アリス・アクイラの過去 4
「アリス」
今日は雲一つない晴天で、私は庭の池に足を浸して本を読んでいた。後ろから名前を呼ばれて振り返ろうとすると、頭に何かを被せられる。花のいい香りが鼻腔をくすぐった。
「…レオ。急に、声をかけて驚かそうとするの、止めた方がいいと、思う」
被せられたのは花冠だった。小さな花を器用に束ねて、冠の形にしているのだ。「驚いたか?」と少し期待した眼差しを向けて、私に花冠を被せてきた犯人であるレオが尋ねた。
普通に渡してくれればいいのに、と綺麗な花を手に持って不満に思う。彼はわざわざ息を潜めて、背後に近付き隙あれば驚かせようとするのだ。
「驚いて、ない」と冷静に返せば、レオは、なんだ、と面白くなさそうな顔をした。
「アリスは驚かないな。ちょっとくらいリアクションをしてくれてもいいのに」
「近付いてくるの、分かった、から」
「どうして?」
「なんとなく」
「アリスはそればかりだ」
別にいいけど、と彼は笑って私の横に座る。
私は読みかけの本を閉じ、隣の彼の顔を見た。隠そうとしているみたいだが、その目元にはうっすらと隈ができている。時折眠たげにゆっくりと瞬きを繰り返していた。
「…寝れてないの?」
「三日前の夢見が悪くてな。一度見たからあと二、三週間は見なくて済むとは分かっているんだけど…なかなか安心して寝付けなくて」
「…」
「そんな顔するな。お前まで元気がなかったら、父様たちがいよいよ心配し過ぎて倒れてしまうぞ」
大分慣れたから、と色を失った顔で優しい嘘をつく彼を見て、罪悪感が胸に広がる。
…私が、もし、魔王を殺さなかったら。
レオはこうやって夢に苦しむこともなかったんだろうか。
即座に首を振ってそんな考えを振り払った。あの時に魔王を殺すことが最善だったはずだ。神父様だってそれを望んでいたし、村の人たちだってきっと望んでいてくれたはず。
魔族を統べる王を殺したとなれば、魔族たちも以前ほど簡単には人間の村に手を出せない。彼らに襲われる被害だって減っただろう。
…あれでよかったはずだ。
「アリス?」
「何でも、ない。これは?」
「花は小ぶりだが綺麗だろう? 父様に聞いたんだが、観賞のためだけじゃなくて、ちゃんと手を加えたらいい薬になるらしいんだ。お前によく似合うと思って」
「私に?」
「お前の髪色に似ているし、人を癒すこともできるんだから。アリスみたいだ」
自分みたい、と言われて私は手元の花へと目を落とす。小さいくて目立つような派手さはないけれど、純白の色が印象的な、綺麗な花。
「私は、こんなに、綺麗じゃない…」
「アリスは自己評価が低いなぁ。母様に似て美人だと思うけど」
「似てる? どこ?」
「雰囲気がふわふわしてるところが」
「褒めてる?」
「褒めてる。アリスに婚約者か彼氏ができた日には、父様が発狂しそうだ」
それはそれで見たい、とレオは悪戯っぽく笑って言った。
「俺としても…そうだな。夢の俺より強いくらいじゃないと話にならないな」
「それは…多分、かなり無理、だと思う」
「それと俺より頭がよくて稼げる奴。あ、俺が大人になったらの額で。流石にこの年齢では商売は難しいだろうから」
「なるほど…?」
「借金がある奴は…今は貴族にも見栄を張るためだけに借りてる奴がいるからな。気を付けろよ。全員を否定する訳じゃないけど、世間慣れしてないアリスの性格を考えるにそういう相手とは止めといた方がいい」
「…? 詳しいね」
「夢で落ちぶれた奴を山ほど見てる」
「なるほど」
世間に慣れてない私は、そういう人と一緒になると苦労するらしい。結婚というのがどういうものなのか、身近な例が仲のいい父様たちしかいないから実感が湧かないけれど。
「父様に勝てて、レオより、強くて、賢くて、稼げて、借金がない人。うん。分かった。覚えておく」
「お前はそれでいいのか?」
「? うん。あんまり興味、ない、から。だから、父様とレオ、が言う通りにする」
「お前なぁ…ちゃんと自分で決めろよ。お前が最終的に幸せなら俺も父様も文句はない。誰かに言われたから、じゃなくて、自分の意思で決めるんだぞ」
「ありがとう」
「アリスはそこら辺が無頓着だから、不安しかない…」
これは変な虫が付かないように父様に頑張ってもらわないとな…とレオは遠い目をして頭を抱えている。
…前の彼を殺して、よかったのだ。今のレオは違うから殺したくないけれど。あの人は魔王で、人を殺した人なのだから。
そう何度も自分に言い聞かせるのに、心に棘が刺さってしまったみたいに胸の痛みが消えなかった。
レオの夢は、日に日に酷いものになっているようだった。
これ以上家族に心配はかけたくないと、できる限り暴れたり叫ばないように気を付けていたようだ。
それでも時折我慢できずに叫ぶ声は、拷問を受けている人が漏らす悲鳴のような、悲痛なものだった。
「…っは、はは…目を潰して中をかき混ぜる、なぁ…悪趣味にも程がある…くそっ…いたぃ…」
額には汗が滲み、顔には疲労の色が見えていた。憔悴した様子で目を強く押さえ、憎々しげにレオが呟く。
様子を見に来ていた私は、ドアの前から動けなかった。彼に声をかけるべきなのか分からなかったのだ。
「…? アリス。来たのか」
「…うん。目…怪我したの?」
「いや、実際に潰れた訳じゃないだろう。見えてるし。ただ…夢に引っ張られるみたいだ。怪我をしたって、脳が錯覚するんだろうな」
「そう…」
棒のように突っ立っている私にレオが気付くと、彼は何でもない風を装って、声をかけてきた。こんな時にも気を遣わせてしまっている。
私は拳を握り締めた。歯を強く噛んでいたせいで、口に血の味が広がった。
「…ごめん。レオ」
「何が? アリスが悪いことなんて何もないだろ。夢のことは俺の問題だから気にするな」
泣きたくなった。彼に申し訳なくて。罪悪感と、自分の無力さ、不甲斐なさへの嫌悪感が混ざって、気持ちの悪い感情に吐き気が込み上げてくる。
ごめんなさい。私が殺したから。
貴方にも心があるんだって、殺したら痛いんだって、もっと早くに知っていたら。
神父様に私が少しだけでも反抗できていたら。
魔王を殺さなかったら。
レオは今、苦しまなくても済んだのかもしれない。
本当は分かってる。
魔王だった彼も、本当は死ぬべき人じゃなかったんだろうかって、そんな疑問がずっと頭から消えないの。
魔王だった貴方だって、今の貴方とそう変わらなかったかもしれないのに。悪だって勝手に決めつけて、勝手に殺して、勝手に振り回して。
ごめんなさい。
伝えたいことは一杯あるのに、その全てが喉に引っ掛かる。私には、素っ気ない謝罪だけを呟くのが精一杯だった。
「泣くなよ。平気だから」
「…でも」
「お前が何に責任を感じてるのかは知らないけど、俺は怒ってないし、謝って欲しいとも思っていない。だから泣かなくていい。分かったな?」
「…」
「あー…じゃあ、母様に頼んで氷をもらってきてくれ。冷やして麻痺させた方が違和感も楽になる。それでチャラだ」
「…うん」
声が出なかった。何をと聞かれ時、全てを話して嫌われるのが怖くなった。母様も、父様も、レオも、私の大切な人たちだった。嫌われたくなかった。
だから私はいつも逃げ続けて、目をそらし続けた。
「…アリス。前にお前が言っていたのって、"約束"のことじゃないよな?」
「約束? 何の、こと?」
「…やっぱり違うよな。いや、いいんだ。忘れてくれ」
レオは少しずつ変わっていった。変わらないところもあったけれど、本当に小さなことから少しずつ変化が現れてくる。
甘いものを食べなくなった。部屋に人の気配があると、眠れなくなった。夜にぼんやりと空を眺めていることが増えた。落ち着いた態度を取るようになった。時々乱暴な口調を使うようになった。
一つ一つは些細なことだったけれど、着実に少しずつ変わっていく。
真夜中に、窓が割れる音が響いた。続いて絶叫する声がする。レオの部屋からだ。
今までよりもずっと大きな声に、私は居ても立ってもいられずに走り出した。
ドアが無惨に吹き飛ばされていた。部屋の中に竜巻でも起こっているみたいに強い風が吹き付けてきた。
「…痛っ…!」
強い風を防ぐように顔を手で庇っていたら、肘から手首にかけて切り裂いたような傷ができていた。
「魔法…? 風の…」
すぐに治癒魔法をかけて手を治し、風に耐えながら中へと入り目を凝らす。
酷い有り様だった。家具は壊され、カーテンは破かれている。血だらけになりながら、風が巻き起こる中心にレオが立っていた。
うつ向きながら「…殺す」と憎しみがこもった声で彼が言う。
「五月蝿い。悲鳴さえ不快」
風が吹き荒れている。側によろうとするだけで、身体に小さな切り傷が無数にできた。
「"アイツ"は何よりも、誰よりも自由を望んでいた。また鎖に繋げられ、笑い物にされ、尊厳を踏みにじられ。その気色の悪い顔を剥いでも物足りない。ただ殺すのも生ぬるい」
魔力操作がちゃんとできていない。今まで魔法を使ってこなかったから、慣れていないのだろう。
よりにもよって初めての魔法が、こんな殺傷能力の高いものになるなんて。この瞬間にも事故が起こってもおかしくない。
「…まっ…て…!!…やめっ…!」
風の音にかき消されながらも、私が叫んだ、その時だった。
「アリス?」
背後から困惑した声が聞こえて、私は勢いよく振り返った。父様と母様が不安げな顔でこちらを見つめている。
「これはどういうことなの…? レオは…?」
状況をまだ理解できていないのだろう。硝子の破片が飛び散る廊下、荒れ果てた部屋、異常な強風。
事情を詳しく知らない母様たちが、混乱するのも無理はない。
「逃げっ…」
逃げて。
今のレオは正気を失ってる。夢に引っ張られ過ぎてる。今すぐに、ここから離れてーーーー。
「あぁ…本当に。不愉快極まりない」
そんなレオの言葉を合図に、風が一層強まった。部屋に置かれていた家具が容赦なくこちらへと飛んでくる。
「ぁ…ぐっ…」
硝子の破片が頬に刺さり、思わず手で顔で覆った瞬間に、ランプが頭に当たった。鈍い痛みと衝撃が脳に響く。視界が歪み、そして真っ暗になった。