英雄 7(三人称)
「起きて」
「うわあぁぁぁ!!」
目を開けると、目前にアリスの顔があった。ライアンは悲鳴を上げてベッドの上で飛び上がる。
「朝食」とアリスは短く言うと、一階へと降りていった。その背中を見送り、はぁぁ…とライアンは溜め息をつく。二回目だけれどあの起こし方は心臓に悪い。
そこまで考えて、ふとライアンは窓の方へと目をやった。窓はぴったりと隙間なく閉じられている。ズキリと頭が痛んで、ライアンは自分の頭を押さえた。
「何か…夢を見てたような、気がするんだけどな…」
ものすごく衝撃的な、夢だったような…。どうにか思い出そうと頭を捻るが、あと少しというところで脳内にモヤがかかって思考がまとまらなくなる。まるで誰かに邪魔されているみたいだ。
一階から名前を呼ばれる。ライアンは夢を思い出すのは諦めることにして、立ち上がろうとした。
「…ぃったぁ!!」
が、何故か足がもつれて床に倒れる。頭を打ったライアンは、目に涙を浮かべて、頭を押さえながらゴロゴロと暴れた。
何が起こったんだと意識してみれば、手足が少し痺れていることに気付く。これのせいで上手く歩けないのだ。
仕方がないので五分ほど静かにしていると、やっと痺れが収まってきた。溜め息をついて立ち上がり、一階へと向かう。
「すごい音がしたけど、大丈夫かい」
「平気だよ。足がちょっと痺れてただけだ」
音が響いていたらしい。驚いた顔をしたロージーに声をかけられる。母に何てことはないと返していると、一瞬だけレオと目が合った。彼はにこりと微笑んでから目をそらす。
その仕草に違和感を覚える。でも、言語化できない。何かがおかしいと思うのに、どこがおかしいのか自分でも分からないのだ。
「どう、したの?」
「えっ…いや、何でもない」
アリスに声をかけられる。ただの気のせいだろう、と結論付け、ライアンはそう返事を返した。
今日は、サイラスとレオは山に登るらしい。貴白を探しに行くと言うレオに、子供だけでは心配だからとサイラスが付いていくと言ったのだ。アリスは留守番をすることになった。
食事の席でそう話は纏まったのだけれど。
「私も」
「お前な…。初日に体力のなさで、散々足を引っ張ったのは誰だ?」
「でも」
「山登りができる体力がついてから言え。お前がいると行動範囲が狭まるんだ。少し移動するだけで日が暮れる」
「…」
家の外で二人がそう言い合っているのを、ライアンは偶然耳にした。付いていきたいと言うアリスと、それを嫌がるレオ。
足を引っ張った自覚はあるのか、アリスは黙り込んでしまった。
山登りは想像以上にきつく、慣れない内はすぐに体力が限界を迎える。それに加えてアリスの場合は、運動の習慣がないから体力がついていないらしい。
そう言えば昨日も途中から息がきれていたな、とライアンも思い出した。村は広いため案内するだけでもかなり歩くことになる。レオは汗一つかかずに涼しい顔をしていたが、アリスは少ししんどそうだった。
確かに、あれでは邪魔になるだけかもな。というか、レオ。アイツってあんな風に喋るのか。
そう驚いたと同時に、朝に感じた違和感の理由が分かった。妙に丁寧な態度が彼らしくなくて変だと思ったのだ。何故、彼らしくないと思ったのかは不明だけれど。
もっと聞けばそれも分かるかも、とライアンは扉に更にへばり付く。息を殺し、一言も聞き漏らすまいと耳をすました。
「もう決まったことだ。話は終わりにしよう。…好奇心旺盛な鼠も来たことだしな」
「えっ…」
鼠? と首を傾げた瞬間、ライアンが張り付いていた扉が開く。バランスを崩したライアンはそのまま前に倒れる形になった。
「鼠と、仲良く楽しく遊んでいるといい」
レオはアリスに言って、家の中へと入っていく。残されたアリスとライアンは顔を見合わせた。
「さらっと鼠呼ばわりされたんだけど…」
「うん」
「もしかしなくても、アイツって、ものすごく性格悪かったりするのか?」
「うん」
山へと向かうレオとサイラスを見送ったアリスは…明らかに不機嫌になっていた。顔は変わっていない。無表情のままだ。
けれど、彼女が纏う空気が、どんよりと暗いものになっているのだ。
それを見たロージーは「あら、余程お兄さんが大好きなのねぇ」と笑っていたが、ライアンは何だかアリスの様子が気になって、家事の手伝いをしようとする彼女の外に連れ出すことにした。
「どうして、そんなに付いてきたかったんだ? 山登りなんて楽しいものじゃないぞ。そりゃあ冒険とか、獣を狩ったりするのはワクワクするけどさ、ただ花を見つけるだけなんてつまらないじゃないか」
前を歩きながら、後ろをトボトボとついてくるアリスに言う。どうせついていっても大して面白くもないさ、元気出せよ、というライアンなりの気遣いだった。
「…違う」
「?」
「私は、できるだけ、レオの、隣、にいなきゃ」
「隣に? 何で? 別に兄についていかなきゃいけないなんてルールはないだろ?」
「約束なの。前の、レオとの」
「前?」
「うん。レオは、監視、と思ってる、みたい。それも、ある。悪いこと、したら、止めなきゃ。でも、悪いこと、しなく、ても、レオを一人に、しちゃ、駄目なの」
「…? どういうことだ?」
「分からなく、て、いい。私だけ、が、知って、いれば、いいことだから」
そう言ったきり、またアリスは黙ってしまう。
また秘密ってことかよ…。彼女の様子を見て、ライアンはウンザリした気持ちになった。レオといい、アリスといい。秘密主義にも程があるし、いちいちそんな態度をとられてはこちらも反応に困ってしまう。
そう考えればイライラしてきて、ライアンは勢いよく振り返った。
「お前たちは! いい加減にな…!!」
「えっ…わっ!」
アリスはライアンが思っていたよりも近くにいたらしい。勢いをつけて振り向いたせいで、ライアンの手がアリスに当たる。アリスは驚いた声をあげて後ろに転んだ。
「あっ…ごめ…」
転ばすつもりはなかったライアンは慌てて彼女に駆け寄る。アリスはまだ状況が理解できていないのか、目を丸くしてパチパチと瞬きをしていた。
しかし、やがて自分の頭に手をあて「…ない」と呟く。彼女がかぶっていた帽子がなくなっていたのだ。
ライアンも辺りを見回し、あっ、と声を上げた。
白い帽子が地面に落ちている。そこまではよかったものの、その帽子が落ちているところは泥のあるところだった。更に運悪く…その近くに鳥がいて、鳥が帽子に関心を示し、嘴でつついたり足で踏んだりし始めた。
あーっ、とアリスとライアンは悲鳴を上げた。真っ白だった帽子がどんどん茶色く汚れ、嘴で穴を空けられていく。鳥は遊んでいるつもりなのだろうが、こちらにしてみればたまったものではない。
アリスは慌てて駆け寄り、ライアンも「しっしっ!」と鳥を追い払う。こうして、どうにか取り戻した帽子は…酷い状態になっていた。
「えっと…その…」
アリスは肩を落として、じっ…と帽子を見つめている。ライアンはどう声をかけるべきか迷った。普段話すのがテッドくらいなため、女の子の慰め方なんて知らないのだ。
「お、お前が悪いんだぞっ! 近くにいたから…!」
「…」
「…えっ、泣いて…」
アリスの顔を覗き込めば、彼女は帽子を抱き締めて、ぼろぼろと涙を溢していた。ライアンはぎょっとする。まさか泣かれるなんて思わなかったのだ。
「父様…から…プレゼント…」
「えっ、いや、その」
「…お気に入り、だった…のに…」
「分かったって! 父さんに頼んで同じものを買ってもらうからさ! 泣き止めよ!」
まるで自分が泣かせたみたいじゃないか、と思って、狼狽えながらライアンは言う。慰めるために肩を叩こうと手を伸ばし…パンッとはねのけられた。
「…嫌い」
目に涙をためながら、アリスが睨む。そして彼女はそのまま逃げていった。
彼女の言葉は、ライアンの心に深く突き刺さった。