英雄 21 (三人称)
ライアンは走っていた。滝のように降り続ける雨を掻き分け、荒く息をしながらも必死に足を動かす。漸く目的地の石碑へと到着する。
ライアンが生まれた時からそこにあり、今まで一度だって意識したことがなかったその石を改めてまじまじと眺めた。文章が少し、よく分からない絵が幾つか。
ライアンの手には、解読のために必要な本がない。レオに絶対に濡らすな、と釘を刺されているのだから当然だ。破ればどうなることか。
「紙に写し取るにしても、こんな大雨じゃ無理があるし…やっぱり、覚えるしかないよな…」
見たことがない文字を前に、はは…と乾いた笑いが漏れた。レオはこれを一度ちらりと見ただけで記憶したというのだから、本当に化け物だと思う。
全部は無理だ。すぐにそう理解した。分からないものを全文記憶し、家で本と照らし合わせるというやり方は不可能に近い。
かといって、一部分だけを覚えて家に帰って調べ、またここに戻ってまた覚える、という作業を繰り返せば、この大雨なのだから確実に体調を崩す。それにこのよく分からない状況下で、安易に外を出歩くのは控えた方がいいだろう。
「重要そうな単語だけ、選んで覚える。あとは絵だな」
単語選びは勘に頼るしかなかった。あとは本を流し読みし、軽く覚えた単語に似通った単語を選ぶ。脳裏に焼き付けるのは、五つが限界だった。
次に絵を見て、土の上に実際に描いてみる。よく分からない絵だった。小さな円の下に大きな円がくっついており、その間から左右に四本ずつ歪んだ線が引かれている。他は、太陽か星の形に似た図形と、人と思われる小さな円と線で描かれたもの。
「…よし」
単語と絵を覚え終わると、ライアンは踵を返し、家へと急いだ。
「母さん!! 紙!! あと、ペン!!」
「母さんは紙でもペンでもありませんよ」
「貸してください! お願いします!!」
「よろしい。全く…急いで帰ってきたらと思ったらまた飛び出して。ちゃんと身体を拭いてちょうだい」
家のドアを勢いよく開けると同時に、母に紙とペンを貸してくるように頼んだ。
ロージーは洗濯物を畳ながら呆れたように言い、その二つと共に手拭いも渡してくれた。ライアンは乱暴に身体を拭きながら、二階へと駆け上がって本を開く。
覚えた単語と絵を紙に書き出し、レオの本と照らし合わせた。
「"熱"、"星" 、"欠片"、"赤"、"悪魔"。…熱は分かるけど、他は何だ?」
必死にページをめくり、単語の意味は分かったものの、それらが何を意味するのかが分からない。またもや壁にぶつかり、ライアンは頭を抱えた。
「悪魔って…そりゃあ病気の原因とか分からない昔なら、悪魔の仕業って思ってもおかしくないけど…これって本当に役に立つのか?」
あとは絵だ。
「これは人間だよな。円に線だけだけど。何となく分かる。で、これは太陽か? いや、星か。単語に入ってたもんな。…問題はこれだ」
円が二つに、その間から生えた線。はっきり言って、子供の落書きみたいに見える。かろうじて情報から察するに生物なのだろうと分かるが、何の生物なのかは分からない。
「これが悪魔か…? 弱そうだけどなぁ…」
ライアンは、窓から山を見つめる。
「…お手上げだ。さっさと帰ってきて説明してくれ」
そう独り言を呟いた。
その頃。アリスは二人分の治療を行っていた。夫婦二人とも熱が下がらなかったのだ。
治癒前に身体に触れて体温を確認してみたが、かなりの高熱だった。汗をびょっしょりとかいて苦しげに呻いている。
…ただの病気にしては変だ。治療を続けながら、アリスはそんな違和感を感じていた。
治療がやりにくい。患者の身体に魔力を流しても、上手く魔力が巡らず、スムーズに動くための流れを作るのに大量に力を消費している。ただの病ではなく、もっと治療が複雑になる類のものが原因なのだろうと察していた。
家に帰ったらレオに相談してみよう。彼ならば何か知っているかもしれない。そう考えて一旦思考を止める。今は目の前の治療に専念しなければ。
「身体がずっと楽になりました。ありがとうございます」
「…うん、よかった」
治療が終わると、癒した二人から礼を言われた。アリスは自分の不調を気付かれないように、表情を取り繕いながら返事を返す。
…?
何だろう、と自分の手のひらを見つめた。視界が妙に霞んでいるように見える。頭が軽く痛んだ。
疲れが溜まったのだろうか、それともいつもの勘が働いているせいだろうか、とぼんやりと思う。治癒魔法の後に疲労感を覚えるのはいつものことだけれど、普段よりもずっと…。
「どうしたのかしら?」
キャシーの声に、はっ…と現実に引き戻された。彼女は不思議そうな顔をしている。アリスは慌てて「何でも、ない」と返事をした。
ただの気のせいだろうと考え直し、ライアンたちがいる家へと帰ろうとしたその時。患者の一人に呼び止められた。
「あの! …実は、数日前から具合が悪い人がいて。もし大丈夫なら彼女のことも治して欲しいのですが…」
ズキズキと頭が痛む。身体は倦怠感を感じ始めていた。魔力が少しだけではあるが流れにくくなっているのが分かる。
それでも、アリスには選択肢が一つしか残っていなかった。
「…うん。案内して」
治さなくてはならないのだから。自分にはそれしかできないのだから。"アリス"となる前の記憶が脳裏に甦る。
迷うこともなくそう答え、次の患者の元へと足を動かした。
その自分の左足首に、赤く、小さな噛み跡があることに彼女は気が付かなかった。