「対価さえ支払えば、どんな願いであっても叶えてくれるのかしら?」
「僕に可能なことでしたらご期待に沿えるよう努力します」
「貴方の答えをお聞かせ願えますか?」とレオは尋ねた。
部屋には甘い香りが漂っていた。
モナは何の香りなのかしらと呑気に疑問に思う。花のものとも薬草のものとも言えない独特の香りだ。
しかし、決して不快なものではなく、眠気を誘うようないい香りだった。優しく、モナを死へと導く毒の香り。
「本当に構わないのですか?」
「ええ、これでいいの」
ベッドの上で枕に背を預け、書き物をしているモナにレオは話しかける。
「自死用とのことだったので、代わりに苦痛を感じないものを用意させていただきました」
「あら、別に私は蜘蛛の毒でもよかったのよ」
「熱にうなされることになっても?」
「別に構わないわ…と言いたいところだけど、この子まで苦しんでしまうものね。やっぱりこれでよかったわ」
モナは自分の腹に目を向ける。「この子には申し訳ないわね」と寂しそうに言った。
「産んでから、というのも考えたのだけど…駄目だわ。多分、顔を見たら自分を抑えられない」
「…」
「赤ん坊って簡単に死ぬのよ。それこそ、抱き上げて手を離したら、地面に頭をぶつけて死ぬ子もいるでしょうね。…こんな考えがぐるぐる頭を回ってるの。信じられないでしょう?」
「…さぁ。僕は子を持ったことはないので分かりませんね」
「その年齢で子持ちだったらビックリなのだけれど、貴方ならありえそうなのがまた怖いわね」
モナはクスクスと笑い、「それにね」と続ける。
「もしかしたら健康に産んであげられないかもしれないから。本当に信じたくはないのだけれど、私とあの人の関係を考えるとね。その可能性もない訳ではないの」
「というと?」
「父がいないのよ、私。そして私の母はかつてここの使用人だったらしいわ。貴方ならこれで察してくれるかしら」
「それは失礼を」
「いいわ。確定しているわけではないし、私の考えすぎかもしれない可能性も十分にある」
モナはペンを置いて、「書けたわ」とレオに書き終わったばかりの手紙を見せた。
「最後の一通は貴方の意見も聞きたいのだけど、どうかしら?」
「…あぁ、なるほど。よりにもよってどうして自死を選ぶのか不思議だったのですが、漸く意味が分かりました。これが貴方なりの復讐ということでしょうか?」
「あら」
「罪悪感を利用して、彼が自殺をするように仕向ける。モナさんの死後、間違いなく貴方の夫は精神的に不安定になるでしょう。そんな時、亡き妻から愛を囁く手紙を来たとなれば、自ら命を絶つこともあり得ます。素晴らしい。何年もかけて彼の心に入り込んだ貴方にしかできない暗殺方法です」
感心したように手紙を眺めるレオを見て、モナは目を丸くした。
自分の手紙を再度見つめ、「確かにそうも見えるわね」と彼女は困ったように笑う。
「違うのですか?」
「残念、不正解よ」
これはただの嫌がらせ、と答えてモナは手紙を封筒に入れた。
「愚かな女のつまらない復讐劇はこれでお仕舞い。あの人の命なんていらないわ」
「ですが…」
「中途半端だと言いたいのでしょう? でも劇や小説でもあるまいし、ドラマチックな終わりなんて必要ないの。私はこの程度のラストしか用意できない女だった。それだけの話よ」
モナは手紙をレオに渡し、「封蝋をお願いできる? 足の感覚がなくてね、もう立てないみたいだから」と言った。
レオは笑って「喜んで」と手紙を受け取る。
「父が死に、母が死に、妻も、そして知らぬ内に子供も喪った。ネイサン・ヒドルスという男は苦しむことになった。それだけの不幸が見れればもう十分。後は好きにすればいいわ」
「孤独に苦しみながら生きていけということでしょうか?」
「さて、どうかしら」
モナは「もうあの人はひとりぼっちの子供ではないから」は言った。寂しそうだとも、嬉しそうだとも思える声色だった。
「やりたいことはこれで終わり。貴方の言うとおりね。毒死ってかなり時間があるわ」
「即効性のものは苦しいものが多いですから避けさせていただきました。早い方がよかったでしょうか?」
「いいえ、急ぐ必要がなくて丁度よかった。屋敷の人たちは?」
「屋敷中に眠り薬を撒いています。明日の朝までは起きないと思いますよ。仮に意識があったとしても、貴方が息を引き取る瞬間を見届けるまで結界は解きませんから、邪魔をされる心配はないかと」
「そう。ありがとう。対価は私の全財産全てでいいのよね? ドレスは兎も角、宝石は盗品だと思われたら厄介でしょうね…まぁ、貴方なら上手くやるでしょうけれど」
「ヒドルス家に目をつけられるのはごめんですからね。遠い外国で姿でも変えて売ることにします。遺品一つくらいは残されては?」
「嫌よ。あの人のことだから、遺品なんて与えたら次はそれを依存対象にするわよ。死んでもなお心の拠り所にされるなんて冗談じゃない」
そこまで言って、モナはこほっと軽い咳をした。少しだけ息苦しさを感じて、脳の奥がズキズキと痛みだす。
「毒の効果が出始めましたか?」
「そうみたいね。でも覚悟していたよりずっとマシだわ」
モナはベッドに横になり、ぼんやりと天井を見つめる。
あぁこれが死なのか、と思った。
それほど怖いものではないのだなと他人事のように思う。もっと苦しいのだと、死の間際は後悔ばかりが頭に浮かぶのだと、そう考えていたのに杞憂に終わってしまった。こんな穏やかな死を自分が迎えるとは思わなかった。
昨日まで怒りに満ちていたはずの心は和いでいる。思い返してみれば悪くない人生だったとさえ思える。ただ、後悔があるとすれば一つだけ。…この子を愛してあげられなかったことだけだ。
「モナさん。このまま死を待つのも退屈でしょうから、僕から贈り物です」
「何かしら?」
「貴方の話、そして貴方が選んだ選択は実に興味深かった。面白いものを見せてくれたせめてものお礼です。気に入っていただけると嬉しいのですが」
そう言って、レオはモナの額に手を当てた。彼のもう片方の手には杖が握られている。
―――――想像を骨格とし、魔力を肉とし、一つの理想郷を我は所望す。一つの都、一つの国、一つの世界、その地に住む魂たちは全て我が創り上げしもの。神の御業に近き行いを執り行う。かの者は客人、最上級の持て成しを。
「本来は幻覚を見せる魔法なのですが、こういう使い方もできるんですよ。では、お二方にとってよい夢でありますように」
そう声をかけられると同時に、抗いがたい睡魔が襲って来る。
その眠気に誘われるまま、モナは眠りに落ちた。