英雄 24 (三人称)
心臓が緊張にあまりバクバクと大きく鳴っている。吐きそうになりながら、ライアンは頭を下げた状態のまま固まっていた。
暫くして、コツコツ…と入り口からこちらへと足音が近付いてくる。レオのものだ。コツ…とライアンのすぐ前で音は止んだ。
沈黙が痛い。頭を深く下げているために、彼がどんな顔をしているのが分からず、彼が口を開くまでの一秒一秒が異様に長く感じた。
「命じたことは?」
「…」
「今一度発言を許す。三度目はないと思え。命じたことは?」
「やってないです。すみません。忘れてました。殺さないでください」
「…」
「…指の骨折とかで…勘弁してください…」
無言の圧が怖い。今日こそ俺の命日だわ…と心の中で両手を組み、ここまで育ててくれた両親に感謝の念を送った。
ごめんなさい、母さん。父さん。俺、多分この世で一番怒らせちゃいけない人の機嫌を損ねました。マジでやっちゃいけないことをしました。親不孝者でごめんなさい。
そんなことを考えていると、頭上から溜め息をつく音が聞こえてきた。
「…部下や臣下でもあるまいし、コイツが俺の命令を聞く義理もないか。つい癖でやってしまうな」
「えっ?! 許してくれるのか?!」
「反省の色が見えない。やはり…」
「反省してます! マジで反省してる!! …え、でも本当に?!」
「何だ。そんなに痛め付けられたかったのか。お前に被虐趣味があったとは初耳だ」
「ないけど?!」
部下や臣下などよく分からない単語が聞こえた気もするが、どうやら首の皮一枚繋がったらしい。
ライアンが安堵の息を吐いている間、レオは気を失っているアリスに隣に膝をついて呆れた声で言った。
「治癒する人間が倒れてどうする」
山登りの次は荷運びか…とうんざりした声で呟きながら、彼はアリスを抱き上げる。
「お前の家で寝かせる。いいな?」
「お、おう…それは別にいいけど…」
ライアンが頷けば、そのまま何事もなかったようにスタスタと出口へと向かう。ライアンも呆気にとられつつその後に続こうとしたところで、キャシーに呼び止められた。
「ちょっと?! どこに連れていくつもり?!」
甲高い彼女の大声に、レオは不快感を隠そうともせずに顔をしかめる。
「…退いていただけますか? ずっと抱えているのも手が疲れるので」
「その子を起こしてあげた方がいいわ。まだここには治療が終わっていない患者がいるのよ?」
「それが何か?」
「何かですって?! ライアン君といい、貴方といい…どうして私たちの邪魔ばかりをするの。この子が使える力が一体どれほど、崇高で素晴らしいことなのか分かって…」
レオが苛立ち、舌打ちをする音が聞こえた。空気が揺れる気配をライアンは肌で感じ、ぞくりとした寒気を覚える。
次の瞬間、部屋に強い一陣の風が吹き、キャシーの悲鳴が響いた。
思わず閉じていた目をライアンが開けると、彼女の首筋には、細い糸で巻き付かれたような赤い線が入っていた。その線から赤色が滲み、血が滴り落ちている。
「退け」
怒気をまとった声で言われ、キャシーは腰が抜けたのかその場に崩れ落ちた。
目を見開いたまま死の恐怖に震えることしかできない彼女を冷ややかに一瞥し、レオはその横を通りすぎていく。
「あれって大丈夫なのか?」
慌てて後を追いかけ、後ろを見ようともしないレオの背中にライアンは問いかけた。
「死なない程度にしておいた。コントロールが難しい室内で、あれだけ丁寧に力加減をしてやったんだ。感謝して欲しいくらいだな」
「確かにしつこい人だったけど…攻撃する程じゃ…」
「俺の道をふさいだのが悪い」
「自分勝手にも程があるだろ…」
特に気にしてもいないのか、レオは涼しい顔でライアンの言葉を聞き流している。
改めてヤバい奴だな…しみじみと思いながら、ライアンは「ちょっと止まれよ。そのままじゃ濡れるだろ」と自分が羽織っていた外套を脱いで、アリスに被せてやった。
空からはまだ容赦なく雨が降り続いている。こんな大雨に当たり続ければ風邪をひいてしまうだろう。今の自分にできることはせいぜいこれくらいだ。
早足で家へと帰る最中、ライアンは石碑のことを思い出し「結局、原因の生物って何なんだ?赤とか星とか悪魔とか…石碑の単語だけじゃ意味が分からなかったんだけどさ」とレオに尋ねた。
「噛まれたら最後、高熱に魘され患者は死を迎える。発見された事例が少なく、それが持つ毒の解毒剤はまだ開発されておらず、治療する手立てがないとされている。別名"赤い悪魔"」
レオはこちらを振り返ることなく、前を見ながら呟いた。
「深紅毒虫蜘蛛と呼ばれる、猛毒を持つ厄介な生物だ」