アリス・アクイラの過去 5
「ぅ…?」
血の嫌な匂いが辺りに満ちていた。意識を取り戻した私が最初に覚えたのは、身体中に走る激痛だった。
頬や胴体、手足にいたるまで、硝子の破片が深々と刺さっていた。
「何が…」
辺りを見回し、はっ…と息を呑む。
「父様! 母様!」
頭から流血し、廊下に倒れている二人を見つけたのだ。
二人の身体も私と同じく傷まみれで、しかも父様の方には首近くには、浅くではあるが魔法による風の怪我を負っている。
更に悪いことに、その傷口からは止まる様子もなく血が流れ出ていた。
…治療は父様の方からだ。首の傷が酷い。怪我をしてから何分経った? 出血量は? 流れ出ている血の量から考えてすぐにでも治療を始めないと。二人とも手遅れになる。どうしよう。違う、しっかりしなきゃ。大丈夫。まだ呼吸をしてる。どうしよう。治癒魔法を。早く。
頭がパニックになる。震える手で父様の首を押さえ、魔力を流した。
「お願い…止まって…死なないで…」
この人たちを失いたくない。死なせたくない。私は少しでも早く傷が塞がってくれと祈りながら、治癒魔法をかけ続けた。
「…ここはどこだ」
びくりと肩が跳ねた。もう何年も隣にいて聞きなれた声のはずなのに、赤の他人のものみたいに感じた。
「レオ…」
冷ややかな目が、こちらを見下ろしていた。本当に知らない人のようだった。冷たくて、近寄りがたくて、どこか怖い人。私の知る、レオとは違う人。
「見たところ…貴族の屋敷か? ならコイツらもあの仲間か」
彼は辺りを見回して、こちらの話を聞かない内に勝手に結論を出したらしい。
そして足元に落ちていた大きな破片を広い、父様たちの元へと歩いてきた。
父様の髪を掴み、乱暴に引っ張りあげる。そして手に持っていた破片を顎に当てた。
「楽しかったか? アイツが泣き叫ぶのを、愉快なショーにするのは」
「…」
「あぁ…アイツのことだから意地を張って、悲鳴も堪えようとしてそうだが。楽しかっただろうなぁ。お前たちはいつも、俺たちを下等生物だと見下して、俺たちをいたぶるのが何よりも楽しいようだから。…反吐が出る」
「…」
「ちっ。意識がないか。つまらない。この気取った面の皮を剥がせば、少しは面白くなるか?」
父様が答えないことが分かると、レオは途端に興味を失ったようだった。破片の鋭利な部分を、皮膚に食い込ませてそのままギリギリと力を入れていく。
「止めてっ!!」
私は彼に体当たりをして、父様を奪い取った。今でさえ助かるかギリギリの状態なのだ。これ以上怪我をさせられてはたまらない。
怖かった。目の前のレオが。得体が知れない、化け物みたいで。
泣きそうになりながらも、私は必死に父様を傷付けようとした彼を睨み付ける。
「私の父様と、母様に。手を、出さないで」
どうする。あの魔法はここで使ってしまえば、必ず二人を巻きこむ。
それに治療も必要だ。治癒魔法で癒さなければ、父様たちはすぐに死ぬ。だから二人をそのままに、彼を巻き添えにして自死はできない。
では戦う? 魔法なしで? 彼に勝てるの?
でも、やるしかないーーーー。
「…………リア?」
彼は初めて私の存在に気がついたようだった。そして目を丸くし、呆然としている。まるで…死人にでも会ったみたいな顔だった。
「何故、生きている…?」
「え…?」
聞き慣れない名前で呼ばれ、私は困惑した。レオは私を静かに凝視するばかりで、それからは一向に手を出してこない。嫌な沈黙が流れる。
言うべきか迷ったけれど、このままでは埒が明かないと私は意を決して口を開いた。
「レオ。私は、アリス。そして、この人たちは、貴方の親。…覚えてる?」
「は…? 俺に親はいない。何を言ってるんだ?」
「レオ。少しでも覚えてるのなら、抗って。父様たちを、早く、どうにかしないといけないの。レオがその状態じゃ、治療が、遅れる」
「…?」
「早く。思い出して」
戸惑う様子を見せるレオを無理矢理急かす。無茶な話だとは思うけど、今はそんなことを言っていられない。この一分、一秒に命がかかっているのだから。
「………………アリス?」
頭痛がするのか、レオが頭を押さえる。アリスと何度も確かめるように名前を呼び、屋敷の中を見回す。心当たりがあるものを探しだそうとしているようだった。
三十秒ほど経っただろうか。レオは突然、深い息を吐きながらその場にしゃがみこんだ。
「…くそっ。絶対に引っ張られないように気を付けてたのに…最悪だ」
「レ、レオ?」
「悪い。今、思い出した。本当に…」
眉を寄せ、レオが深く頭を下げようとする。しかし、すぐに父様たちを見て真剣な顔になった。
元のレオに戻ったのだと分かって、私も身体から力を抜いた。
「…謝罪は後か。俺は何をやればいい? 治療は父様からか?」
「うん」
「分かった。俺は母様から破片を抜くのと止血をする。布と…父様の書斎に薬が何個か常備されていたはずだ。取ってくる」
謝罪の暇はなさそうだと知ると、すぐさま行動を起こしてくれた。表情を和らげ、ありがとう、と私も礼を述べる。
よかった。レオが手伝ってくれるなら、きっと大丈夫。
一息ついて、父様の首に手を当て治療を再開しようとする。けど、手が震えていて上手く動かなかった。
もう安心していいのだから、早く震えを止めないと、満足に治療もできない。早く…。
「アリス。落ち着け」
そんな声がして、両目を手で塞がれる。「はい、深呼吸。息吸って。吐いて」と言われたので、その通りにすると少しだけ気持ちが穏やかになった。手の震えもマシになる。
「平気になったか?」
「うん。ありがと」
「父様の状態は危険だけど、お前の魔法なら治せるだろう。自信を持て」
分かった、と頷く。
レオは満足げに微笑むと、私の頭に手を軽く置いて「…怖い思いをさせた。ごめんな」と言い残してから、薬を取りに走っていった。