ラスコーリニコフたちによせて
障害者施設で殺傷事件を犯して、植松被告が逮捕された。殺人を犯したのなら刑に服さなければいけない。それが法治国家である。
その一方でもちろん思想信条の自由はある──差別主義者であってもである。植松被告は「意思疎通がとれない人間は安楽死させるべき」とのテレビ局に手紙を寄せている。これに対して僕自身は共感しないが、それでも意見を自由に述べる権利はあるように思う。
どこまで反社会的な言動を認めるか、いや、そもそも反社会的とは何か、ということを考えると途端に話はややこしくなるのだ。
例えば、ガリレオの時代には地動説を唱えると宗教裁判に掛けられた。つまり何が反社会的言動なのかは時代の価値観によって左右されるのだ。短絡的に、あるいは性急に決めると「反社会的」という言葉の定義が曲解される可能性もある。繰り返しになるが、植松被告に共感するものではない。ただ自分と違う人たちを安易に排除することの危険性を考えている。なぜなら他者への不寛容という点で、植松被告と同じ論理に陥りかねない。
むしろ植松被告の発言を冷静、かつ中立的な立場で検討し、解釈しなければならないのだ。語られていない部分も含めて。何が植松被告を犯行に駆り立てたのか、「優生思想」は何に起因するのか。
これらの解明には作品論や精神分析といった「文学」研究の方法論が期待できる。動機の部分を「文学的研究」の方法で読解しなければ、似たような犯行が繰り返されることになるだろう。
ところで、植松被告のような考えをすでに知っている。ユダヤ人の金貸しを斧で殺害したあのラスコーリニコフを。ドストエフスキイの『罪と罰』に書かれた彼もまた、ユダヤ人は死ぬべきだという発想のもと、金貸しの老婆を殺害する。
「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」。これらはラスコーリニコフの考えであるが、植松被告と重ならないだろうか。
ここでドストエフスキイを神格化しようとは思わない。むしろ約150年経っても、人間は変わっていないと自覚すべきである。