モナ・アーネットの過去 10
雨が降る日だった。
まるで嵐のような大雨が降っていて、これでは客足も少なくなるだろうと店も早くに店じまいの準備をしていた時だ。
ギィッ…とドアが開かれる音がした。
まさかこんな天気の日に客が? と少し不審に思いつつ、音が聞こえた方向に顔を向ける。
外套を羽織った、死人のような顔色をした男だった。
最初、私はそれが誰なのか気付かなかった。それほど普段の彼とはかけ離れた姿だったからだ。
ようやく目の前の男が見知ったお坊ちゃんだと分かり、私は駆け寄った。
「ちょっと! 何よ、その顔色。何が…」
言葉は途中で途切れた。
彼が私の身体を痛いほどに抱きしめてきたからだった。抵抗する暇さえなかった。抱きしめてきた彼の身体は震えていた。
「父を殺した」
私の肩に顔を埋めた彼が、ぽつりと呟く。迷子の子供みたいな不安げな声。
突然の告白に私は固まり、何と言葉をかけてやるべきなのか分からなかった。
殺したってどうして? 喧嘩でもしたの? それともずっと憎かった?
頭に浮かんできた疑問はどれも今の彼を傷つけてしまうであろうものばかりだ。私は唇を噛み、黙って彼の背中を叩いてあげた。
「お二人さん」
私たちの様子を見ていたアナが、ひどく落ち着いた声で話しかけてくる。
「ここは私たちが片付けとくから、ジェニーはその子の話を聞いてあげな」
「アナ。でも…」
「いいから。人を殺した日はね、妙に人肌恋しい気持ちになるもんなの。この子の場合、心を許してるジェニーが適任でしょ」
相談にのってあげな、ちょっとでも可哀想だと思うならさ、といつになく真剣な顔で言われ、私は少し迷った後に頷いた。私が了承したのを見て、アナは今度は彼に近付く。
「お坊ちゃん、弱ってるところ悪いけど、これだけは確認しなきゃいけない」とそう前置きし、彼女は口を開いた。
「父親を殺したのは憎しみから? カッとなって、怒りに身を任せたら、気付いたらソイツが死んでいた?」
「アナ。その質問は…」
「ジェニーは黙ってな。重要なことだし、アンタのためでもあるんだから」
この様子なのだ、犯行のことを思い出させるような発言はしない方がいいと咎めようとしたが、アナにぴしゃりと言い返されてしまった。
「…」
「自分の口で言いな。ショックで口がきけなくなった訳じゃないんだろ」
「…憎んでいた訳じゃない。殺したいなんて思ったこともないよ」
「じゃ、事故だね?」
お坊ちゃんは迷った末、小さく頷いた。故意ではないと聞いて私もほっと息を吐く。
「人を殺した感想は?」
アナの質問に私はぎょっとした。無神経な質問にも程がある。
しかし、そんな私の考えを見抜いたのか、いいから黙ってて、とアナは目で私を制した。
「…気持ち悪かった。人を…突き飛ばした、感触が…手から消えないんだ…」
「そう。気持ち悪いって感じたんなら、アンタはまだ大丈夫だ。悪いね。流石に心まで人殺しになっちまった奴と親友を二人っきりにはできないからさ」
「何も思わなかった、なんて言ったら、問答無用で殴るところだった」とアナは笑い、「はいはい。じゃあ、あとは二人でごゆっくり」といつも通りの茶化すような口調で私たち二人を店から追い出した。
「…取り敢えず、私の家へ行きましょうか」
お坊ちゃんはこくりと頷いた。
部屋の中へと入ると、温かい飲み物を渡してやった。ついでに、雨に濡れた彼のために拭くものを渡す。
自分の分の飲み物も淹れて、私は彼が自分で話し始めるのを待った。
「…喧嘩になったんだ。予想していたことだったけど」
「ええ。この一ヶ月間?」
「うん。今まで町に行っていたこともバレてね、『あんな汚れたところへ行くな』と言われたよ。そんなことを言う人が自分の父だなんて思いたくなかったな」
「それで?」
「部屋にほとんど軟禁状態。庭に出るのでさえ、父の息がかかった使用人が付いてくる」
「それは息苦しいわね」
「本当に。今まで結構好きにしてきた分、しんどかったかな。…それで、僕も我慢の限界が来て。父の書斎に乗り込んだんだ」
最初は言い争いだけだった、と暗い声で彼は続ける。
「父は…元々気性が荒い人でね。今まで僕は手をあげられたことがなかったんだけど、使用人に当たったりするのはよくあることだった。母も何回か殴られたことがあったんじゃないかな」
「…」
「どれだけ言っても考えを改めない僕に、父も嫌気が差してきた頃だったんだろう。初めて殴り付けられたよ。それもランプを使って、頭からだ」
「…怪我は?」
「実はまだちょっと危ない。頭は痛いし、歩けばふらついてる。医者からは絶対安静だと言われてるんだけど、あの家じゃ気が休まらないから、ここに」
「そう…」
「続けるね。一回目はまだ僕も意識があった。だけど、また父が手を振り上げるのが見えて。二回も殴られたら、自分も死ぬんじゃないかって思った。だから…思わず突き飛ばしたんだ」
正当防衛だったと言えるだろう。手を出したのはあちらが先だ。それを回避する行動を咄嗟にとってしまうのは仕方がないことのはずだ。
「当たりどころが悪かった、って医者が」とお坊ちゃんは語った。
「運悪く、本棚に父の頭が当たったんだ。そんなに酷く打ち付けたようには見えなかった。でも父が倒れて、それから一向に動かなくて…それでも、死ぬだなんて思わなかった」
「不運な事故ね」
「…そうかな。僕が殺したようなものかもしれない」
「事故よ。それ以外の何物でもないわ」
私ははっきりと言い切る。それでもお坊ちゃんは顔をあげなかった。
「母が泣いてるんだ。毎日、気絶するように眠りに落ちるまで一日中。気分の浮き沈みが激しい人だから、心を落ち着かせる薬を処方してもらっていたんだけど、父が死んでから、それを過剰な程飲んでる」
「…副作用がすごそうね」
「ヒステリック気味に暴れられるよりかは、副作用の倦怠感でベッドにいてもらった方が助かるけどね」
「言うわね。貴方にしては珍しい」
「うん、ちょっと疲れてるのかも」
満足に眠れていなかったのだろう。そう言って弱々しく笑った彼の目元には薄い隈がある。
背中を丸めて溜め息をつく彼は、たった一ヶ月で一気に老け込んだように見えた。
「一番簡単で、健康的な現実逃避の方法を教えてあげましょうか」
「…何?」
「寝ることよ。ろくに眠れていない人間はろくなことを思い付かないの」
全く手をつけない飲み物を彼の手から奪い取り、無理矢理ベッドに横にならせる。その上から毛布を被らせ「動けば、虫、五匹分ね」と軽く脅した。
「寝たら少しは考えが整理されるわ。私の目から見て、今の貴方は正気とは言えない。普段通りに考えられるようになってから、この件は悩みましょう」
毛布の上を軽く、一定の間隔を置いて叩く。小さい頃、母が自分を寝かしつけてくれる時にやっていたことを真似した。
こうしてもらうと、何故か落ち着いてよく眠れていたのだ。
暫くして穏やかな寝息が聞こえてくる。
「本当に、どうして全うに生きている人ばかりがこんな目に遭うんでしょうね」
恨みたいような世の中だわ。私はそう独り言を呟いた。