博覧会 1
「どうして生まれてきたの」
身体が重かった。息苦しさを感じて目を開ければ、暗闇の中に女性の姿が浮かび上がる。
黒髪に隠れて顔は見えない。しかし、いつものように泣いているんだろうな、と容易に予想がついた。
彼女が横になっている俺の首を絞めていた。指に力が込め上げられていき、意識が朦朧とし始める。
「死んでよ。死んで。私は生きていたい」
「…」
「私が何をしたっていうの?」
抵抗はしなかった。彼女には俺を殺す権利がある。殺したいのならば、このまま首の骨でも折って息の根を止めればいい。
「お願いだから、死んで」
ただ、もう手遅れだ。今更俺が死んだところで、貴方が助かる訳ではない。
貴方はもう死んでいるのだから。
そこで夢から覚めた。
窓から朝日が差し込んでいる。身体を起こせば、昨日読みかけていた本が腹の上に置かれたままだった。
息苦しかった原因はこれか、と思いながら本をどかす。
「…久しぶりに見たな」
一時期は頻繁に見ていた母親の夢。歳をとるごとに見る頻度は減ってきていたが、今日は久方ぶりに見た。この身体に生まれ変わってからは初めてではないだろうか。
首を絞めたり、内臓を潰したりと方法は様々だけれど、泣きながら俺への恨みを吐きつつ殺す、と内容はいつも同じだ。
今回は痛みが少ない方法なだけマシだったな、と考えていると、近くに置いていた箱からカリカリ…と音が鳴り始めた。
中身が見えないよう上に被せていた布を外し、箱の中に手を入れる。数匹の蜘蛛が指から腕へと登ってきた。
猛毒を持つとされている蜘蛛だが、皮膚を噛むこともなく、じっ…とこちらを見つめてくる。
「何だ、心配しているのか? 夢見が悪いのはいつものことだ。生まれてこの方、いい夢など見れた試しがないからな」
「…」
「これくらいで気疲れするほど柔じゃない」
蜘蛛たちは納得していないのか、そのまま動こうとはしない。その様子に苦笑して腕を箱の中へと入れる。
「幻覚魔法で洗脳したのはいいが、こうなると困るものだ。ほら、さっさと戻れ」
そう言われて、渋りながらも蜘蛛がそろそろと腕から下りる。俺はベッドから下りて支度を始めた。
昼はアリスの頼みでルークの家に行くことになっていた。エヴィが子守をしているそうだが、予想以上にルークを見守るのは忙しいらしい。
目の前を蝶が飛べばそれを追いかけ、水があれば泥水だろうと飲もうとし、店の方に入り込めば戸棚に登ろうとする。兎に角好奇心が旺盛で、行動力のある子供のようだ。
育児ってこんなに大変なの…? と以前エヴィは愚痴をこぼしていたが、仕事自体は楽しくやっているらしく、明るい笑顔を浮かべていた。
「貴白、どうやって、誤魔化したの? 花壇から、一気に、なくなって、ちょっとしか、なかった」
「『焼畑農業に興味があって燃やした』と言ったら、何故か誤魔化せた。冗談のつもりだったんだけどな。…あの人たちは、今までどうやって生きてきたんだ? 騙されやすいどころじゃないぞ」
「さぁ…あ、でも、小さい頃のレオなら、やりそう。池に、飛び込むより、マシ。だから、信じたのかも」
「記憶がない俺が、自分だと信じたくないほど馬鹿なことは分かった。ライアンの村でかなり使ったが、貴白の方はこれから増やす予定だ。そのための肥料も調合中」
「また、お花、一杯になる? あの花は、好きだから」
「いい肥料ができたら、倍くらいの量になるんじゃないか」
「そう。よかった」
アリスとそんな会話をしながら薬屋へと向かう。目的地に着いてドアを開けたところで…ぽすっと足に軽い衝撃を感じた。
ぽすっ? 首を横に傾げて足元を見下ろすと、柔らかくてぐにゃぐにゃしたものが俺の左足に張り付いている。
「ちょっとちょっとちょっと! 外は駄目だってば!!」
次にそう大声を上げて、店の奥からエヴィがこちらへと走ってきた。彼女は俺たち二人を見つけて「どうしているのよ?」と不思議そうな顔をする。
しかしすぐに、はっ…とした表情を浮かべて「それ! ルーク! 捕まえて!!」と俺に命令にしてくる。
相変わらず人への頼み方がなっていない奴だな…と呆れながら、俺は足に張り付くものーーー赤ん坊の首辺りの服をつまんで持ち上げた。
途端に、エヴィが悲鳴に近い怒声を発する。
「馬鹿っ!! そんな持ち方したら首が絞まるでしょ!! 猫じゃないんだから!!」
そのまま俺の手からルークをひったくり、息がしやすいように抱え直した。
「アンタは子供の抱え方さえ知らないの?! こうよ! こう! こうやって優しく抱っこするの!」
「知らん。二人は?」
「マリーさんたちなら奥で仕事中よ。もう…この子ったらほんのちょっっと目を離しただけで、すぐにいなくなるんだから…」
「落ち着きがないのなら、縄で柱にでも縛り付ければいいのでは?」
「…人間性が致命的に欠けてるアンタの発言、久々に聞くと本当に酷いわね。引くわぁ」
冷ややかな目で俺を睨むエヴィとは対照的に、ルークの方は何が起こっていたのか分かっていないのか、ぽけっ…と間抜けな顔で呆けている。暫くすると、うーっ、と唸って俺の方へ両手を伸ばしてきた。
ただ身体はエヴィに捕まっているため、移動することは叶わず、ずっと無意味に空中でもがいている。
「どれだけ両手を伸ばそうと動かないぞ。やるだけ徒労というものだ」
「うっ。あー」
「エネルギーの無駄。愚行。意味が分かるか?」
「赤ん坊相手に何を言ってるのよ…。ルークに変な言葉を教えないでちょうだい。まだ言葉を喋ってないんだから。記念すべき最初の言葉が『徒労』とか普通に嫌よ」
エヴィが呆れた様子で俺からルークを離れさせる。そして「マリーさんたちに挨拶するんでしょ。こっちよ」と歩き始めた。
「あら! レオ君!」
「お久しぶりです。体調の方は?」
「大丈夫! お陰様ですっかり元気よ」
「…の割には、疲れが溜まっているように見えますが」
「育児と仕事で忙しくてねぇ。ちょっと寝不足なだけだから心配ないわ。ルークのこともエヴィちゃんが来てくれるようになってから、随分楽になったし」
とっても働き者なのよ、アリスちゃんに紹介してもらってよかったわ、と彼女は微笑む。どうやらエヴィとも上手くやっているらしい。
ふぅん、と感心してエヴィの方を見れば、口を開けたままこちらを凝視しているエヴィと目が合った。
「アンタ誰?」
「お前もか。敬語を使うのがそんなに変なのか?」
「アンタにも年上の人を敬う気持ちがあったのね…?」
でも正直言ってかなり気持ち悪いわよ、とドン引きした顔で言われる。本当に失礼な奴だな。
マリーさんは俺とアリスを交互に見て、何かを思い付いたかのように、ぱっと顔を明るくさせた。
「あのね。申し訳ないんだけど、エヴィちゃんと一緒にルークを見てもらっていてもいいかしら。これから、どうしてもルーカスと一緒に行かなくちゃいけない用事があったのよ。大人の友だちに頼もうと思ったんだけどね、皆都合がつかなくて…」
「いいよ。私も、レオも、暇、だから」
「おい、アリス。勝手に返事をするな。誰が暇だと言った」
つい先程、肥料を調合している最中だと言ったばかりだろう。アリスを睨みつけつつ俺が断わろうとする前に「まぁ! 本当に?」 とマリーさんは目を輝かせて俺の手をとる。
「レオ君たちならしっかりしているし、安心して任せられるの。お願いしていいかしら?」
「いえ…僕は暇ではないので。アリスは置いていくので、好きに使ってください」
「どうしても駄目? 女の子二人だけの留守番だと心配だわ。レオ君がいてくれると心強いのだけど」
「お断りします」
「どうしても、駄目?」
「…お断りします」
ベビーシッターなどお断りだ。首を横に振りながら断わり続けるものの、マリーさんはニコニコと笑いながら「駄目?」「いいかしら?」「お願い」と言葉を続ける。
様子を見ていたアリスたちは、後ろでヒソヒソと話を始めていた。
「あれ何? アイツ、今日は調子でも悪いの? 面倒臭いからやりたくないってバッサリ言いそうなのに」
「そう? 結構、いつも、あんな感じ」
「マリーさんが苦手な訳? いい人じゃない」
「うん…? 嫌い、とか、では、ないと思う。たまに母様にも、なる、から」
「気持ち悪…。普段偉そうに威張ってるアイツがいざ狼狽えるところを見ると、面白いっていうより気味が悪いわね」
「ちょっと、可愛い、と思う」
「可愛い? あれが…?」
「ちょっと、だけ」
「可愛いって意味分かってる? アンタの好みヤバイわよ」
人の話をするなら、せめて本人がいないところで言え。「…聞こえているぞ。お前たち」と睨めば、二人は慌てて口をつぐんだ。
「ねぇ、レオ君」
「嫌です」
「ほら、ルークもレオ君が好きみたいだし。ね? ルークも"妖精さん"が好きよね?」
「う!」
「ですって」
「好かれるようなことをした覚えがないのですけど。どちらにせよ嫌です」
「お願い」
「う!」
「…」
よし、逃げよう。埒が明かないと判断した俺が脱走を試みて、部屋から出ていこうと足を動かしかけたその時。
まるで爆発音のような声量の泣き声が部屋に響いた。タイミングを狙ったかのようにルークが泣き出したのだ。
「ルークも寂しいみたいよ」
「…」
逃げるタイミングを完全に見失った。苦々しい気持ちでルークをじっとりと見るが、赤子に視線の意味など理解できるはずがない。
その後「レオ。ハンバーグ、作って、あげるから」とアリスに説得されて、ルークの面倒を見ることになった。