モナ・アーネットの過去 12
「お坊ちゃんの家に住むことになったんだって?」
そう声をかけてきたのはアナだった。
店に数週間休ませ欲しいと頼んだのだが、どうやら彼女の耳にも入ってしまったらしい。店の閉店後、からかうようにそう言われたのだ。
「嫌だわ。変なこと考えないでちょうだい」
「えー? 男女が同じ屋根の下にいる訳でしょ? これがどういう意味か子供でも分かるわ」
「同じ屋根の下にいるのはこれまでも何度かあったわよ。何回彼を泊めたと思ってるの」
「で、情が移った訳だ?」
「止めてちょうだい。そういうのじゃないってば」
「素直じゃないねぇ」
アナはケラケラと愉快そうに笑う。そして、ふと真面目な顔になって「でもさ、私もお坊ちゃんがいいと思うよ」と呟いた。
「よーし、予言してあげよう。ジェニーはお坊ちゃんと恋仲になる」
「は? 何ですって?」
「ふふん、私の勘はよく当たるんだから。見てなさい。私がそう言うんだから絶対になるわよ」
「あの子供と? 私が? 冗談じゃない」
絶対に嫌、と言いきる私に「絶対にそうなるの」と言い張るアナ。
そんな彼女の様子に、私は少しだけ違和感を覚えた。
「どうしたって言うのよ。今日の貴方、何か変よ」
「…だってさぁ」
「?」
「私ね、ジェニーには普通の幸せを手に入れて欲しいの」
「普通の幸せ?」と聞き返す。どういう意味だろう。
「ジェニーはさ、今だって不幸せじゃない、って言いきるんだろうけど。世間から見れば、私たちの生活って最低辺くらいでしょ。そりゃここがお似合いだって奴は山ほどいるけど、ジェニーは違う。ここで腐ってちゃいけない人間だ」
「…意味が分からないわ」
「普通に幸せになりなよ。夫を持って、子供を持って、普通の家庭を築いてさ。別に贅沢なんかしなくていい。最低限金に困らない生活が送れて、質素でもあたたかい毎日を送れるのなら、それはすごくいいもんだろ?」
「…それを言うなら貴方だって」
「違うよ。全然違う。ジェニーと違って、私はここがお似合いなんだ。そんな人並みの幸せを願ったら罰が当たる」
「そんなことないわよ」
「あるだなぁ、これが。…例えば、ジェニーは人を殺せない。私は殺せる。これが分かりやすい違いさ」
「…」
「はは、不満げな顔。でも断言していい。ジェニーは人を殺せないよ。お坊ちゃんと同じだ。事故は仕方がないけど、明確な殺意を持って人を殺すのは無理だ。殺意と別の感情からであればまた話は違ってくるだろうけどね」
アナは昔、人を殺したことがあるらしい。アナと働き始めてすぐの頃に聞いた話だ。
あの時の彼女は、何でもないことのように「アイツが生きていたら私はずっと自由が得られなかった。後悔はしてないよ。死んだ時はせいせいしたくらいさ」と笑っていた。
それから何年かしたら「…でも、あの頃にジェニーみたいな子がいてくれば、私ももっと違う人間になっていたかもね」と言ってくれていたが。
「お坊ちゃんと幸せになりなよ。少なくともあっちは好意がありそうだけど?」
「…あの人の場合は、愛情に飢えているんでしょう。私は母親代わりみたいなものよ」
「いいじゃない。恋愛感情だって人それぞれさ。どんなに歪んだ執着だって、本人たちが恋愛だと決めてしまえば、それは立派な恋愛感情だよ」
「だけど…」
「ま、これは私の意見だ。参考程度に聞き流していいよ。好きにやってみなよ、モナ」
「…その呼び方、久しぶりね」
「あれ、この店を辞めるんなら、ジェニーの名前は捨てるんじゃないの?」
「辞めるんじゃなくて休むの。まだジェニーって名乗るわよ。この名前にも愛着があるしね。他でもない貴方がつけてくれた名前だもの、ジェシカ」
私がそう言えば、アナは懐かしそうに微笑んだ。
「ふふ。懐かしいね。モナにジェシカ。ジェニーにアナ。それぞれの名前を少し変えて、互いに贈り合ったんだ。お守り代わりに」
「ちなみにこれ、本当に効果があったの? 貴方の故郷に伝わる、幸運を呼ぶおまじないだって言うからやったのに、あんまり効果は実感しなかったわ」
「そりゃあそうだよ。でたらめだもん」
「…その頬、つねっていい?」
私をからかったの? と睨めば、彼女は肩をすくめて「だってさぁ」と続けた。
「あの時のモナは、メンタルが大分やられてたじゃない。夜の仕事になれなくて。意味のないおまじないでも慰めになるかなって思ったんだ」
心当たりがあった私は、うっと言葉を詰まらせた。
今でこそ仕事にも慣れて、ストレスもあまり感じなくなったが、最初からこうだったという訳ではなかった。
慣れない仕事。慣れない服装。慣れない相手。毎日が地獄のようだった。
そんな時に支えてくれたのがアナだ。「モナは素のままで接客するからしんどくなるんだよ。名前を少し貸してあげるから、私の真似から始めてみたら?」と助言をしてくれた。
今の自分がいるのは彼女のおかげなのだ。
「でも、いい女になったよ。"モナ"は繊細すぎた。優しすぎた。名前を変えて、別人の"ジェニー"を演じたことで強くなれただろ?」
「…まぁね」
「それでいいよ。もう暫く"ジェニー"でいな。人の弱みを握って、情報を持って、周りを動かす強い女のままでいな。…でも、もしもういいんだと思ったその時は、"モナ"に戻ってもいいんじゃないの」
アナは私に抱きつき、ニコッと笑って言った。
「子供が大好きで、本当は人を陥れることなんか大の苦手だった、優しすぎる"モナ"にさ。私はどっちのアンタも好きだったよ」
数日後。
お坊ちゃんの家は予想以上に豪邸だった。
今まで見たことがないほどの大きさの建物を前に、私は口を開けて、ぽかん…と呆ける。
隣で恥ずかしそうにしているお坊ちゃんと屋敷を交互に見て、「本当にここに住んでるの?」と尋ねた。
「派手で恥ずかしいよ。最初に建てた人も、もっと落ち着いた外観にすればよかったのにね」
「これはお金持ちとかいう次元ではないでしょ…?」
「まぁ一応、それなりに有名な家ではあるかな。僕はあまり興味がないけど」
私は再び屋敷を見上げ、「何となく察してはいたけど…」と言った。
「貴方、ただのお金持ちじゃなくて貴族だったのね」
「…貴族は嫌いかい?」
「いい印象はないわ。でも貴族だからといって全員が悪人だとも思わない」
「そう言ってくれると嬉しいな」
「別に褒めてはないわよ」
今更だけどこんな場所に私みたいなのが来てよかったのかしら…と思いながら、お坊ちゃんに案内されて屋敷の中へ入った。
服を着替えさせられ、まずは親に挨拶をと、ある部屋に案内される。
「時々話しかけても反応がない時があるんだ。もし返事が帰ってこなくても、気を悪くしないでね」
「分かったわ」
彼の母については話を聞いている。精神的に不安定な時が多く、会話が成り立たないことも多いらしい。
もし何かあっても大丈夫なように気を引き締め、ドアをノックする。
入室の許可を得て私がドアを開けると、ベッドで横になっている年配の女性と目があった。
痩せ細った人だ。肌が死人のように青白い。
挨拶をしようと、私が口を開いたその時だった。
「…メリッサ?」
彼女は私を見てそう呟いた。
それは私の母の名前だった。