モナ・アーネットの過去 8
「僕ってこんなに何もできなかったんだ…」
「今更ね」
意気消沈した様子で呟く彼に、私は軽く返事を返す。
最初から分かっていたことだ。彼とここの子たちとでは、生活が違い過ぎる。体力も価値観も、身に付けてきた知識の種類も違う。
まぁそれを考慮しても、彼の場合は世間知らず過ぎるとは思うが。
「あんな小さな子も働いてるんだね」
洗濯物を干すのを手伝っている、四歳の少女を見ながら、彼はぽつりと言った。
「いいな。賑やかで」
羨ましがる声だった。貧しくとも互いに声をかけ合い、必死に生きている彼らを眩しそうに彼は見つめている。
「僕、こういう賑やかな家族に憧れてたんだ。今の家じゃなくて、こんなところに生まれていたら、僕も、もっと違う人間になっていたかな」
「…」
「そうしたら…君みたいな人間になれたかな」
我慢の限界だった。
「歯、食いしばりなさい」
そう言うと同時に、私は彼の頬を殴っていた。ごっ、と鈍い音が鳴った。
お坊ちゃんは雷に打たれたように固まった。何が起こったのか分からない、といった顔だ。
「一か月前、五歳の子が死んだわ。笑顔が可愛い子だった」
彼は片手で殴られた頬を押さえ、呆然とこちらを見つめている。
「え…?」
「自分は親の顔も知らないし寂しいと思うこともあるけど、ここが自分の居場所だって言ってた。生まれた時は恵まれなかったかもしれない、でもこれから皆と幸せになるんだって」
「…」
「でも死んだわ。ただの風邪でよ。栄養不足で体力がなくて、医者にもかかれなくて。最後の遺言は兄弟、姉妹への感謝だった」
優しい子だった。そして強い子だった。
生まれた環境に文句を言うこともなく、料理が好きで、家事の仕事を率先してやっていた。
いつか自分のお店を持って、兄弟姉妹たちをお腹一杯食べさせてあげたい、と夢を語っていた。
「そんな悲惨な死を迎えていい子じゃなかった。あの子がもしこんなところじゃなくて、もっと裕福なところに生まれてたら、今も元気に走り回っていて、きっといい人生を送れていた」
それでも死んだ。呆気なく。
嫌なほど知っていたはずだ。この世界はそんな優しい場所じゃない。善人であれば幸せになれるなんて約束されていない。
それでも思わずにはいられなかった。冷たくなった彼女を見て。
どうして彼女や母のような人間が、死ななければならないのと…思わずにはいられなかった。
「…貴方の家みたいなところに生まれていたら、助かったのよ」
彼は顔を歪めた。唇を噛み、気まずげに視線を落とす。
沈黙が落ちた。何て言葉を返せばいいのか、分からないのだろう。
私は溜め息をついて、笑みを浮かべる。
「貴方は自分が思うよりずっと幸せな環境にいることを知りなさい。勿論、何の苦労もない幸せばかりの人生とは言わないわ。子供の貴方がそう思うのなら、貴方の両親は親の鏡とは言えないような人たちなんでしょう」
「…うん」
「それでも、好きではなくとも家族がいる。暴力を振るわれていない。三食食べれる。贅沢ができる。こうやって家出する自由も時間もある。自分は恵まれているのだと自覚した方がいいと思うわ」
「…そうだね」
君たちの気持ちを考えてなかった、無責任なことを言ってごめん、と沈んだ声で謝罪された。
まだ怒りが込み上げてきている。今まで飲み込んできた小さな不満が、溜まりに溜まって爆発してしまったのかもしれない。
それでもこれ以上彼にぶつけるべきじゃないと、私はその激情を飲み込んだ。
「ひっでぇー。ジェニー姉ちゃん、容赦ねぇー…!!」
視線を向ければ、先ほどまで洗濯物をしていた子供たちがこちらを見ていた。
「平手打ちじゃなくて、グーでいったぜ。グーで」
「あれは本気の拳だね」
「だから男ができねぇんだよ。顔は美人なのに」
「勿体無いねー」
「ジェニー姉ちゃんと結婚できる奴は、絶対マゾじゃないと無理」
「分かる」
「言えてる」
「並みの男なら逃げ出す」
「同感」
言いたい放題だ。「聞こえてるわよ」と睨めば、彼らはニヤニヤと笑いながら洗濯へと戻っていく。
私は視線をお坊ちゃんへと戻し、「それにね」とビシッ! っと彼を指差した。
「貴方の性格は貴方のせい。家庭環境のせいにするのはどうかと思うわよ」
「う…」
痛いところをつかれたのか、彼は眉を下げた。
私はそんな彼に手を伸ばし、頭をガシガシと乱暴に撫でる。
驚いた表情を浮かべるお坊ちゃんに、にっと私は笑った。
「どうしようもないことを嘆いていても仕方がないわ。重要なのはこれからどうするかよ。…これから変わっていけばいいじゃない」
「変われるかな?」
「変われるわよ。きっとね」
「…うん。ありがとう」
彼は嬉しそうに微笑んだ。