モナ・アーネットの過去 2
「この本読んで」
「またこのお話? 本当に好きなのねぇ。子供にはちょっと残酷なお話だと思うんだけど」
「怖いけど好きなの!」
レオフェルド・ダ・ヴィルトの最後の文学作品『小さな殺人鬼』。
死んだ初恋の相手を生き返らせるため、死神と共に主人公のジャックが人を殺す話だ。しかし、実は死神がジャックを騙しただけであり、人を殺したからと言ってその人は生き返る訳ではない。
死神は騙されやすいジャックを最初は面白がっていたが、次第に不憫に思い、最後に彼が死ぬ時にその初恋の相手の姿となってキスをしてあげる。
「僕は君のために何かできたかな?」「ええ、とても。ありがとう」そう会話をし、ジャックは満足して死を迎える。
バッドエンドなのかハッピーエンドなのか分からない、そんな不思議な結末のお話。
私は何故かこの物語がお気に入りだった。眠る前はいつも母に読み聞かせをねだっていた。
「どうしてジャックは人を殺したの?」
「どうしても愛しい人に会いたかったのね。駄目なことだって分かっていても、何かしていないと自分の心が壊れてしまいそうになったのよ」
「どうして死神は最後に、夢を見せたの?」
「真実がいつも素敵なものだとは限らないもの。残酷な真実が人を傷付けることもあって、優しい嘘が人を救うこともあるわ」
「ふぅん…」
子供向けの物語ではなかっただろう。だが、その物語は妙に印象に残った。
「私もね、お母さんがいなくなったらジャックみたいになるよ。死神にでも何でも契約する。お母さんが帰ってきてくれるなら」
一番感情移入できるのはやはり主人公だった。大切な人が亡くなって、人を殺すまで狂ってしまった人。
父がいないこともあってか恋愛というものに夢を持っていなかったので、生き返らせたい人を初恋の相手でなく母と重ねた。
母が死んだら。そう思うと主人公の気持ちが分からないこともなかった。
「モナ。死者は生き返らないの。自分の身を犠牲にするなんてことしちゃ駄目よ」
「どうして?」
「貴方の人生は貴方のものなんだから」
「でも、死んで、皆から忘れられちゃったら寂しいよ」
「大丈夫よ。人はそう簡単に誰かのことを忘れたりしないわ。誰かが覚えていてくれる限り、死者はその人の心に生き続ける。だからね、モナが時々私のことを思い出してくれたら、お母さんはそれで十分なの」
そう言ってくれていた。
転機というものは、ある日突然訪れる。何の前触れもなく。当たり前だと思っていた幸せは呆気なく崩れ去るのだ。
私が七歳の頃だった。夜にお母さんと寝ていると、家の外から大人の声がしたのだ。複数人、全員若い男だった。
お母さんはすぐさま飛び起きて、来た、と言った。
当時の私には何のことか分からなかったが、彼女はきっと、いつかこの日が来ることを覚悟していたのだろう。
その瞬間ドアがノックされる。彼らは道を尋ねたいから開けてくれ、と言っていた。
「モナ。起きなさい」
まだ寝惚けている私を起こし、お母さんは私をクローゼットの中に隠した。
「何があってもここから出ては駄目よ。絶対に。モナのことはお母さんが守るからね」
何がなんだか分からなかった。真剣な顔をするお母さんが怖くて、何が起こっているのか尋ねることもできなかった。
暫くして、ダンッダンッとドアが蹴られる音が聞こえてきた。
「止めてください。ドアが壊れます」
ドアがあと少しで壊れる…という時になって、お母さんは外にいる人たちに話しかけた。そしてドアを開け、落ち着いた様子で「何か御用でしょうか?」と言う。
「メリッサ・アーネットだな」
「…人違いではありませんか? そのような方は存じ上げません」
「髪色と容姿。特徴は一致している。捕まえろ」
男たちが取り押さえようとする音が聞こえる。
「家の中を捜索し…」
リーダー格の男はそう言いかけて言葉を切った。次の瞬間、ドンッと壁に何かが刺さる音がする。
「…その斧を床に置け。静かにしていれば悪いようにはしない」
「嫌よ。大人しくしてても、生かしておく気なんてないんでしょう。ただの平民が貴族に歯向かったんですもの。"あの方"の性格なら殺せと命じるはずよ」
強気な言葉とは対照的に、お母さんの声は震えていた。それでも気丈に振る舞おうとしている。
「そんなにこの指輪が大切? なら、草の根をかき分けて探すことね」
そう言って、彼女は窓から指輪を投げたようだった。「探せ!」と叫ぶ声がする。何人かが慌ただしく去っていく足音が聞こえた。
「この女っ!!」
「嫌だわ。あの方に私が味わわされた苦しみに比べれば、これくらいの復讐、可愛いものでしょう? …っ…ねぇ…?」
人が倒れた音がした。激痛に悶える声が上がる。
斧が床に転がる音。その斧を誰かが拾う音。
少しして、ガンガンッと何度も何かが打ち付けられる音が聞こえた。その振動で家がガタガタとなる。
そして、静寂に包まれた。
「…手こずらせやがって」
男の、吐き捨てるような声が聞こえた。お母さんの声は聞こえなくなった。
私は恐怖で動けなかった。何が起こっているのか、頭の理解が追い付かなかった。クローゼットの外から聞こえる音全てが恐ろしかった。
十分ほどして、男たちの会話が聞こえてきた。
「見つかりました」
「本物か?」
「はい。ヒドルス家の紋章が刻まれていますし、間違いないかと」
「…そうか。では夜が明ける前に出るぞ」
そんな会話の後、馬が走り去っていく音が聞こえて、漸く私はクローゼットから恐る恐る外に出た。
「お母さん?」
血の匂いが部屋に充満していた。明かりがない部屋の中は暗くて、ここからだとよく見えない。
だけど、月明かりに照らされている窓の側に、赤い血の海が広がっているのが見えた。
「ねぇ、お母さん。どこにいるの? 部屋が赤いよ」
私は血の水溜まりの上を歩いた。裸足で歩いたその感触は、ぞっとするほど気味の悪いものだった。足に何かが当たった。
私は足元を見下ろした。
「…お母さん、どうして真っ赤なの?」
この夜。私の母は惨殺された。