博覧会 11 (三人称)
残酷な描写、流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
『お母さんの髪はお星様みたいね』
『モナもお揃いよ』
『うん! お母さんとお揃い!』
母と揃いの髪がモナの自慢だった。腰まで伸びた母の髪は、日の光を当てるとキラキラと眩しく輝いていて、童話で出てくるお姫様みたいだとよく思っていた。
『どうして髪を切っちゃったの?』
『んー…家事に邪魔だったのよ。変?』
『ううん。格好いいよ。格好いいお母さんも綺麗』
『ふふ。モナは私の代わりに髪を伸ばしてちょうだいな。モナの髪を結うのが毎日の楽しみなの』
『うん、いいよ』
ある日、母はそんな髪を短く切ってしまった。まるで男のような髪型で驚いたからよく覚えている。
今なら分かる。金がなかったのだ。だから髪を売ったのだろう。そうやって女手一つでモナを育ててくれた。
「…? 大丈夫かい?」
「…ちょっと考え事をしていただけよ。何だったかしら?」
ネイサンの声で現実に引き戻された。二人で夕食を食べている最中だ。
「そう? それでね、その子が泣き出してしまって。自分にはお母さんもお父さんもいない、いらない子なんだって」
モナが続きを催促すれば、ネイサンは孤児院での話を再開する。彼の話を聞き流しながら、モナは過去に思いを馳せる。
『お母さん、私は生まれてよかった?』
『…突然どうしたの?』
『だってね、皆が言うの。私にお父さんがいないのは、事情っていうのがあるからだって。私はきっと愛されない子なんだって』
優しい人だった。大好きな母だった。
だからこそ、こんな自分が娘でよかったかと尋ねたことがある。自分という存在のせいで彼女が苦労していることは、子供ながらに分かっていたから。
「それは可哀想ね」
「そうだね」
「親がいないというのは寂しいことでしょうから。その子はどうなったの?」
「血が繋がっていなくても自分たちは家族だと、歳上の子たちが抱き締めてあげたんだ。僕は感動してしまって」
そんな風に不安になった時、母は決まって抱き締めてくれた。『いらない訳ないでしょう』とはっきりと否定して。
『愛しているわ、モナ。私の可愛い娘』
いつもそう言ってくれていた。その言葉にどれだけ救われていたことか。…あんな風に死んでいい人ではなかったのに。
「美しい兄弟、姉妹愛じゃない」
「ああいう人の温もりがある孤児院がもっと増えればいいんだけど」
「それでまた来週も行きたい訳ね」
「う…だって子供は可愛いじゃないか。『来週も来る』って約束してしまったから…。君を蔑ろにする気はないんだよ」
「どうぞお好きに。ついでに他所で好い人でもつくってきたら?」
「またそんな冗談を…。僕が真に受けたらどうするつもりだい?」
「どうもしないわよ」
「…焼いてくれたっていいじゃないか」
「可愛げのない女でごめんなさいね」
冷たくあしらえば、ネイサンは拗ねたような顔をした。
「うーん…どうやったら君は僕のことを好きになってくれるのかな?」
「さぁ? 宝石やドレスはそろそろ飽きてきたわ」
「じゃあ何か欲しいものはある?」
「強いていうなら現金」
「うん…夢がないなぁ」
欲しいものと言われてパッと思い付いたものを言えば、彼は渋い顔をした。そう言われても、変なものを貢がれるより結局現金が一番楽なのだ。アクイラ家の子供に払う分にも回せるし。
「宝石は売りに行くのが面倒なのよ。ドレスも換金しにくいし」
「売る気があるって堂々と言っちゃうんだね…。僕としては身につけて欲しいんどけどな」
「私が男としての魅力を感じない以上、貴方の魅力なんて経済力だけよ」
「うわぁ…流石にちょっと傷付く…」
左胸に手を当てて、傷付いたという手振りをするネイサン。しかしそんなことを言う割に、本気でショックを受けてはいないようだ。
仕方がないと苦笑して「現金…現金かぁ…別にいいんだけど、贈り物としてはなんだかなぁ…」と呟いている。そんな姿を見て、モナは思わず口を開いた。
「もし私が男だったら、私みたいな女はさっさと見切りをつけるわ。面倒臭いもの。財布扱いされてヘラヘラしてる貴方って理解しがたいわね」
自分の言動は好ましい態度とは言えないだろう。それはモナ自身自覚しているし、あえてそういう態度をとっているところさえある。
それでも彼はモナに愛想を尽かすことなく、今でも側に置いている。それがモナには理解できなかった。
「ジェニーだからさ」
ネイソンは、はっきりと言い切る。
「僕だって他の人が相手なら距離を置くよ。人柄ではなく肩書きや財産目的で言い寄られても、虚しい気持ちになるだけだからね。でも、ジェニーは違うだろう?」
「…」
「君はいつもそう言うけれど、一度だって本心から欲しがったことはないはずだ。ただ高価なものを欲しがるだけの人間はね、君みたいな目をしていないんだよ。それくらいは僕にだって分かる」
「…医者に目を診てもらった方がいいわね」
「ふふ、いっそのこと君をお金で買えたら話は早かったんだけど。なかなか落ちてくれない」
「当たり前よ。石ころや布で買えるような安い女になったつもりはないわ」
何がおかしかったのか、ネイソンは嬉しそうに笑った。
「君が側にいてくれると安心するんだ。そんな風に思える人は他にいなかったんだよ。本当に」
そしてモナの手を握り、懇願するように言う。
「君が隣にいてくれるなら、どんなものでも払うよ。お金でも、何でも。僕が差し出せるものなら全て」
だからこれからも一緒にいてくれるかい、と尋ねられる。先程まで強く主張していたのが嘘のように、頼りない声だった。捨てられるのを恐れているような震えた声。
きっと。他の女であれば心を動かされていただろう。でも自分の心はそう易々と渡してやれるほど、軽くもなく、綺麗でもない。
「そうね」とモナは冷ややかに笑う。繋ぎ止めるために差し出せるというのが、物質的なものばかりだなんて。哀れな男だと嘲りながら。
「命でも? 私が貴方の心臓を望んだら、えぐり出してくれるのかしら?」
どうせくれるというのなら。
目を細めて笑いながら、手に持っていたフォークを彼の心臓を向ける。
それならもらってやってもいい、と半分本気で言えば、彼はキョトンと呆けた顔をした。
「…? 口説いてる?」
「妄想力がたくましい人間はこれだから嫌なのよね」
「ジェニーの冗談って独特だよね」
「母親代わりは御免だわ。貢がれるのは好きではないし、さっさと自立してちょうだいな」
「努力するよ」
違う意味で鈍い人、と呆れながらモナは溜め息をついた。
その後。夕食を終えて、廊下を歩いている時のことだった。前にいた使用人がモナたちに気付き、慌てて頭を下げようとする。
しかし、運悪くその近くにあった陶器にぶつかってしまった。孤児院から持って帰ってきた花を生けた花瓶だ。
花瓶は床に落ち、破片が辺りに飛び散る。
「も、申し訳ありません!!」
叱責されると思ったのだろう。彼女は青ざめて、すぐに片付けようと素手で破片に触れる。
モナが使用人に駆け寄り「慌てなくていいわ。箒か何かで…」とその行為を止めようとした時。「いたっ…」と短い悲鳴が上がった。
鋭い破片が使用人の肌に刺さったのだ。傷口から赤い血が流れ出る。
その血を見た途端、モナの脳裏にかつての光景が蘇った。
『何があってもここから出ては駄目よ。絶対に。モナのことはお母さんが守るからね』
『お母さん?』
『ねぇ、お母さん。どこにいるの? 部屋が赤いよ』
『…お母さん、どうして真っ赤なの?』
最後に見た母は、頭から斧で殴り付けられ、血塗れでこと切れた姿だった。
目を見開き、口を大きく開け、絶叫した表情のまま固まっていて。部屋中が血の海で…。
「ジェニー!! 落ち着いて息を…」
あの時の恐怖が心を埋め尽くす。怖かった。恐ろしかった。優しく温かかった母が、冷たい死体に変わっていく様を自分は見続けることしかできなかった。
心臓が嫌な音を立てている。手足が痺れる。音が聞こえなくなって、視界が暗くなる。
そのままモナは気を失った。
嫌な夢を見た。いつものことだ。血を見て意識を失ったり、母のことをよく思い出した日はそういった夢を見る。
子供の姿に戻った自分が、血だらけの母から延々と責められる夢。
「どうして貴方が生きてるの」
「私は死んだのに」
「貴方が死ねばよかったのに」
そう言われて、ずっと叩かれる。自分は泣きながら許しを乞うことしかできない。
夢なのに痛みを感じる。夢だと分かっているのに、その痛みが、これは現実ではないのかと錯覚させる。
その度にこれは夢だと自分に言い聞かせる。でも、と思う。
夢だとしても、本当に母はこう思っているのではないかと、そんなことを考え始める。
母が叩く、殺された恨みをモナにぶつける。モナは痛みに耐えて、うずくまりながら呟く。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい。貴方を守れなくてごめんなさい。貴方に守られてばかりでごめんなさい」
「殺します。あの人を殺すから。だから許してください」
生前の母はこんなことを言う人ではなかったと分かっているのに。夢の母に責められる度に憎悪と焦燥感は膨らんでいく。
母は復讐を望んでいるのだと、今ではそうとしか思えなくなってしまった。
そんないつも通りの悪夢を見た。
モナは目を開けてゆっくりと瞬きを繰り返した。
「平気かい?」
横にはネイサンが、心配そうな表情を浮かべて座っている。
「…寝言は言っていた?」
「いいや。…魘されてはいたけど」
「ならよかった」
「またお母さんの夢を見ていたのかい?」
「ええ、いつも通り苦しそうだった」
身体を起こし、額に手を当てる。まだ頭がぼんやりとしていた。
血を見ると倒れるようになったのは母が死んでからだ。血の赤を見る度にあの光景がフラッシュバックし、どんな場所や状況下であろうと関係なく気を失う。
「貴方が運んでくれたの。いつも悪いわね」
「気にしなくていいよ。君が悪い訳じゃない」
「どうにかしたいとは思っているのだけど…こうも多いと嫌になってくるわ」
「強盗に母親が殺されたところを見たんだろう? 無理もないさ。使用人のあの子もすごく心配していたよ。自分が血を見せたせいでと泣きそうになっていた」
「それは申し訳ないわね。悪い癖みたいなものだから気にしないよう言っておいて」
そんな深刻なものじゃないわ、と強がるモナにネイサンは眉を寄せる。
「君のお母さんが亡くなったのは、君のせいではないよ。医者だってそう言っていただろう」
「私の感情は私のものよ。過去をどう思うのかも私の勝手。他人が口を出さないで」
「ジェニー」
「いいのよ。この感情だけは忘れるべきものじゃない。…忘れられる訳ないじゃない」
「…」
「この感情を含めての私よ。これがなかったら、私は私じゃなくなってしまうもの」
パチンと音が鳴った。ネイサンがモナの頬を手で叩いたのだ。
「いい加減にしなさい。死者は死者で、過去は過去だ。どれだけ君が悔やもうと死者が生き返ることはないし、過去に戻れる訳でもない。乗り越えるしかないんだよ」
「…」
「どうしようもないことを嘆いていても仕方がない。重要なのはこれからどうするかだ。そう僕に教えてくれたのは君だろう」
「…よく回る舌だこと」
「君自身が感情の整理をつけようと努力しない限り、君は過去に捕らわれたままだ。そんな精神状態ではいつか限界が来る。幸せになれる訳がない」
「貴方が! 私の幸せを決めないで!!」
怒りが込み上げてきた。モナは震える手で、彼の胸ぐらに掴みかかる。
「幸せですって?! 貴方にだけはっ…私が、どんな思いで…」
唇を噛み締めた。貴方にだけは言われたくない。
叶うことならこのまま心臓を突き刺してやりたい。一番苦しい方法で殺してやりたい。血を見れない自分の身体が憎らしい。
でも…今はその時じゃない。
モナは手から力を抜いた。ダランッと腕が揺れる。「ジェニー?」とネイサンのいぶかしむ声がした。
「…出ていってちょうだい。暫く一人にして」
困惑するネイサンを無理矢理追い出し、ドアの鍵を閉める。ドアの外からネイサンの呼ぶ声がしたが、それも十分もすると聞こえなくなった。
モナはドアから離れ、ベッドに倒れ込む。
「綺麗事よ」
絞り出すような声で言う。
「重要なのはこれからどうするか? 笑えるわね。だから、これから貴方を殺すんじゃない」
「いつまで…その綺麗事が言えるのか見物ね」と、そう震えた声で呟いた。