モナ・アーネットの過去 5
「…ここは?」
「起きたのね。私の部屋」
お坊ちゃんが漸く目を覚ましたのは深夜だった。
外は既に真っ暗。目が覚めたのなら出ていけ、と追い出せるような時間帯でもない。これは本当にそのまま泊まらせることになりそうだ。
彼はキョロキョロと部屋を見回す。
固いベッドに、机に椅子。そして小さなクローゼット。それだけの家具で部屋のほとんどが埋まっている。
掃除は頻繁にしているから清潔ではあると思うけど、彼からすれば信じられないくらい狭い部屋だろう。
先程店内を見て言っていたことを思い出し、「狭いね、なんて言ったら窓から放り投げるから」と言えば、彼はキュッと口をつぐんだ。
「店で寝落ちしたのよ。泊めてあげたんだから感謝しなさい」
軽く事情を説明してやれば、徐々に思い出してきたのか、すまなそうな顔をする。
「…ごめん」と沈んだ声で謝罪された。そして、彼は机で書きものをしている私を見つめてくる。
「何やってるの?」
「見れば分かるでしょ。勉強」
机に広げていた本を蝋燭に照らして彼に見せる。
仕事を終えた後。眠気が襲ってくるまで本を読み、知識を蓄えるのが私の習慣だった。
「昔は勉強する暇がなかったの。だから遅れた分をこうやって取り返しているのよ」
「勉強? 君はもう働いているじゃないか。今でもどうにかなっているなら、勉強の必要なんて…」
お坊ちゃんは不思議そうな顔をした。その様子を見て私は「馬鹿ね」と鼻で笑い、本に目を落とす。
「こんな仕事、二十五を過ぎればできなくなるわ。誰だって歳を取る。皺は増えるし、肌は荒れるし、体力は落ちる。別に若さが魅力の全てとは言わないけど、若い時のようには扱ってもらえなくなるでしょう」
だから数年後に他の仕事ができるように少しでも準備しておくの、と言えば彼は黙り込んだ。
「…強いね、君は」
「打たれ強さしか取り柄がないのよ」
「そんなことないよ。逆境でも前を向ける人は、きっと誰よりも素晴らしい人だと思う」
「あら。素敵な言葉をどうもありがとう」
お世辞でも嬉しいと笑顔で受け流せば、彼は「…本当にそう思ったんだけど」と拗ねた顔をした。こういうところはやはり子供らしい。
「…ねぇ。どうやったら、君みたいに強くなれるの?」
「さぁ」
「…真面目に聞いてる」
「真面目に答えてるわ。分からないわよ。私は貴方じゃないし、貴方が精神的に強くなれる方法なんて知る訳ないじゃない」
「君はどうやって強くなったの?」
「思春期特有の悩みに付き合ってあげられるほど、私は暇じゃないの。親に相談しなさい」
「…」
「オーケー。今のは配慮が足りなかったわ。複雑な家庭環境なのよね」
「…別に」
「その返しは肯定しているようなものよ」
彼は視線をそらしてうつ向いた。既に察してはいたが、家の話題は地雷らしい。
反抗期からの夜遊び、家出、なんて可愛いものならよかったんだけど。彼には彼なりの色々な苦悩があるのだろう。
「人生相談するならもっと立派な大人に聞きなさいな。悪い大人を信用したら、ろくなことにならないわよ」
「…君から聞きたい」
「…本当、何でここまで懐かれたのかしら」
私は溜め息をついて、書き物を続けていたペンを置く。ちゃんと答えてやらないと話が終わらなさそうだ。
「どうして強くなったのかと言われても、貴方が聞きたいと思うような理由なんてないわ。生きるためには早く強くならないといけなかったから、ただそれだけよ」
「生きるために…?」
「親が殺されたの。七歳の時にね。強盗みたいなものに襲われて」
「…」
「その日からかしら。私は子供でいることを諦めたの。何も知らないまま、純粋なままでいられるのは子供の特権よ。でも子供のままじゃこの世界では生きていけない」
「それは…悲しいことだね」
「そんなことないわ。どんな子供もいつかは大人にならなきゃいけない。色んな事情や感情を抱えて、心根が綺麗とは言えなくなった大人にね。それになるのが私はちょっと早かっただけよ。大したものじゃないわ」
そう言えば、彼は口を閉じた。考え込むように難しい顔をして、やがて「それでも、僕は悲しいことだと思うよ」と言う。
「だって、君の言い方だと大人になったら戻れないみたいじゃないか。大人になったら辛いことや苦しいことがあっても、当たり前に乗り越えなきゃいけないって聞こえる」
「…そういうものよ」
「そうなの?」
「ええ。貴方もいつか分かるわ」
「…そう。難しいね」
「そうね」
そこで会話は途切れた。彼は「ベッドを借りてごめんね。せめて僕は椅子か床で寝るよ」と立ち上がろうとする。
しかし、まだ酔いが残っていたのだろう。立ち上がった途端にふらついて派手に転んだ。ゴンッと痛そうな音が鳴る。
「…ごめん」
静寂の後、気まずそうな彼の声が聞こえた。
「…ふ」
「笑わないでよ」
「だって…っ…まさかこの雰囲気が転ぶなんて…思わないじゃないっ…」
どうにか笑いを堪えようとするものの、肩が震えてしまい彼に気付かれてしまった。「いいわよ。笑わせてくれたお礼。一晩寝床を貸してあげるわ」と頬を膨らませる彼をベッドに押し戻す。
恥ずかしかったのか、寝転がった彼は壁の方を向き、こちらに背を向ける。そのまま寝るつもりなのだろう。
「…家族と向き合う勇気がない僕は。まだ大人になれそうにないね」
寝落ちする寸前、彼は小さくそう呟いた。