英雄 15 (三人称)
「今更だけど、貴白ってどんなやつなんだ?」
サイラスやレオと共に山へと入ったライアンは、隣を歩くレオに問いかける。名前は聞いたことがあるものの、実際に目にしたことはなく、詳しい情報は全く知らないのだ。ただ白くて珍しい花らしい、という認識しかない。
物知りなレオのことだから、きっと「そんなことも知らないのか」と馬鹿にした顔で詳細な情報を言ってくると思っていたけれど、ライアンの予想に反して、レオは「詳しくは分からない」と至極簡単に返事をした。
「はぁ? 分からないって…」
「どの書物にもスケッチは載っていなかった。高山植物で、白い花弁のような苞葉を持つ。星のような形だとは書かれていた。だが兎に角、発見された数が少なすぎて、その情報も確かだとは言えない」
「えっと?」
「ほとんど伝説上の植物だと言われている。その情報の多くは地方の伝承などを元にしたものだ」
「つまり、お前はお伽噺に出てくるようなやつを探しているってこと?」
「簡単に言うとな」
嘘だろ…と呆然とする。妹に自信満々に見つけると言っておいて、あるかどうかの確証さえないらしい。
「お前の自信ってどこから来るんだ…?」
「面白そうなものを見つけたから採集しておきたいと思うのは普通のことだろう」
「いや、全員がお前みたいに『こんな植物がある! ないかもしれないけど探しに行こう!』って行動できないと思うけど…」
「そうか。随分と腰が重い奴らだな」
興味が引かれたら珍しいものだろうと何だろうと手に入れる。レオの基準だとそれが普通らしい。
マジか…と驚いていたところで、前にある植物の根を大金で買い取ったと言っていたことを思い出した。なるほど…その時も今のような感覚で買おうと即決したんだろうな…。
「何に使うんだ?」
「さぁ…。いい薬になるらしいが、今のところどう使うのは決めていない」
「ふぅん…」
そんな話をしていたら、「二人とも」と先頭を歩いていたサイラスが振り向いた。
「これから先は足場が悪い。気を付けるんだぞ。特にライアンはな」
「父さん。なんで俺なんだよ。コイツは?」
「はは。レオ君は崖も登れるからなぁ。どちらかって言うと、お前の方が心配だ」
ちぇ、とライアンは唇を尖らせた。まぁレオより運動神経がいいとは思っていないけど。
サイラスの言う通り、進むにつれて次第に足場が不安定になっていった。道は狭く、横は崖になっている。崖の下を見下ろすと、地面までは落ちたら無事では済まされないほどの高さがあることが分かった。
足がすくみそうになるが、レオとサイラスは慣れたように平然と進んでいる。ライアンはぐっ…と恐怖を我慢し、二人の後を懸命に進んだ。
それが起こったのは、漸くそんな道にも慣れてきて、恐怖が薄らいでいた時だった。ふと見ると、手をついていた岩に大きな虫がいたのである。その虫はライアンの手にのった。
ライアンはぎょっとして、そして思わず勢いよくそれを手から振り払おうとした。
ガラッ、と音がした。たたらを踏む。左足にあった、しっかりとした感触がなくなった。足場が崩れたのだ。身体が横に傾く。
思わず前を歩く二人に手を伸ばす。しかし恐怖のあまり声が出ない。二人は背を向けていて、こちらにまだ気付いていないようだった。
「っ…?!」
ライアンは崖から落ち、空中に放り出された。
空が下に見えた。頭から落ちているのだ。
『いいか。受け身をとる時は、衝撃を和らげるよう努力しろ。そして取り敢えず頭は守れ。これ以上馬鹿にならないようにな』
『辛辣ぅ…』
『ろくに褒め言葉もかけられず、意中の相手に嫌われた奴が何を言う。馬鹿以外に何と呼べばいいのか。分かったな。頭は守れ。特に、ある程度の高さから落ちた場合、頭から落ちればほぼ死ぬと思え』
頭の中で、レオとの会話が思い出された。特訓中に、受け身はちゃんととれと教えられた時のものだ。パニックになりかけるも、ライアンは死に物狂いで崖の岩壁に手を伸ばした。
何かを掴んで少しでも落下するスピードを落とすためだ。またそうすることで、今の頭から落ちる体勢を変えられるはずだ。
決死の思いで岩壁に爪を突き立てる。爪が割れ、激痛が走った。痛みから生理的な涙が目に滲み悲鳴が漏れる。
「死んでっ…だまるがよっ…」
どんっと背中に衝撃が走った。脳が揺れる。ここで意識は途切れた。
ライアンは重い目蓋を開けた。身体が異様に怠く、肺に重しでも乗っけられているみたいに呼吸がしにくかった。まず目に入り込んだのは綺麗な空だ。雲がゆったりと流れている。次に、断崖絶壁が目に入った。
「うっ…ぁ」
少しずつ記憶を思い出していき、崖から落ちたのだと理解したところで身体中の鋭い痛みを感じる。特に手足が酷かった。折れているのかもしれない。
「い、きてる…」
それでもどうにか生きている。自分が呼吸していることを確認して安堵した。あの高さから落ちてよく無事だったものだ。
「はは…地獄…みたいな、特訓も…頑張ってみる、もんだなぁ…」
ライアンは身体から力を抜き、深く息を吸う。今やるべきことは取り敢えず意識を保ち続けることだ。また眠ったら最後、次に目覚める保証はない。
アリスの魔法のことを思い出す。彼女の魔法があれば、この怪我もどうにかなるかもしれない。生きてさえいれば。
そう思ってライアンは痛みに耐えながら、サイラスたちが助けに来るのを待つことにした。
「…?」
気を失っていた時間がどれくらいなのかは知らないが、ライアンは意識を取り戻してから数十分ほどが経った頃、視界の端に白い何かが見えた気がした。
それは崖の壁にあり、妙に気になったライアンは何だろうかと目をこらす。
小さな花だった。白色の。
嘘だろと驚く。いや、まさか。何故よりにもよって今、レオではなく自分が。
直感的に、それがレオの探していた植物なんだと分かった。道理で見つからないはずだ。崖の途中の、あんな人が見つけにくい場所に生えているのだから。
貴白を見つけて、まず覚えたのは嬉しさではなかった。迷いだ。レオに伝えるべきかどうか、そんな迷いが生じた。何も教えなければ二人はまだもう少しここにいてくれるのでは、とそんな卑怯な考えが頭に浮かんだのだ。
レオは、特に使い道を決めていないと言っていた。それほど切羽詰まった状態であるようにも見えない。
あれを薬にでもして、今すぐに渡さねばならない病人がいるのなら話は別だけれど、レオはただ自分の知的好奇心を満たすためだけに探しているのだ。
なら、と思ったのだ。もう少しだけ黙っていてもいいんじゃないだろうか、と。
「…」
そんな甘えと罪悪感が入り交じった感情が胸に広がる。いいのか。本当に? レオには何かと世話になった。なら、教えてやるのがせめてもの礼じゃないのか。でも…。
「お前、油断するのもいい加減にした方がいいぞ」
「れっ?!!…っだっぁ?!」
突然、側から声が響いた。
地面に仰向けに倒れるライアンを、気付いたらレオが呆れた風に見下ろしていたのだ。腰を抜かすほどに驚いたライアンは飛び起きようとして、激痛に呻き声を上げる。
「しぶとく生きているようで何より。こんなに元気な死体はないはずだからな。お前の父親が血相を変えて探していたぞ」
「お前っ…驚かすのも…タイミングってもんが…い"っ?!」
「話さない方がいいんじゃないか。…ふむ。その手の様子だと、悪あがきでもしたか。いい意味でも悪い意味でも、お前は諦めが悪いな」
今回はそれに命を助けられたようだが、とレオは愉快そうに笑っている。重傷者の横でだ。
あ、今決めた。絶対に貴白のことなんか言うもんか。その顔を見てライアンはそう決意した。
迷いなんて吹き飛んだ。痛くて泣きそうになっている人間を見てケラケラ笑っている、こんな性格が悪い奴はせいぜい苦労して花を探し回ればよいのだ。
そして彼が苦労して見つけた時は言ってやる。「まぁ? 俺は結構前から場所を知ってたんだけど?」と。ドヤ顔で。せめてもの嫌がらせだ。そう決めた。今そう決めた。
「どうした? あぁ頭を打ったのか。可哀想にな。これで脳細胞が沢山死んで、更に馬鹿になったな」
「五月蝿いっ!! 俺は馬鹿じゃないって言ってるだろ?! …っだぁあ?! いってぇぇ!! 叫んだら余計に骨に響くっ!!」
「…そんな愚行をする奴を、世間では馬鹿と呼ぶんだ」
幸運にも、どうやらレオは貴白には気付いていないようだ。せいぜい苦労して探せばいい。




